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トンデモ話は奥で繋がる(18) 22.3.22

トンデモ話は奥で繋がる 「第十八夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪スピリチュアリズムの「正統性」とは⑤≫

★ コンダンニャがいなければ「仏教」はなかった?

 さて、シッダルタの教えが

 <Ⅰ> 「霊魂」という実体を明確に否定している。
 <Ⅱ> 「永遠の命」を求めることを「錯覚」だとしている。


 かどうかについて述べる前に、仏教の成立と伝承について、簡単にみ
てゆこうと思います。

 仏陀こと、ゴータマ・シッダルタは紀元前463年《異説には564年。定
説なし》にネパールとインドの国境近くに生まれています。
 一族の王子として生まれながら、自分の歓楽的な生活と、人々が病気
や老いに苦しむ姿にのギャップに心を痛め、出家して苦行の日々を送り
ます。しかし、苦行から得られるものはないと悟った後、ブッダガヤー
の菩提樹の下で瞑想している時に「真のさとり」を得たとされます。

 その主たる悟りが『縁起』と呼ばれるもので、それを得た彼自身は、

 「自分の悟った真理は難解で、通常の思考の域を超えている。この世
  の現象に執着している現世の人々には、この縁起の道理は理解し難
  いだろう。自分がこの教えを説いたところでね人々の理解が得られ
  なければ、疲労困憊するばかりで、無駄なことである。この悟りの
  喜びを抱いたまま、ここで死んでしまおう」

 としたとされます。それ程"説明のし難い"内容だったのですが、まず、
彼の同行者の五人に説いた、そのうちの一人「アニャー・コンダンニャ」
が理解したのを見て、その教えを説くことを決心したとされています。

 ★ 輪廻転生の「主体」

 「仏教」においては「輪廻転生」が大きな教義のひとつとなっていま
す。問題は、この「輪廻転生」を繰り返す「主体」にあります。

 試しにウィキペディアをひも解いてみると、「仏教の輪廻転生」に
ついて、スピリチュアリズムが言うところの「霊魂」を「我」として、
以下のようなことが書かれています

  仏教では輪廻とは「苦」であり、そこからの解脱を目的とする。

  輪廻を繰り返す「我」という主体が存在するならば、それは「常
  にあり続ける」か「いずれ消滅する」
かのどちらかである。

  もし「常にあり続ける」のであれば、「我」は永久に輪廻転生
  繰り返すことになる。

  「いずれ消滅する」のであれば、輪廻は成立しない

  故に、主体となるべき我、つまり永遠不変の魂は想定しない「無
  我」の立場
に立たない限り、輪廻を合理的に説明できない。

  輪廻とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転
  ある。

  生命自体も、物質と様々な認識機能のあつまり(五蘊)であり、
  自我とはそこから生じる錯覚にすぎない。

  それゆえ輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。

  輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあ
  と、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれるといことである。
   (以上"ウィキペディア"より抜粋、引用)
 
 というような説明がされ、まさに⑤・⑦で「心の道場」の指摘事項が出
てきます。

 しかしながら、小生には③~⑤の説明がいまひとつ納得がゆきません
むしろ「我」であるか「無我」であるかは、同一の「主体」に対する「認
識の差」
に過ぎず、「無我」であると悟ることで「解脱」するのではない
かと思いますし、シッダルタ自身もそう説いていたのではないかと思って
います。

 また、⑥以降については、言葉そのままではなかなか理解ができません。

そこで、ダライラマ十四世が1984年の春、ロンドンで行った「仏教」の講
演の内容を訳した『ダライ・ラマの仏教入門』(光文社 智恵の森文庫)
を手がかりに説明してゆこうと思います。
 小生は残念ながら、コンダンニャのレベルで理解することはできませ
んが、小生なりの解釈をしてみようと思います。

 ★ 仏教をまるごと受け継いだ「チベット仏教」 

 最初に、ダライ・ラマに代表される「チベット仏教」の位置づけについて、
簡単に触れておきます。インドに発祥した仏教は、シッダルタの没後、
約1500年の間様々な変遷を経ますが、1203年イスラム教の進入によって
寺院や僧侶が壊滅的な打撃を受け消滅してしまいます。

 そのため、日本を始めとする東南アジアに伝えられた仏教は、それ以
前の特定の時期の仏教の教えに、中国や朝鮮半島で付されてきたさまざ
まな解釈
が、その教義の重要な要素となっています。

 しかし、チベットは、インドの北に隣接していたため、インド仏教後
期の思想を、ほぼそのまま受け継ぐことができたとされ、特に後期に盛
んであった難解な仏教哲学に、さらなる考察が加えられています。

 さて、仏教自体、シッダルタの没後、様々な異なった解釈により経典
が編纂されましたが、チベット仏教は特定の教えを採用するのではなく

 「そのどれもがシッダルタが説いたものであり、様々な異なる教えは、
  彼がさまざまなレベルの人に合わせて説いた結果生じたもの」


と捉えます。そのためその教えは、特定の教義のみを選択することなく、
以下の三つのカテゴリーを包括的に含んだものとなっています。

 小乗仏教自分のみの「輪廻からの解脱」を求めるもの
   学派としては、「説一切有部」「教量部」の二派があります。

 大乗仏教…自らの悟りだけでなく、一切の命あるものの輪廻から
      の解脱
を求めるもの
   学派としては、「唯識派」「中観派」の二派があり、
    「中観派」にはさらに「自立論証派」「帰謬論証派」
    二派があります。

