2010.03.22
トンデモ話は奥で繋がる(18) 22.3.22
トンデモ話は奥で繋がる 「第十八夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。
≪スピリチュアリズムの「正統性」とは⑤≫
★ コンダンニャがいなければ「仏教」はなかった?
さて、シッダルタの教えが
<Ⅰ> 「霊魂」という実体を明確に否定している。
<Ⅱ> 「永遠の命」を求めることを「錯覚」だとしている。
かどうかについて述べる前に、仏教の成立と伝承について、簡単にみ
てゆこうと思います。
仏陀こと、ゴータマ・シッダルタは紀元前463年《異説には564年。定
説なし》にネパールとインドの国境近くに生まれています。
一族の王子として生まれながら、自分の歓楽的な生活と、人々が病気
や老いに苦しむ姿にのギャップに心を痛め、出家して苦行の日々を送り
ます。しかし、苦行から得られるものはないと悟った後、ブッダガヤー
の菩提樹の下で瞑想している時に「真のさとり」を得たとされます。
その主たる悟りが『縁起』と呼ばれるもので、それを得た彼自身は、
「自分の悟った真理は難解で、通常の思考の域を超えている。この世
の現象に執着している現世の人々には、この縁起の道理は理解し難
いだろう。自分がこの教えを説いたところでね人々の理解が得られ
なければ、疲労困憊するばかりで、無駄なことである。この悟りの
喜びを抱いたまま、ここで死んでしまおう」
としたとされます。それ程"説明のし難い"内容だったのですが、まず、
彼の同行者の五人に説いた、そのうちの一人「アニャー・コンダンニャ」
が理解したのを見て、その教えを説くことを決心したとされています。
★ 輪廻転生の「主体」
「仏教」においては「輪廻転生」が大きな教義のひとつとなっていま
す。問題は、この「輪廻転生」を繰り返す「主体」にあります。
試しにウィキペディアをひも解いてみると、「仏教の輪廻転生」に
ついて、スピリチュアリズムが言うところの「霊魂」を「我」として、
以下のようなことが書かれています
① 仏教では輪廻とは「苦」であり、そこからの解脱を目的とする。
② 輪廻を繰り返す「我」という主体が存在するならば、それは「常
にあり続ける」か「いずれ消滅する」かのどちらかである。
③ もし「常にあり続ける」のであれば、「我」は永久に輪廻転生を
繰り返すことになる。
④ 「いずれ消滅する」のであれば、輪廻は成立しない。
⑤ 故に、主体となるべき我、つまり永遠不変の魂は想定しない「無
我」の立場に立たない限り、輪廻を合理的に説明できない。
⑥ 輪廻とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転で
ある。
⑦ 生命自体も、物質と様々な認識機能のあつまり(五蘊)であり、
自我とはそこから生じる錯覚にすぎない。
⑧ それゆえ輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。
⑨ 輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあ
と、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれるといことである。
(以上"ウィキペディア"より抜粋、引用)
というような説明がされ、まさに⑤・⑦で「心の道場」の指摘事項が出
てきます。
しかしながら、小生には③~⑤の説明がいまひとつ納得がゆきません。
むしろ「我」であるか「無我」であるかは、同一の「主体」に対する「認
識の差」に過ぎず、「無我」であると悟ることで「解脱」するのではない
かと思いますし、シッダルタ自身もそう説いていたのではないかと思って
います。
また、⑥以降については、言葉そのままではなかなか理解ができません。
そこで、ダライラマ十四世が1984年の春、ロンドンで行った「仏教」の講
