2010.01.23
トンデモ話は奥で繋がる(4) 22.1.23
トンデモ話は奥で繋がる 「第四夜 」
ー弟子のクッテネルがお送りします。
≪イエスの『神』VS アブラハムの『神』≫
★ 「イエス」の説いた『神』
「イエス」の布教活動については、主要な4つの福音書(マタイ、マルコ、
ルカ、ヨハネによる各福音書)や外伝的なものがいくつかあるが、どれも
完全には一致していない。従って、伝道者の意図が加わっている可能性も
否めないが、とりあえず広く一般に知られている伝承等から、彼の説いた
『神』と「アブラハム」の『神』の違いについて見てみますと…
① 絶対服従の形をとっていない。
「イエス」は洗礼を受けたあと、自らの中に『聖霊』の宿ったのを感
じ、その導きによって荒野へと赴き、『悪魔』との対峙の末、これを退
けます。『神』に試されている感じは残りますが、選択の自由はあり、
アブラハム」の時のような「服従」と引き換えの「契約」ではありませ
ん。(むしろ、『悪魔』の誘惑の方がギフ&テイク的ですよね。)
② 現世での地位や富を約束するものでない。
ルカの福音書の第6章は「イエス」の言葉としてこう記しています。
「貧しい人たちは、幸いだ。 神の国はあなたがたのものである。
飢えている人たちは、幸いだ。飽き足りるようになるからである。
泣いている人たちは、幸いだ。笑うようになるからである。
(…中略…)
富んでいる人たちは、災いだ。慰めを受けてしまっているからである。
満腹している人たちは、災いだ。飢えるようになるからである。
笑っている人たちは、災いだ。悲しみ泣くようになるからである。」
これを、「第二夜」の『創世記』の神の言葉と比べてみてください。彼の
説く『神』は、現世での物量的な幸せではなく、幸せを感じられる心を持
つことを祝福しています。
③ 命を懸けた試練を、そのままの形で受けさせている。
「アブラハム」の『神』は彼の信仰心を試そうと、彼の子であるイサク
を『神』への生贄とするよう命じます。アブラハムがイサクを屠ろうとす
るのを見届けた上で、『神』はそれを制止しています。
しかし、「イエス」の十字架刑については、そのまま売れさせています。
もっとも、次に述べるように「復活」するものとわかっていたのかも知れ
ませんが、少なくともそれを見た民衆は、その違いを目の当たりにします。
以上のように、この二つの『神』は、信仰する者達への、現世での処し方
がかなり違っており、「別々のやり方で接した」と言うには少々無理がある
ように思えます。
★ 「イエス」自身も、違う『神』だと感じていたのではないか
それならば、「イエス」自身はどうだったのでしょう。確かに彼は、過去
の預言者の言葉を用いて、『律法』の『神』の意思を語っていました。しか
しその『神』を意識していたならば、「第三夜」で述べたような、「自身を
『特別な者』扱いしているという口実を与える」ような説き方を、あえて選
ぶ必要性はなかったのではないかと思います。
「イエス」は、直接的には言えないものの、「自分の説いている神は、別
の存在であり、それは自分の言葉に従わない限り見えてこないのだ」と悟る
ことを望んでいたのだとすれば、この行動の必要性が見えてきます。
★ 『復活』のインパクト
さて、「イエス」に付き従っていた使徒たちも、結局は彼の十字架刑を、
見て見ぬふりでバラバラになってしまいます。そんな弱気な彼らに、殉教
者として命を賭す意志を起こさせたものこそ、「イエス」の『復活』です。
まさに新約聖書の「トンデモ度第一位」と言うべき軌跡ですが、数々の
トンデモ話は頑として受け入れなくても、「これだけは真実だ」と言うキ
リスト教信者が数多く(いや、教義的には全員信ずべきかもしれません!)