 密教…「仏陀」の境地を速やかに達成するための実践修行としてのタントラ
   ○所作タントラ     「蘇悉地経」
   ○行タントラ      「大日経」
   ○ヨーガ・タントラ   「金剛頂経」
   ○無上ヨーガ・タントラ 「時輪タントラ」「勝楽タントラ」
               「秘密集会タントラ」

 一方で、それらの経典の解釈の方法については、様々な見解があり、
「空」の存在の証明方法や修行方法に違いがあり、幾つかの宗派に
分かれています。

 代表的な四派が、
   ニンマ派カギュ派サキャ派ゲルク派
で、ダライ・ラマは、狭義では「ゲルク派」の僧に属しています。

 そのため、彼の教えには、仏教一般に共通する部分と、ゲルク派
特有の解釈によるものがあり、特に「空」の存在についてはゲルク派
の重視する「帰謬論証派」の考え方をとっています。

 ★ 「中点」は「実在」するか?

 さて、ここからダライ・ラマの説く「空」と「実体」について、彼
の説明をもとに、小生が理解した範囲で説明してみたいと思います。
(コンダンニャのレベルでは理解し得ていませんので、多少の誤りが
あるかもしれませんが、凡人レベルの解釈としてお許しください。)


皆さん、昔懐かしい算数の時間に「線とは点の集まり」だと教わっ
た記憶はありませんか。同様に「線」の集まりが「面」、「面」の集
まりが「立体」つまり、私たちの三次元の存在物だという訳です。

 しかし、果たしてそうだろうかと「仏教」は問いかけます。

 例えばある「線」の「中点」を正確に指し示すことが出来るでしょ
うか。「この辺りだ!」という地点はありますが、「ここだ!」と指し示
した地点には、大きく拡大すれば「ある長さ」が存在します。となれば、
「中点」はその長さ中の「どこか」に特定されなければなりません。

 しかし、どんなに小さな点でも、無限に拡大すれば「長さ」が現れ
しまいます。しかしながら、長さ「4」に対しては、中点「2」が存在
します。しかし、その「実体」は「長さが全くない」=「空」です。

 ★ 「現在」は「実在」するか?

 同じことを、「仏教」は「時間」についても問いかけます。
 私たちは、「過去」から「未来」に向かって常に「時」が流れ、経過
した時間
が存在すると感じています。これを肯定した場合、正に「今」
である「瞬間」
は過ぎ去った「2時間前」と、これらから来る「2時間後」
の「中点」にあります。

 しかし、「ここだ!」と指し示した瞬間に、既にそれは「過去」になって
しまいます。どんなにすばやく指し示そうと、必ず「ある時間を経た過去の
一時期」を指し示すことしか出来ません
。つまり、私たちの考えている「時
間」とは、全て「過去」か「未来」に二分されることになります。

 ところが「過去」か「未来」かを決めているものはと言えば、「現在」
という「空」の時間
であり、私たちは実際に「現在」に存在していると
感じています。しかし、その「実体」は「時間が全くない」=「空」です。
 だとすれば、私たちの生きている現在は時間的には「実在」しない
ということになります。

 ★ 「私」は「五蘊の集まり」

 そして、最終的には「仏教」は「私」について同じことを問いかけます。

 ここで、前述の⑥・⑦の説明にある、我々が「私」と感じているものが何
かという問題が生じます。

 仏教では、それは「色形」()、「感覚」()、「識別作用」()、「形
成力」()、「意識」()の「五つの集まり」(五蘊)から構成
されていると
します。

  「色形の集まり」(色蘊)とは、肉体そのものです。それは単なる「物質」
  の塊であって、絶えず新陳代謝を繰り返し、やがて朽果てていきます
   
  「感覚の集まり」(受蘊)とは、目で見る、耳で聞く、鼻で嗅ぐ、舌で味
  わう、身体で感じるという五つの感覚器官で感じ取るものです。「仏教」
  では、その全てが"痛み"だといいます。どの感覚も「ゆるやか」であれば
  心地よく感じるものの、強烈なものは全て"痛み"となって認識されます。
   この全ての痛みは、刻々とその強度を変えて次々と認識されていきます
  が、刺激が皆無であれば存在しませんし、同じ刺激がいつも同じように認
  識されるわけではありません


  「識別作用の集まり」(想蘊)とは、自らの知識として持っていることに対
  する反応的想念のことで、「これは本だ」「あれは鳥だ」という対象認識
  に始まり、教育により「私は科学者だ」「私は平和主義者だ」という観念
  的認識などに発展してゆきます。
   しかし、これらに対する反応も、いつも固定しているわけではなく
  「科学者」から「神秘主義者」に変化してしまうこともあります。

