2010.02.11
トンデモ話は奥で繋がる(10) 22.2.11
トンデモ話は奥で繋がる 「第十夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。
≪我こそはハンデイー∞のプレーヤー≫
★ 「地球外生命」と『宗教』について
さて、 「第八夜」で、自身が「地球外生命」を否定する場合は「宗教」
は不要ではないかと述べました。「この世」と「あの世」を問わず、人
類以外に生命が存在しないのであれば、他に頼るべきものはありません。
来世があるにせよ、生まれ変わる瞬間の、自分自身の判断力をつける
だけです。
「地球外生命」が存在する場合は、彼らの「超人間的能力」を"崇拝す
る"、又は"頼りとする"『宗教』が生まれてくることになります。
しかし、彼ら「地球外生命」のうち『絶対の真理』を説いているものを
見分けることが出来るでしょうか。いや、現に見分けられないからこそ、
次々と『新興宗教』が現れては消えてゆくのです。
結局、『宗教』が特定の何者かを"崇拝"したり、"頼りしよう"とするも
のである限り、この問題は避けられません。とすれば、「特定の何者につ
いても崇拝も頼りもしない」方法をとるしかありませんよね。その意味で
小生は『宗教』は必要でないと考えています。
★ 「絶対の真理」への接近法
かと言って、小生は「絶対の真理」については否定しません。むしろ、
必ずあると思っています。ただ、「これがそうだ」と言われても、それが
正しいと判断出来ないだけの事です。
(まさに"「神」のみぞ知る"です。ちなみに、今後、小生にとっての"真の
神"を示す場合は、カギ括弧の「神」で表し、特定の宗教上の『神』
とは区別します。)
恐らく死ぬまで(或いは死んでも!)たどり着けないだろうと思ってい
ます。しかし、できるだけそれに近づきたいのは心情です。そのために小
生が取っている方法が、弁証法的接近方法です。
隠された真実に対して、ある情報A(正)を得たら、それとは対立する
情報B(反)を探してみます。
うち、Aの方がBより確からしいと感じた場合でも、Bを完全に棄てて
しまうのでなく、AとBの共通する部分を採用して、対立する部分は7:
3ぐらいの割合でA寄りの情報Ab(合)として受け取っておくのです。
そしてまた違う情報Cを得れば、Ab(正)とC(反)の間で同じよう
に検討してみる…これの繰り返しです。小生のプレーは、いつまでもホー
ルアウトできずに続きます。
実際この方法で、ガセネタ・マユツバなものから、感動して唸ってしま
うものまで「トンデモ話」を習合して行った、その感想がこのブログのタ
イトルそのままなのです。
★ 「真理」は自ら選び取ってゆくもの
この方法でも、「真理」に接近することはあっても、永遠に辿り着くこ
とはないと思っています。逆にだんだんそれてしまう可能性だってありま
す。でも、それでいいんじゃないかと思うのです。
人には誰しも、その人だけの人生が用意されているのですから、『真理』
もその人個人のためのものです。いくらこれが「絶対の真理」だと言われ
ても、自分の感覚に合わないものは、自分の人生をつまらなくさせてしま
うだけです。そして、子供には子供の、大人には大人の価値観があるよう
に、自分自身の人生経験のレベルとともに、『真理』もまた自分に合った
ものを、その都度選び取ってゆくものだと思うのです。
★ 「真理」を歪めるものには敏感に
その意味でも、特定の『真理』を押し付けるものや、「真理」へのアプ
ローチを閉ざそうとするものには敏感でなくてはなりません。
「宗教団体」が特定の『真理』を掲げるのは自由ですが、そこへの参入
・退出はフリーであるはずです。また、その「教義」のみで成立すべき
ものと考えていますので、小生は、いかなる宗教団体にも参加しない
ことにしています。
そんな方針が固まりかけた頃に、あちら方から勝手に近づいてきた「宗
教団体」がありました。次回第十一夜はその団体「統逸教会」との接
