2012.01.02
トンデモ話は奥で繋がる(139) 24.1.2
トンデモ話は奥で繋がる 「第139夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。
≪輪廻転生 ⑨≫
★ 自ら置いた石を取り除く
一部の特異な人(?)を除いて、我々は皆、現世では幸福でありたいと願ってい
ます。しかし残念ながら、現実の世は全ての人が幸福になれるようなシステムに
はなっていないようです。
無論、その原因のひとつには『闇の勢力』の創り上げた、巧妙な権力システム
もあります。しかし一方で、現世利益だけを考えるならば、むしろ『闇の勢力』に
擦り寄っていけば幸福になれるシステム、でもあります。
そんな《この世的な幸福》では無く《心の幸福》を求めるのだ、と口では言って
みても、いざ《この世的な不幸》が訪れると、何故自分はこんな人生を選んで転
生したのだろうと、自らの運命を呪いたくなるのもまた心情です。
たった今の瞬間にも、恐らく世界中で《何故こんな不幸が必要なのか》という
嘆きが渦巻いていることでしょう。シュタイナーは、そんな悲痛な思いに答えるべく、
『照応する宇宙』の最後を、こう締めくくっています。
「 人間は、霊界にいる間に、生前獲得した全ての能力を、次の転生
における身体形成のために用いることができるようになります。
生前獲得したにもかかわらず、身体に組み込むことが出来ずに
いた全てが、新しい人生の身体を形成する力となるのです。
しかしそれだけでは無く、生前の状況に迫られて自分が犯してし
まった不正や悪を清算しようとする衝動を、自分の《原像》の中に
組み込み、そうすることによって、新たな人生において、その不正
や悪を清算できる状況に導かれるのです。
清算すべきことを清算して、自分の不完全さを補うことの出来る
状況に到るために、私達はこの世に生まれて来るのです。
ですから私達は、隠された意志に従って、必要な苦悩を求めま
す。そして、その苦悩を克服することで、かつて自分で置いた途
上の石を取り除くのです。
(…中略…)
この世の人生は、それだけを単独で取り出したり、周囲の環境、
民族、家族の働きから理解しようとする限りは、何もわかりません。
…人生が明確に把握できるのは、人間が霊と魂の世界の中で、以
前の人生の成果、精髄を身につけて、人生をこの成果の助けで新
たに形成していくのだ、と思えた時です。
(…中略…)
過ぎ去った人生を、喜びも無く眺めやり、
《 あの時の辛さは自分で用意したことだった、今の自分の慰
めようも無い気分も自分のせいだ》
と、思い悩むことが、この認識の結果なのではありません。そうで
はないのです。私達はこのように言う事ができるのです。
《 この運命の定めは、眼を過去に向けさせるだけではなく、
未来にも向けさせる。苦しみを克服したなら、その苦しみが
未来に役立つ力になるからだ。私達が苦しみを克服すれば
するほど、私達は強くなる 》
幸せの中にいると、高次の意味では受動的にしか生きられません。
幸福は、以前の人生の成果なのです。
けれども、苦悩は力を育てます。苦悩を克服することで培われた
力は、未来の生活を高めます。人生が一段一段と高まっていくため
には、死が生の中に働きかけなければなりません。
このことが分かれば、死の門を平然とくぐる事ができるでしょう。
この意味で『神智学』は理論であるに留まらず、人生の果汁であり、
力付けなのです。
この果汁と力によって、私達の魂の営みは、健やかに、力強くな
るのです。」
(ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション 3』pp336-340
《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)
★ 本物のリベンジ
いかがでしょうか。我々は、よく『因果応報』的な説話で
《 現世で悪事をすれば、必ずその報いが来る。たとえ今世で何事も
なくとも、来世でその罰を受ける 》
《 あれだけの苦しみを背負っているからには、きっと前世で相当の
罪を背負ったに違いない 》
という戒め的な展開を考えがちです。しかしシュタイナーの説に従えば、《不幸》
はもっとポジティブな選択なのです。それどころか信賞必罰的なものでさえあ
りません。
確かに、シュタイナーも《幸福は以前の人生の成果》として、幸福であることを
否定してはいません。しかし、《幸福》はあくまでも前世での努力の結果を受領す
るだけのことであって、今世での新たな成長の糧とはならないのです。
逆に、前世で犯してしまった罪、特に無意識のうちに他人を傷つけていたような
場面まで、死後の世界では《自分の身》を通じて体験験します。確かにその体
験そのものは辛い罰と感じるのかも知れません。
しかし、それは《霊界》で体験するのであって、《来世》にそのまま持ち込むの