演の内容を訳した『ダライ・ラマの仏教入門』(光文社 智恵の森文庫)
を手がかりに説明してゆこうと思います。
小生は残念ながら、コンダンニャのレベルで理解することはできませ
んが、小生なりの解釈をしてみようと思います。
★ 仏教をまるごと受け継いだ「チベット仏教」
最初に、ダライ・ラマに代表される「チベット仏教」の位置づけについて、
簡単に触れておきます。インドに発祥した仏教は、シッダルタの没後、
約1500年の間様々な変遷を経ますが、1203年イスラム教の進入によって
寺院や僧侶が壊滅的な打撃を受け消滅してしまいます。
そのため、日本を始めとする東南アジアに伝えられた仏教は、それ以
前の特定の時期の仏教の教えに、中国や朝鮮半島で付されてきたさまざ
まな解釈が、その教義の重要な要素となっています。
しかし、チベットは、インドの北に隣接していたため、インド仏教後
期の思想を、ほぼそのまま受け継ぐことができたとされ、特に後期に盛
んであった難解な仏教哲学に、さらなる考察が加えられています。
さて、仏教自体、シッダルタの没後、様々な異なった解釈により経典
が編纂されましたが、チベット仏教は特定の教えを採用するのではなく、
「そのどれもがシッダルタが説いたものであり、様々な異なる教えは、
彼がさまざまなレベルの人に合わせて説いた結果生じたもの」
と捉えます。そのためその教えは、特定の教義のみを選択することなく、
以下の三つのカテゴリーを包括的に含んだものとなっています。
小乗仏教…自分のみの「輪廻からの解脱」を求めるもの
学派としては、「説一切有部」「教量部」の二派があります。
大乗仏教…自らの悟りだけでなく、一切の命あるものの輪廻から
の解脱を求めるもの
学派としては、「唯識派」と「中観派」の二派があり、
「中観派」にはさらに「自立論証派」と「帰謬論証派」の
二派があります。
密教…「仏陀」の境地を速やかに達成するための実践修行としてのタントラ
○所作タントラ 「蘇悉地経」
○行タントラ 「大日経」
○ヨーガ・タントラ 「金剛頂経」
○無上ヨーガ・タントラ 「時輪タントラ」「勝楽タントラ」
「秘密集会タントラ」
一方で、それらの経典の解釈の方法については、様々な見解があり、
「空」の存在の証明方法や修行方法に違いがあり、幾つかの宗派に
分かれています。
代表的な四派が、
ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派
で、ダライ・ラマは、狭義では「ゲルク派」の僧に属しています。
そのため、彼の教えには、仏教一般に共通する部分と、ゲルク派
特有の解釈によるものがあり、特に「空」の存在についてはゲルク派
の重視する「帰謬論証派」の考え方をとっています。
★ 「中点」は「実在」するか?
さて、ここからダライ・ラマの説く「空」と「実体」について、彼
の説明をもとに、小生が理解した範囲で説明してみたいと思います。
(コンダンニャのレベルでは理解し得ていませんので、多少の誤りが
あるかもしれませんが、凡人レベルの解釈としてお許しください。)
皆さん、昔懐かしい算数の時間に「線とは点の集まり」だと教わっ
た記憶はありませんか。同様に「線」の集まりが「面」、「面」の集
まりが「立体」つまり、私たちの三次元の存在物だという訳です。
しかし、果たしてそうだろうかと「仏教」は問いかけます。
例えばある「線」の「中点」を正確に指し示すことが出来るでしょ
うか。「この辺りだ!」という地点はありますが、「ここだ!」と指し示
した地点には、大きく拡大すれば「ある長さ」が存在します。となれば、
「中点」はその長さ中の「どこか」に特定されなければなりません。
しかし、どんなに小さな点でも、無限に拡大すれば「長さ」が現れて
しまいます。しかしながら、長さ「4」に対しては、中点「2」が存在
します。しかし、その「実体」は「長さが全くない」=「空」です。
★ 「現在」は「実在」するか?