存在するわけです。
日本にも、かの安部清明が泰山府君の術で生き返ったという話もありま
すが、自ら復活したとすればそれを超えるものです。
(俗説には「イエスには、瓜二つの弟がいて、彼が身代わりとなった」と
いうものもありますが、最後にこんなトリックを使ったとは、考えたくない
ところですが…。)
しかし、使徒達の豹変ぶりを考えると、やはり何らかの形で、「イエス」
が彼らの前に再来したことは確かではないかと思います。例えば、かなり
はっきりとした「霊」であった可能性もあります。そうでなければ、彼ら
がこれほど熱心に「キリスト教」を広めていくことはなかったと思います。
さて、第五夜は、「三位一体」とその後のキリスト教から入ってゆこう
と思います。
目次のペーシへはこちらから
ー弟子のクッテネルがお送りします。
≪イエスの『神』VS アブラハムの『神』≫
★ 「イエス」の説いた『神』
「イエス」の布教活動については、主要な4つの福音書(マタイ、マルコ、
ルカ、ヨハネによる各福音書)や外伝的なものがいくつかあるが、どれも
完全には一致していない。従って、伝道者の意図が加わっている可能性も
否めないが、とりあえず広く一般に知られている伝承等から、彼の説いた
『神』と「アブラハム」の『神』の違いについて見てみますと…
① 絶対服従の形をとっていない。
「イエス」は洗礼を受けたあと、自らの中に『聖霊』の宿ったのを感
じ、その導きによって荒野へと赴き、『悪魔』との対峙の末、これを退
けます。『神』に試されている感じは残りますが、選択の自由はあり、
アブラハム」の時のような「服従」と引き換えの「契約」ではありませ
ん。(むしろ、『悪魔』の誘惑の方がギフ&テイク的ですよね。)
② 現世での地位や富を約束するものでない。
ルカの福音書の第6章は「イエス」の言葉としてこう記しています。
「貧しい人たちは、幸いだ。 神の国はあなたがたのものである。
飢えている人たちは、幸いだ。飽き足りるようになるからである。
泣いている人たちは、幸いだ。笑うようになるからである。
(…中略…)
富んでいる人たちは、災いだ。慰めを受けてしまっているからである。
満腹している人たちは、災いだ。飢えるようになるからである。
笑っている人たちは、災いだ。悲しみ泣くようになるからである。」
これを、「第二夜」の『創世記』の神の言葉と比べてみてください。彼の
説く『神』は、現世での物量的な幸せではなく、幸せを感じられる心を持
つことを祝福しています。
③ 命を懸けた試練を、そのままの形で受けさせている。
「アブラハム」の『神』は彼の信仰心を試そうと、彼の子であるイサク
を『神』への生贄とするよう命じます。アブラハムがイサクを屠ろうとす
るのを見届けた上で、『神』はそれを制止しています。
しかし、「イエス」の十字架刑については、そのまま売れさせています。
もっとも、次に述べるように「復活」するものとわかっていたのかも知れ
ませんが、少なくともそれを見た民衆は、その違いを目の当たりにします。
以上のように、この二つの『神』は、信仰する者達への、現世での処し方
がかなり違っており、「別々のやり方で接した」と言うには少々無理がある
ように思えます。
★ 「イエス」自身も、違う『神』だと感じていたのではないか
それならば、「イエス」自身はどうだったのでしょう。確かに彼は、過去
の預言者の言葉を用いて、『律法』の『神』の意思を語っていました。しか
しその『神』を意識していたならば、「第三夜」で述べたような、「自身を
『特別な者』扱いしているという口実を与える」ような説き方を、あえて選
ぶ必要性はなかったのではないかと思います。
「イエス」は、直接的には言えないものの、「自分の説いている神は、別
の存在であり、それは自分の言葉に従わない限り見えてこないのだ」と悟る
ことを望んでいたのだとすれば、この行動の必要性が見えてきます。
★ 『復活』のインパクト
さて、「イエス」に付き従っていた使徒たちも、結局は彼の十字架刑を、
見て見ぬふりでバラバラになってしまいます。そんな弱気な彼らに、殉教
者として命を賭す意志を起こさせたものこそ、「イエス」の『復活』です。
まさに新約聖書の「トンデモ度第一位」と言うべき軌跡ですが、数々の
トンデモ話は頑として受け入れなくても、「これだけは真実だ」と言うキ
リスト教信者が数多く(いや、教義的には全員信ずべきかもしれません!)
存在するわけです。
日本にも、かの安部清明が泰山府君の術で生き返ったという話もありま
すが、自ら復活したとすればそれを超えるものです。
(俗説には「イエスには、瓜二つの弟がいて、彼が身代わりとなった」と
いうものもありますが、最後にこんなトリックを使ったとは、考えたくない
ところですが…。)
しかし、使徒達の豹変ぶりを考えると、やはり何らかの形で、「イエス」
が彼らの前に再来したことは確かではないかと思います。例えば、かなり
はっきりとした「霊」であった可能性もあります。そうでなければ、彼ら
がこれほど熱心に「キリスト教」を広めていくことはなかったと思います。
さて、第五夜は、「三位一体」とその後のキリスト教から入ってゆこう
と思います。
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