近遭遇についてお話します。
目次のペーシへはこちらから
-弟子のクッテネルがお送りします。
≪我こそはハンデイー∞のプレーヤー≫
★ 「地球外生命」と『宗教』について
さて、 「第八夜」で、自身が「地球外生命」を否定する場合は「宗教」
は不要ではないかと述べました。「この世」と「あの世」を問わず、人
類以外に生命が存在しないのであれば、他に頼るべきものはありません。
来世があるにせよ、生まれ変わる瞬間の、自分自身の判断力をつける
だけです。
「地球外生命」が存在する場合は、彼らの「超人間的能力」を"崇拝す
る"、又は"頼りとする"『宗教』が生まれてくることになります。
しかし、彼ら「地球外生命」のうち『絶対の真理』を説いているものを
見分けることが出来るでしょうか。いや、現に見分けられないからこそ、
次々と『新興宗教』が現れては消えてゆくのです。
結局、『宗教』が特定の何者かを"崇拝"したり、"頼りしよう"とするも
のである限り、この問題は避けられません。とすれば、「特定の何者につ
いても崇拝も頼りもしない」方法をとるしかありませんよね。その意味で
小生は『宗教』は必要でないと考えています。
★ 「絶対の真理」への接近法
かと言って、小生は「絶対の真理」については否定しません。むしろ、
必ずあると思っています。ただ、「これがそうだ」と言われても、それが
正しいと判断出来ないだけの事です。
(まさに"「神」のみぞ知る"です。ちなみに、今後、小生にとっての"真の
神"を示す場合は、カギ括弧の「神」で表し、特定の宗教上の『神』
とは区別します。)
恐らく死ぬまで(或いは死んでも!)たどり着けないだろうと思ってい
ます。しかし、できるだけそれに近づきたいのは心情です。そのために小
生が取っている方法が、弁証法的接近方法です。
隠された真実に対して、ある情報A(正)を得たら、それとは対立する
情報B(反)を探してみます。
うち、Aの方がBより確からしいと感じた場合でも、Bを完全に棄てて
しまうのでなく、AとBの共通する部分を採用して、対立する部分は7:
3ぐらいの割合でA寄りの情報Ab(合)として受け取っておくのです。
そしてまた違う情報Cを得れば、Ab(正)とC(反)の間で同じよう
に検討してみる…これの繰り返しです。小生のプレーは、いつまでもホー
ルアウトできずに続きます。
実際この方法で、ガセネタ・マユツバなものから、感動して唸ってしま
うものまで「トンデモ話」を習合して行った、その感想がこのブログのタ
イトルそのままなのです。
★ 「真理」は自ら選び取ってゆくもの
この方法でも、「真理」に接近することはあっても、永遠に辿り着くこ
とはないと思っています。逆にだんだんそれてしまう可能性だってありま
す。でも、それでいいんじゃないかと思うのです。
人には誰しも、その人だけの人生が用意されているのですから、『真理』
もその人個人のためのものです。いくらこれが「絶対の真理」だと言われ
ても、自分の感覚に合わないものは、自分の人生をつまらなくさせてしま
うだけです。そして、子供には子供の、大人には大人の価値観があるよう
に、自分自身の人生経験のレベルとともに、『真理』もまた自分に合った
ものを、その都度選び取ってゆくものだと思うのです。
★ 「真理」を歪めるものには敏感に
その意味でも、特定の『真理』を押し付けるものや、「真理」へのアプ
ローチを閉ざそうとするものには敏感でなくてはなりません。
「宗教団体」が特定の『真理』を掲げるのは自由ですが、そこへの参入
・退出はフリーであるはずです。また、その「教義」のみで成立すべき
ものと考えていますので、小生は、いかなる宗教団体にも参加しない
ことにしています。
そんな方針が固まりかけた頃に、あちら方から勝手に近づいてきた「宗
教団体」がありました。次回第十一夜はその団体「統逸教会」との接
近遭遇についてお話します。
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