同じことを、「仏教」は「時間」についても問いかけます。
私たちは、「過去」から「未来」に向かって常に「時」が流れ、経過
した時間が存在すると感じています。これを肯定した場合、正に「今」
である「瞬間」は過ぎ去った「2時間前」と、これらから来る「2時間後」
の「中点」にあります。
しかし、「ここだ!」と指し示した瞬間に、既にそれは「過去」になって
しまいます。どんなにすばやく指し示そうと、必ず「ある時間を経た過去の
一時期」を指し示すことしか出来ません。つまり、私たちの考えている「時
間」とは、全て「過去」か「未来」に二分されることになります。
ところが「過去」か「未来」かを決めているものはと言えば、「現在」
という「空」の時間であり、私たちは実際に「現在」に存在していると
感じています。しかし、その「実体」は「時間が全くない」=「空」です。
だとすれば、私たちの生きている現在は時間的には「実在」しない
ということになります。
★ 「私」は「五蘊の集まり」
そして、最終的には「仏教」は「私」について同じことを問いかけます。
ここで、前述の⑥・⑦の説明にある、我々が「私」と感じているものが何
かという問題が生じます。
仏教では、それは「色形」(色)、「感覚」(受)、「識別作用」(想)、「形
成力」(行)、「意識」(識)の「五つの集まり」(五蘊)から構成されていると
します。
A 「色形の集まり」(色蘊)とは、肉体そのものです。それは単なる「物質」
の塊であって、絶えず新陳代謝を繰り返し、やがて朽果てていきます。
B 「感覚の集まり」(受蘊)とは、目で見る、耳で聞く、鼻で嗅ぐ、舌で味
わう、身体で感じるという五つの感覚器官で感じ取るものです。「仏教」
では、その全てが"痛み"だといいます。どの感覚も「ゆるやか」であれば
心地よく感じるものの、強烈なものは全て"痛み"となって認識されます。
この全ての痛みは、刻々とその強度を変えて次々と認識されていきます
が、刺激が皆無であれば存在しませんし、同じ刺激がいつも同じように認
識されるわけではありません。
C 「識別作用の集まり」(想蘊)とは、自らの知識として持っていることに対
する反応的想念のことで、「これは本だ」「あれは鳥だ」という対象認識
に始まり、教育により「私は科学者だ」「私は平和主義者だ」という観念
的認識などに発展してゆきます。
しかし、これらに対する反応も、いつも固定しているわけではなく、
「科学者」から「神秘主義者」に変化してしまうこともあります。
D 「形成力の集まり」(行蘊)とは、「何かをしたい」という心の働きです。
これも、「私」のしたいことは、自己の行動の結果によって刻々と変化し
てきりがありません。
例えば、「一人暮らしをしてみたい」と思って家を出た数日後、「やは
り自宅へ戻りたい」と思ったりします。この場合、どちらが本当の「私」
なのかを決めることはできません。
E 「意識の集まり」(識蘊)とは、頭で知るのではなく、「心」で知る働きを
いいます。「猫」をみて「その実体」を感ずるのはBの「感覚の集まり」
ですが、「かわいい猫だ」と感ずるのがこの働きです。
そして、猫を実際に抱く時はB~Eの「蘊」が同時に働きます。
しかし、この猫が突然爪をたてて引っ掻けば、「憎らしい猫」に変って
いまいます。
★ 「心の道場」の指摘と「帰謬論証派」の解釈
さて「私」は、五蘊の全てを包括して「自分」として認識しているのですが、
今まで述べたように、全ての「蘊」は何かの「原因」による「結果」として刻
々と変化してしています。この作用が『縁起』です。
そして「時間」の中で述べたように、「私」は「実体」としては存在しない
「現在」に「存在」しています。それでは「猫をかわいいと思っていた私」と
「猫が憎いと思った私」の分割点は一体どこなのか。
それに対し「帰謬論証派」は
『次々と同類の五蘊が、一刹那間の存在と消滅を繰り返している』
と説きます。つまり、「私」は一刹那のどこかで『縁起』によって、
別の「五蘊」を持った「私」に生まれ変わったとするものです。この論理によ
れば、「私」には連続した「実体」はないことになり、前述の⑧・⑨の解釈と
なります。
この部分だけをみると「心の道場」の冊子の指摘<Ⅰ>が正しそうに見えます。
★ 「私」は「存在」せずとも「魂」は死なず
しかし、これをもって全ての「仏教」が「霊魂」である「主体」の存在を否
定しているというわけではなさそうです。
「輪廻転生」を繰り返す「主体」の解釈には派によって違っており、同じ