ではないと、シュタイナーは言うのです。《霊界》ではむしろ、その体験を得たこと
によって、《それを克服し、一段階上に登る力》を得るのです。
そうであれば、(誤解を恐れずに言えば)今世で過ちを犯し、例えそれを今世の
間に償えなかった、或いは全くその必要性を感じられなかったとしても、その経
験をしなかった場合より、来世でのステップアップの力となるということです。
そして、そのステップアップを完成させる体験こそが《現世での不幸》なので
す。無論、前世での過ちから生じたものである可能性はありますが、その罰は
既に《霊界》で受けており、《現世》では自らが課した課題のひとつなのです。
もちろん、課題が大きすぎて《現世》では《不幸》に押しつぶされてしまうかも
知れません。しかし、それでもいいのです。そのまま死の門をくぐれば、さらに大
きな《それを克服する力》を得て、また《来世》に向かうのです。
《現世》では、どんなに苛酷な仕打ちを受けようが死によって中断されます。 そ
れによって《肉体》はいったん失いますが、《自我》はそのまま続きます。そしてま
たリベンジに旅立つのです。
(小泉・竹中のリベンジはニセモノでしたが、こっちのは本物です。)
それ故に、仮に自殺という方法を選んでしまったとしても、それ自体が責めら
れるわけではありません。いずれまたリベンジのための力を得て《来世》に戻っ
てくるのです。
かと言って、《死》を軽んじて、すぐに自殺に逃げ込んでもよいなどと言っている
訳ではありません。前夜でもお話ししたように、再受肉までは長い年月がかかりま
す。従って、それだけ成長するまでの期間が長くなるわけです。
むしろ問題になるのは、《自我》がその課題から逃れられると思い込んで、自
ら《死》を選んでも、結局《霊界》では、課題を投げ出したことを後悔するだけだ
ということを承知しておくべきだということです。
こうして考えると、
《こんなに何度もチャレンジするのはしんどい。そこから早く解脱したい》
と思ってしまいますが、どうやら我々の《本性》は、中途半端な浄化など最初か
ら求めていないようです。嬉しいような悲しいような、とにかく我々は浄化のための
努力を怠ることなど、凡そ考えもしない性質を持っているようです。
さて、次回第140夜は、《創造する意志》で来世を変える作業を続けて来た
我々が、《転生》へと向かう経緯についての話から入ってゆきます。
( 追伸 )
中曽根君、君の次のチャレンジは相当ハードルが
高くなりそうだねえ。
目次のペーシへはこちらから
-弟子のクッテネルがお送りします。
≪輪廻転生 ⑨≫
★ 自ら置いた石を取り除く
一部の特異な人(?)を除いて、我々は皆、現世では幸福でありたいと願ってい
ます。しかし残念ながら、現実の世は全ての人が幸福になれるようなシステムに
はなっていないようです。
無論、その原因のひとつには『闇の勢力』の創り上げた、巧妙な権力システム
もあります。しかし一方で、現世利益だけを考えるならば、むしろ『闇の勢力』に
擦り寄っていけば幸福になれるシステム、でもあります。
そんな《この世的な幸福》では無く《心の幸福》を求めるのだ、と口では言って
みても、いざ《この世的な不幸》が訪れると、何故自分はこんな人生を選んで転
生したのだろうと、自らの運命を呪いたくなるのもまた心情です。
たった今の瞬間にも、恐らく世界中で《何故こんな不幸が必要なのか》という
嘆きが渦巻いていることでしょう。シュタイナーは、そんな悲痛な思いに答えるべく、
『照応する宇宙』の最後を、こう締めくくっています。
「 人間は、霊界にいる間に、生前獲得した全ての能力を、次の転生
における身体形成のために用いることができるようになります。
生前獲得したにもかかわらず、身体に組み込むことが出来ずに
いた全てが、新しい人生の身体を形成する力となるのです。
しかしそれだけでは無く、生前の状況に迫られて自分が犯してし
まった不正や悪を清算しようとする衝動を、自分の《原像》の中に
組み込み、そうすることによって、新たな人生において、その不正
や悪を清算できる状況に導かれるのです。
清算すべきことを清算して、自分の不完全さを補うことの出来る
状況に到るために、私達はこの世に生まれて来るのです。
ですから私達は、隠された意志に従って、必要な苦悩を求めま
す。そして、その苦悩を克服することで、かつて自分で置いた途
上の石を取り除くのです。
(…中略…)
この世の人生は、それだけを単独で取り出したり、周囲の環境、
民族、家族の働きから理解しようとする限りは、何もわかりません。
…人生が明確に把握できるのは、人間が霊と魂の世界の中で、以
前の人生の成果、精髄を身につけて、人生をこの成果の助けで新
たに形成していくのだ、と思えた時です。
(…中略…)
過ぎ去った人生を、喜びも無く眺めやり、
《 あの時の辛さは自分で用意したことだった、今の自分の慰
めようも無い気分も自分のせいだ》
