2013.06.03
ミディアムシップクラス2013春-2-凍てついた時も...
少し前までは、寒くストーブを出していましたが、今は扇風機を出してます。桜が咲いて散ったかと思ったら、もう桜並木は緑の木陰をなし、その下を歩くと初夏の太陽光線に木影がくっきりと際立っています。
時の経つのは早いものです。
何年か前父を亡くしました。普通に平均的な歳で亡くなっていればそう思わなかったのですが、最後が-よい晩年-とは言えない、辛い何年かでした。私もこのような霊的なこと、スピリチュアル的なことは子供のころから好きでしたし、またほかの血縁者を子供のころに失くしたときも、おっさまが身内に
-いつまでも嘆き悲しんでいてはいけない。そのような思いはかえって死者の魂の成仏の妨げになる-
などと言っていたのを思い出すと、このような気持ちではいけない、と思うのですが、なかなか吹っ切れることができず、何かの折、スーパーで一人で買い物をしているおじいさんなどをみると反射的にどこからか、
-かわいそうだった-とか、言葉として出てこなくても、どこからともなく心が痛むような気がしたり...
未練はないし、執着もないのですが、父の最期の状態を思い出すたび、哀しいようなつらいような気持ちになることが多々あります。
こんなことではいけない。そう思うのですが、ふつふつとわいてくる気持はいかんともしがたく、しかし、こんな気持ちを持つと、あの世にいる父がかえってつらいだろうと、
-絶対にこのような辛くなるような気持ちは思うまい-とこの春思っていたところ...
ミディアムクラスが開かれる5月のある日、夢を見ました。
この頃はあまり霊的な夢は見ないのですが、今回は誠にリアルな触感もはっきりとある夢でした。その夢で、父が非常に元気で、血色もよく現れたのです。
私の記憶に焼き付いて離れない晩年の悲惨な姿ではなく、一番盛んな時期の元気いっぱいの姿でした。私は夢の中で父に触ったのですが、現実と同じくはっきりとこの指に感覚がありました。
これは...
父はもう、最後の悲惨な姿ではないということだろうか?私としては頭では-もう霊界に行ったのだから最後の苦しい悲惨な状態ではない-と思っても、どうしても最後の姿が自分の頭や体に染みついており、ふっふっと
-さいごはかわいそうだった-などと思ってしまっていたのです。
その思いは頭でなんとか、違う風に考えようと努力しても、意図してもなかなか変えがたいもので、この五月は相当強い決心で思うまい、と決心したのです。
そうこうしたところこのリアルな夢です。
これって...本当かなぁ。父はもう元気なのかも?そんなことを思いながら、ミディアムクラスに参加したところ、Mさんが他の人をリーディングしていて、
-これは、実習の相手ではなく、るんるうんさんだ-などと言い、先生も-そうだ-という番外編リーディングに急遽様変わりしたのです。
そして、
その内容は...
父の働いていた姿をそのまま、描写し、語られたのです。!
また、私について-この子は〇△×...-とその言葉を聞くと小さい時の遊んでいる自分の姿、当時の家などまでざっと脳裏に浮かびました。
Mさんの語ってくれた父の姿は元気一杯で、仕事をしていました。
これは!...
私の見た夢も非常に元気で活力にあふれた姿でした。Mさんの語ってくれた父と私の夢に出てきた父...非常に元気でした。
よく言います。死んだ人はそれで時間が止まっているから、ずっとその思いを持ったまま、霊界で同じことをしていたり、同じ苦しみの中にずっといる...それもあると思います。よくあるのは、古戦場とかでずっと戦っている戦士の霊とか、事故現場で-死んだ-と知らずにずっとそこにいる霊とか...あの世は時間がないからだ、などといいますが...