「大乗仏教」の『唯識派』については「全てのものの根底にある意識である「アー
ラヤ識)」を「私」として「連続して存在するもの」としています。
また、今まで述べてきた「蘊」を連続体としている学派もあるとしています。
そして「帰謬論証派」についても「連続体」としての存在を否定しているの
ではありません。自らも「帰謬論証派」の説の支持者であるダライ・ラマの説
明を要約するとこうなります。
① 「馬車」を例にとってあげれば、「馬車」を構成している「馬」「御者」
「客車」の部分の中には「馬車」というものは存在せず、故に「馬車」と
は「名ばかりの存在」である。
② 「人である私」は「私」を構成している「五蘊」の一つひとつの部分の
中には「人」というものは存在せず、故に「私」は「名ばかりの私」である。
③ ただし、「名ばかりの存在」であっても、その対象は確かに存在しており、
「私」が存在しないと言う意味は、それ自体で「私」と言いうる存在がない
ということである。
④ つまり、「私という名のついた貯蔵場所」に「転生」を超えて存在する潜
在力が存在しており、それこそが「転生の主体」である。
この「転生の主体」と言っている物が「霊魂」に相当するものだと考えれば、
スピリチュアリズムと対立するものではないと、小生は考えます。
さらに、「無上ヨーガ・タントラ」では、「微細なレヴェルの連続体」として、
より明確に、ダライ・ラマはこう述べています。
『無上ヨーガ・タントラの視点から見ると、「私」を仮設する最も基礎にある
ものは、始まりのない昔から、自己をまとめている微細なものの集まりでな
ければならないと説かれています。これは、意識の微細なレヴェルであり、
微細なレヴェルの連続したものは、始まりもない昔から滞ることなく連続し
ており、ついには「仏陀の境地」に至るものなのです。
…(中略)…
私たちが死に至るとき、私たちの粗大なレヴェルは分解します。息を引き
取る最後の日にあたって現れてくる末期の意識は光明であり、これは最も微
細な心なのです。この意識は私たちを来世へと導いていきます。このように、
より微細な「心身を構成する五つの集まり」こそが、必ず時を超えて連続し
て連続していくのです。』
これが「霊魂」と同じなのかどうか?…などという論議は、小生には、観念上
の問題にすぎないような気がします。
少々長くなりましたので、続きは次回十九夜に記載します。
目次のペーシへはこちらから
-弟子のクッテネルがお送りします。
≪スピリチュアリズムの「正統性」とは⑤≫
★ コンダンニャがいなければ「仏教」はなかった?
さて、シッダルタの教えが
<Ⅰ> 「霊魂」という実体を明確に否定している。
<Ⅱ> 「永遠の命」を求めることを「錯覚」だとしている。
かどうかについて述べる前に、仏教の成立と伝承について、簡単にみ
てゆこうと思います。
仏陀こと、ゴータマ・シッダルタは紀元前463年《異説には564年。定
説なし》にネパールとインドの国境近くに生まれています。
一族の王子として生まれながら、自分の歓楽的な生活と、人々が病気
や老いに苦しむ姿にのギャップに心を痛め、出家して苦行の日々を送り
ます。しかし、苦行から得られるものはないと悟った後、ブッダガヤー
の菩提樹の下で瞑想している時に「真のさとり」を得たとされます。
その主たる悟りが『縁起』と呼ばれるもので、それを得た彼自身は、
「自分の悟った真理は難解で、通常の思考の域を超えている。この世
の現象に執着している現世の人々には、この縁起の道理は理解し難
いだろう。自分がこの教えを説いたところでね人々の理解が得られ
なければ、疲労困憊するばかりで、無駄なことである。この悟りの
喜びを抱いたまま、ここで死んでしまおう」
としたとされます。それ程"説明のし難い"内容だったのですが、まず、
彼の同行者の五人に説いた、そのうちの一人「アニャー・コンダンニャ」
が理解したのを見て、その教えを説くことを決心したとされています。
★ 輪廻転生の「主体」
「仏教」においては「輪廻転生」が大きな教義のひとつとなっていま
す。問題は、この「輪廻転生」を繰り返す「主体」にあります。
試しにウィキペディアをひも解いてみると、「仏教の輪廻転生」に
ついて、スピリチュアリズムが言うところの「霊魂」を「我」として、
以下のようなことが書かれています
① 仏教では輪廻とは「苦」であり、そこからの解脱を目的とする。
② 輪廻を繰り返す「我」という主体が存在するならば、それは「常