  「形成力の集まり」(行蘊)とは、「何かをしたい」という心の働きです。
  これも、「私」のしたいことは、自己の行動の結果によって刻々と変化
  てきりがありません。 
   例えば、「一人暮らしをしてみたい」と思って家を出た数日後、「やは
  り自宅へ戻りたい」と思ったりします。この場合、どちらが本当の「私」
  なのかを決めることはできません。

  「意識の集まり」(識蘊)とは、頭で知るのではなく、「心」で知る働き
  いいます。「猫」をみて「その実体」を感ずるのはBの「感覚の集まり」
  ですが、「かわいい猫だ」と感ずるのがこの働きです。
   そして、猫を実際に抱く時はB~Eの「蘊」が同時に働きます
   しかし、この猫が突然爪をたてて引っ掻けば、「憎らしい猫」に変って
  いまいます。

 ★ 「心の道場」の指摘と「帰謬論証派」の解釈

 さて「私」は、五蘊の全てを包括して「自分」として認識しているのですが、
今まで述べたように、全ての「蘊」は何かの「原因」による「結果」として刻
々と変化
してしています。この作用が『縁起』です。
 
 そして「時間」の中で述べたように、「私」は「実体」としては存在しない
「現在」に「存在」
しています。それでは「猫をかわいいと思っていた私」と
「猫が憎いと思った私」の分割点
は一体どこなのか。

 それに対し「帰謬論証派」
 
 『次々と同類の五蘊が、一刹那間の存在と消滅を繰り返している』

 と説きます。つまり、「私」は一刹那のどこかで『縁起』によって、
別の「五蘊」を持った「私」に生まれ変わったとするものです。この論理によ
れば、「私」には連続した「実体」はないことになり、前述の⑧・⑨の解釈と
なります。

 この部分だけをみると「心の道場」の冊子の指摘<Ⅰ>が正しそうに見えます。

 ★ 「私」は「存在」せずとも「魂」は死なず

 しかし、これをもって全ての「仏教」が「霊魂」である「主体」の存在を否
定しているというわけではなさそう
です。

 「輪廻転生」を繰り返す「主体」の解釈には派によって違っており、同じ
「大乗仏教」の『唯識派』については「全てのものの根底にある意識である「アー
ラヤ識)」を「私」として「連続して存在するもの」
としています。
 また、今まで述べてきた「蘊」を連続体としている学派もあるとしています。

 そして「帰謬論証派」についても「連続体」としての存在を否定しているの
ではありません
。自らも「帰謬論証派」の説の支持者であるダライ・ラマの説
明を要約するとこうなります。

 ① 「馬車」を例にとってあげれば、「馬車」を構成している「馬」「御者」
  「客車」の部分の中には「馬車」というものは存在せず、故に「馬車」と
  は「名ばかりの存在」である。

 ② 「人である私」は「私」を構成している「五蘊」の一つひとつの部分の
  中には「人」というものは存在せず
、故に「私」は「名ばかりの私」である。

 ③ ただし、「名ばかりの存在」であっても、その対象は確かに存在しており
  「私」が存在しないと言う意味は、それ自体で「私」と言いうる存在がない
  ということ
である。

 ④ つまり、「私という名のついた貯蔵場所」に「転生」を超えて存在する潜
  在力が存在
しており、それこそが「転生の主体」である。

 この「転生の主体」と言っている物が「霊魂」に相当するものだと考えれば、
スピリチュアリズムと対立するものではないと、小生は考えます。

 さらに、「無上ヨーガ・タントラ」では、「微細なレヴェルの連続体」として、
より明確に、ダライ・ラマはこう述べています。

 『無上ヨーガ・タントラの視点から見ると、「私」を仮設する最も基礎にある
  ものは、始まりのない昔から、自己をまとめている微細なものの集まりでな
  ければならないと説かれています。これは、意識の微細なレヴェルであり、
  微細なレヴェルの連続したものは、始まりもない昔から滞ることなく連続し
  ており
、ついには「仏陀の境地」に至るものなのです。
                …(中略)…
   私たちが死に至るとき、私たちの粗大なレヴェルは分解します。息を引き
  取る最後の日にあたって現れてくる末期の意識は光明であり、これは最も微
  細な心
なのです。この意識は私たちを来世へと導いていきます。このように、
  より微細な「心身を構成する五つの集まり」こそが、必ず時を超えて連続し
  て連続して
いくのです。』

 これが「霊魂」と同じなのかどうか?…などという論議は、小生には、観念上
の問題にすぎない
ような気がします。
  
 少々長くなりましたので、続きは次回十九夜に記載します。
目次のペーシへはこちらから

 
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プロフィール

工芸美術をやっています。2017年からスペイン語の試験を受けています。が、ドンキホーテはいまだに完読できていません。握力は小学生よりない力なし。ひっそりとこのシャバの片隅でモーニングを食べている凡人です。

るんるうん

Author:るんるうん
またの名はクマネルです。ふしぎなことが好きです。着物も好きです。

たまに、魚を捌きます。猫におしっこをかけられたこともありますし、珍しい体験もあります。

たまに-クッテネル-が記事を書きます。そちらもよろしく。

いつのまにか歳をとりました。

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