と、思い悩むことが、この認識の結果なのではありません。そうで
はないのです。私達はこのように言う事ができるのです。
《 この運命の定めは、眼を過去に向けさせるだけではなく、
未来にも向けさせる。苦しみを克服したなら、その苦しみが
未来に役立つ力になるからだ。私達が苦しみを克服すれば
するほど、私達は強くなる 》
幸せの中にいると、高次の意味では受動的にしか生きられません。
幸福は、以前の人生の成果なのです。
けれども、苦悩は力を育てます。苦悩を克服することで培われた
力は、未来の生活を高めます。人生が一段一段と高まっていくため
には、死が生の中に働きかけなければなりません。
このことが分かれば、死の門を平然とくぐる事ができるでしょう。
この意味で『神智学』は理論であるに留まらず、人生の果汁であり、
力付けなのです。
この果汁と力によって、私達の魂の営みは、健やかに、力強くな
るのです。」
(ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション 3』pp336-340
《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)
★ 本物のリベンジ
いかがでしょうか。我々は、よく『因果応報』的な説話で
《 現世で悪事をすれば、必ずその報いが来る。たとえ今世で何事も
なくとも、来世でその罰を受ける 》
《 あれだけの苦しみを背負っているからには、きっと前世で相当の
罪を背負ったに違いない 》
という戒め的な展開を考えがちです。しかしシュタイナーの説に従えば、《不幸》
はもっとポジティブな選択なのです。それどころか信賞必罰的なものでさえあ
りません。
確かに、シュタイナーも《幸福は以前の人生の成果》として、幸福であることを
否定してはいません。しかし、《幸福》はあくまでも前世での努力の結果を受領す
るだけのことであって、今世での新たな成長の糧とはならないのです。
逆に、前世で犯してしまった罪、特に無意識のうちに他人を傷つけていたような
場面まで、死後の世界では《自分の身》を通じて体験験します。確かにその体
験そのものは辛い罰と感じるのかも知れません。
しかし、それは《霊界》で体験するのであって、《来世》にそのまま持ち込むの
ではないと、シュタイナーは言うのです。《霊界》ではむしろ、その体験を得たこと
によって、《それを克服し、一段階上に登る力》を得るのです。
そうであれば、(誤解を恐れずに言えば)今世で過ちを犯し、例えそれを今世の
間に償えなかった、或いは全くその必要性を感じられなかったとしても、その経
験をしなかった場合より、来世でのステップアップの力となるということです。
そして、そのステップアップを完成させる体験こそが《現世での不幸》なので
す。無論、前世での過ちから生じたものである可能性はありますが、その罰は
既に《霊界》で受けており、《現世》では自らが課した課題のひとつなのです。
もちろん、課題が大きすぎて《現世》では《不幸》に押しつぶされてしまうかも
知れません。しかし、それでもいいのです。そのまま死の門をくぐれば、さらに大
きな《それを克服する力》を得て、また《来世》に向かうのです。
《現世》では、どんなに苛酷な仕打ちを受けようが死によって中断されます。 そ
れによって《肉体》はいったん失いますが、《自我》はそのまま続きます。そしてま
たリベンジに旅立つのです。
(小泉・竹中のリベンジはニセモノでしたが、こっちのは本物です。)
それ故に、仮に自殺という方法を選んでしまったとしても、それ自体が責めら
れるわけではありません。いずれまたリベンジのための力を得て《来世》に戻っ
てくるのです。
かと言って、《死》を軽んじて、すぐに自殺に逃げ込んでもよいなどと言っている
訳ではありません。前夜でもお話ししたように、再受肉までは長い年月がかかりま
す。従って、それだけ成長するまでの期間が長くなるわけです。
むしろ問題になるのは、《自我》がその課題から逃れられると思い込んで、自
ら《死》を選んでも、結局《霊界》では、課題を投げ出したことを後悔するだけだ
ということを承知しておくべきだということです。
こうして考えると、
《こんなに何度もチャレンジするのはしんどい。そこから早く解脱したい》
と思ってしまいますが、どうやら我々の《本性》は、中途半端な浄化など最初か
ら求めていないようです。嬉しいような悲しいような、とにかく我々は浄化のための
努力を怠ることなど、凡そ考えもしない性質を持っているようです。
さて、次回第140夜は、《創造する意志》で来世を変える作業を続けて来た
我々が、《転生》へと向かう経緯についての話から入ってゆきます。
( 追伸 )
中曽根君、君の次のチャレンジは相当ハードルが
高くなりそうだねえ。
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