にあり続ける」か「いずれ消滅する」かのどちらかである。
③ もし「常にあり続ける」のであれば、「我」は永久に輪廻転生を
繰り返すことになる。
④ 「いずれ消滅する」のであれば、輪廻は成立しない。
⑤ 故に、主体となるべき我、つまり永遠不変の魂は想定しない「無
我」の立場に立たない限り、輪廻を合理的に説明できない。
⑥ 輪廻とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転で
ある。
⑦ 生命自体も、物質と様々な認識機能のあつまり(五蘊)であり、
自我とはそこから生じる錯覚にすぎない。
⑧ それゆえ輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。
⑨ 輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあ
と、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれるといことである。
(以上"ウィキペディア"より抜粋、引用)
というような説明がされ、まさに⑤・⑦で「心の道場」の指摘事項が出
てきます。
しかしながら、小生には③~⑤の説明がいまひとつ納得がゆきません。
むしろ「我」であるか「無我」であるかは、同一の「主体」に対する「認
識の差」に過ぎず、「無我」であると悟ることで「解脱」するのではない
かと思いますし、シッダルタ自身もそう説いていたのではないかと思って
います。
また、⑥以降については、言葉そのままではなかなか理解ができません。
そこで、ダライラマ十四世が1984年の春、ロンドンで行った「仏教」の講
演の内容を訳した『ダライ・ラマの仏教入門』(光文社 智恵の森文庫)
を手がかりに説明してゆこうと思います。
小生は残念ながら、コンダンニャのレベルで理解することはできませ
んが、小生なりの解釈をしてみようと思います。
★ 仏教をまるごと受け継いだ「チベット仏教」
最初に、ダライ・ラマに代表される「チベット仏教」の位置づけについて、
簡単に触れておきます。インドに発祥した仏教は、シッダルタの没後、
約1500年の間様々な変遷を経ますが、1203年イスラム教の進入によって
寺院や僧侶が壊滅的な打撃を受け消滅してしまいます。
そのため、日本を始めとする東南アジアに伝えられた仏教は、それ以
前の特定の時期の仏教の教えに、中国や朝鮮半島で付されてきたさまざ
まな解釈が、その教義の重要な要素となっています。
しかし、チベットは、インドの北に隣接していたため、インド仏教後
期の思想を、ほぼそのまま受け継ぐことができたとされ、特に後期に盛
んであった難解な仏教哲学に、さらなる考察が加えられています。
さて、仏教自体、シッダルタの没後、様々な異なった解釈により経典
が編纂されましたが、チベット仏教は特定の教えを採用するのではなく、
「そのどれもがシッダルタが説いたものであり、様々な異なる教えは、
彼がさまざまなレベルの人に合わせて説いた結果生じたもの」
と捉えます。そのためその教えは、特定の教義のみを選択することなく、
以下の三つのカテゴリーを包括的に含んだものとなっています。
小乗仏教…自分のみの「輪廻からの解脱」を求めるもの
学派としては、「説一切有部」「教量部」の二派があります。
大乗仏教…自らの悟りだけでなく、一切の命あるものの輪廻から
の解脱を求めるもの
学派としては、「唯識派」と「中観派」の二派があり、
「中観派」にはさらに「自立論証派」と「帰謬論証派」の
二派があります。
密教…「仏陀」の境地を速やかに達成するための実践修行としてのタントラ
○所作タントラ 「蘇悉地経」
○行タントラ 「大日経」
○ヨーガ・タントラ 「金剛頂経」
○無上ヨーガ・タントラ 「時輪タントラ」「勝楽タントラ」
「秘密集会タントラ」
一方で、それらの経典の解釈の方法については、様々な見解があり、
「空」の存在の証明方法や修行方法に違いがあり、幾つかの宗派に
分かれています。
代表的な四派が、
ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派
で、ダライ・ラマは、狭義では「ゲルク派」の僧に属しています。
そのため、彼の教えには、仏教一般に共通する部分と、ゲルク派
特有の解釈によるものがあり、特に「空」の存在についてはゲルク派
の重視する「帰謬論証派」の考え方をとっています。
★ 「中点」は「実在」するか?
さて、ここからダライ・ラマの説く「空」と「実体」について、彼
の説明をもとに、小生が理解した範囲で説明してみたいと思います。
(コンダンニャのレベルでは理解し得ていませんので、多少の誤りが
あるかもしれませんが、凡人レベルの解釈としてお許しください。)
皆さん、昔懐かしい算数の時間に「線とは点の集まり」だと教わっ
た記憶はありませんか。同様に「線」の集まりが「面」、「面」の集
まりが「立体」つまり、私たちの三次元の存在物だという訳です。
しかし、果たしてそうだろうかと「仏教」は問いかけます。
例えばある「線」の「中点」を正確に指し示すことが出来るでしょ
うか。「この辺りだ!」という地点はありますが、「ここだ!」と指し示
した地点には、大きく拡大すれば「ある長さ」が存在します。となれば、
「中点」はその長さ中の「どこか」に特定されなければなりません。
しかし、どんなに小さな点でも、無限に拡大すれば「長さ」が現れて
しまいます。しかしながら、長さ「4」に対しては、中点「2」が存在
します。しかし、その「実体」は「長さが全くない」=「空」です。
★ 「現在」は「実在」するか?
同じことを、「仏教」は「時間」についても問いかけます。
私たちは、「過去」から「未来」に向かって常に「時」が流れ、経過
した時間が存在すると感じています。これを肯定した場合、正に「今」
である「瞬間」は過ぎ去った「2時間前」と、これらから来る「2時間後」
の「中点」にあります。
しかし、「ここだ!」と指し示した瞬間に、既にそれは「過去」になって
しまいます。どんなにすばやく指し示そうと、必ず「ある時間を経た過去の
一時期」を指し示すことしか出来ません。つまり、私たちの考えている「時
間」とは、全て「過去」か「未来」に二分されることになります。
ところが「過去」か「未来」かを決めているものはと言えば、「現在」
という「空」の時間であり、私たちは実際に「現在」に存在していると
感じています。しかし、その「実体」は「時間が全くない」=「空」です。
だとすれば、私たちの生きている現在は時間的には「実在」しない
ということになります。
★ 「私」は「五蘊の集まり」
そして、最終的には「仏教」は「私」について同じことを問いかけます。
ここで、前述の⑥・⑦の説明にある、我々が「私」と感じているものが何
かという問題が生じます。
仏教では、それは「色形」(色)、「感覚」(受)、「識別作用」(想)、「形
成力」(行)、「意識」(識)の「五つの集まり」(五蘊)から構成されていると
します。
A 「色形の集まり」(色蘊)とは、肉体そのものです。それは単なる「物質」
の塊であって、絶えず新陳代謝を繰り返し、やがて朽果てていきます。
B 「感覚の集まり」(受蘊)とは、目で見る、耳で聞く、鼻で嗅ぐ、舌で味
わう、身体で感じるという五つの感覚器官で感じ取るものです。「仏教」
では、その全てが"痛み"だといいます。どの感覚も「ゆるやか」であれば
心地よく感じるものの、強烈なものは全て"痛み"となって認識されます。
この全ての痛みは、刻々とその強度を変えて次々と認識されていきます
が、刺激が皆無であれば存在しませんし、同じ刺激がいつも同じように認
識されるわけではありません。
C 「識別作用の集まり」(想蘊)とは、自らの知識として持っていることに対
する反応的想念のことで、「これは本だ」「あれは鳥だ」という対象認識
に始まり、教育により「私は科学者だ」「私は平和主義者だ」という観念
的認識などに発展してゆきます。
しかし、これらに対する反応も、いつも固定しているわけではなく、
「科学者」から「神秘主義者」に変化してしまうこともあります。
D 「形成力の集まり」(行蘊)とは、「何かをしたい」という心の働きです。
これも、「私」のしたいことは、自己の行動の結果によって刻々と変化し
てきりがありません。
例えば、「一人暮らしをしてみたい」と思って家を出た数日後、「やは
り自宅へ戻りたい」と思ったりします。この場合、どちらが本当の「私」
なのかを決めることはできません。
E 「意識の集まり」(識蘊)とは、頭で知るのではなく、「心」で知る働きを
いいます。「猫」をみて「その実体」を感ずるのはBの「感覚の集まり」
ですが、「かわいい猫だ」と感ずるのがこの働きです。
そして、猫を実際に抱く時はB~Eの「蘊」が同時に働きます。
しかし、この猫が突然爪をたてて引っ掻けば、「憎らしい猫」に変って
いまいます。
★ 「心の道場」の指摘と「帰謬論証派」の解釈
さて「私」は、五蘊の全てを包括して「自分」として認識しているのですが、
今まで述べたように、全ての「蘊」は何かの「原因」による「結果」として刻
々と変化してしています。この作用が『縁起』です。
そして「時間」の中で述べたように、「私」は「実体」としては存在しない
「現在」に「存在」しています。それでは「猫をかわいいと思っていた私」と
「猫が憎いと思った私」の分割点は一体どこなのか。
それに対し「帰謬論証派」は
『次々と同類の五蘊が、一刹那間の存在と消滅を繰り返している』
と説きます。つまり、「私」は一刹那のどこかで『縁起』によって、
別の「五蘊」を持った「私」に生まれ変わったとするものです。この論理によ
れば、「私」には連続した「実体」はないことになり、前述の⑧・⑨の解釈と
なります。
この部分だけをみると「心の道場」の冊子の指摘<Ⅰ>が正しそうに見えます。
★ 「私」は「存在」せずとも「魂」は死なず
しかし、これをもって全ての「仏教」が「霊魂」である「主体」の存在を否
定しているというわけではなさそうです。
「輪廻転生」を繰り返す「主体」の解釈には派によって違っており、同じ
「大乗仏教」の『唯識派』については「全てのものの根底にある意識である「アー
ラヤ識)」を「私」として「連続して存在するもの」としています。
また、今まで述べてきた「蘊」を連続体としている学派もあるとしています。
そして「帰謬論証派」についても「連続体」としての存在を否定しているの
ではありません。自らも「帰謬論証派」の説の支持者であるダライ・ラマの説
明を要約するとこうなります。
① 「馬車」を例にとってあげれば、「馬車」を構成している「馬」「御者」
「客車」の部分の中には「馬車」というものは存在せず、故に「馬車」と
は「名ばかりの存在」である。
② 「人である私」は「私」を構成している「五蘊」の一つひとつの部分の
中には「人」というものは存在せず、故に「私」は「名ばかりの私」である。
③ ただし、「名ばかりの存在」であっても、その対象は確かに存在しており、
「私」が存在しないと言う意味は、それ自体で「私」と言いうる存在がない
ということである。
④ つまり、「私という名のついた貯蔵場所」に「転生」を超えて存在する潜
在力が存在しており、それこそが「転生の主体」である。
この「転生の主体」と言っている物が「霊魂」に相当するものだと考えれば、
スピリチュアリズムと対立するものではないと、小生は考えます。
さらに、「無上ヨーガ・タントラ」では、「微細なレヴェルの連続体」として、
より明確に、ダライ・ラマはこう述べています。
『無上ヨーガ・タントラの視点から見ると、「私」を仮設する最も基礎にある
ものは、始まりのない昔から、自己をまとめている微細なものの集まりでな
ければならないと説かれています。これは、意識の微細なレヴェルであり、
微細なレヴェルの連続したものは、始まりもない昔から滞ることなく連続し
ており、ついには「仏陀の境地」に至るものなのです。
…(中略)…
私たちが死に至るとき、私たちの粗大なレヴェルは分解します。息を引き
取る最後の日にあたって現れてくる末期の意識は光明であり、これは最も微
細な心なのです。この意識は私たちを来世へと導いていきます。このように、
より微細な「心身を構成する五つの集まり」こそが、必ず時を超えて連続し
て連続していくのです。』
これが「霊魂」と同じなのかどうか?…などという論議は、小生には、観念上
の問題にすぎないような気がします。
少々長くなりましたので、続きは次回十九夜に記載します。
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