私は今回の夢、Mさんのリーディングで、時がとまるのは霊だけでなく、こちら現実世界に存在している私たちの思いも止まっていることがあるのだ、と思ったのです。
私は父の最期の悲惨さだったこともあり、その記憶が凍土のように凍りつき、溶けることがありませんでした。私の中の拭い去れない記憶...それを今年の5月無理矢理にも-思うまい-と思うことにより、少し、氷が解け始めたのでしょうか。
Mさんの語ってくれた父の姿...それは健康を回復し、仕事をばりばりやっている父でした。
思えば、父が亡くなる何年か前からその悲惨な姿がずっと自分の中に生き続けていたような気がします。正直言えば、まだ、スーパーで同じような年恰好の人を見るとまだ、何とも言えない、つらいような気持ちにはなります。
しかし、このごろ思うのは、
時は、あの世でも流れていて、仮にこの世の命、それからその後の霊界での命を繋げて考えれば、
この世で最後が悲惨でもその後回復し、元気にしていると考えてもいいじゃあないのか?などと思ったのです。
悲惨と回復の間に-死-が横たわっていますが、その後、徐々に状況は好転し、今は元気で幸せなのでは?などと思ったりしたのです。
普通の人生でも前半が悲惨でも後半が幸せならだれもその人のことを-かわいそう-に思いません。
悲惨な状況で死んだ人でもその後の死後の人生が続いていて、楽しくやっているとしたら...そのことをなかなか忘れられない残された人ももう、過去の記憶にとらわれることはないのではないでしょうか。
今回のクラスではMさんの具体的な描写のおかげで、父の元気な姿を感じました...事前に夢でも見たし、それが今の姿だと実感できたと思います。ずっと凍り付いてそのままだった私の記憶も過去のこととして、整理整頓されつつあるようです。
時の経つのは早いものです。
何年か前父を亡くしました。普通に平均的な歳で亡くなっていればそう思わなかったのですが、最後が-よい晩年-とは言えない、辛い何年かでした。私もこのような霊的なこと、スピリチュアル的なことは子供のころから好きでしたし、またほかの血縁者を子供のころに失くしたときも、おっさまが身内に
-いつまでも嘆き悲しんでいてはいけない。そのような思いはかえって死者の魂の成仏の妨げになる-
などと言っていたのを思い出すと、このような気持ちではいけない、と思うのですが、なかなか吹っ切れることができず、何かの折、スーパーで一人で買い物をしているおじいさんなどをみると反射的にどこからか、
-かわいそうだった-とか、言葉として出てこなくても、どこからともなく心が痛むような気がしたり...
未練はないし、執着もないのですが、父の最期の状態を思い出すたび、哀しいようなつらいような気持ちになることが多々あります。
こんなことではいけない。そう思うのですが、ふつふつとわいてくる気持はいかんともしがたく、しかし、こんな気持ちを持つと、あの世にいる父がかえってつらいだろうと、
-絶対にこのような辛くなるような気持ちは思うまい-とこの春思っていたところ...
ミディアムクラスが開かれる5月のある日、夢を見ました。
この頃はあまり霊的な夢は見ないのですが、今回は誠にリアルな触感もはっきりとある夢でした。その夢で、父が非常に元気で、血色もよく現れたのです。
私の記憶に焼き付いて離れない晩年の悲惨な姿ではなく、一番盛んな時期の元気いっぱいの姿でした。私は夢の中で父に触ったのですが、現実と同じくはっきりとこの指に感覚がありました。
これは...
父はもう、最後の悲惨な姿ではないということだろうか?私としては頭では-もう霊界に行ったのだから最後の苦しい悲惨な状態ではない-と思っても、どうしても最後の姿が自分の頭や体に染みついており、ふっふっと
-さいごはかわいそうだった-などと思ってしまっていたのです。
その思いは頭でなんとか、違う風に考えようと努力しても、意図してもなかなか変えがたいもので、この五月は相当強い決心で思うまい、と決心したのです。
そうこうしたところこのリアルな夢です。
これって...本当かなぁ。父はもう元気なのかも?そんなことを思いながら、ミディアムクラスに参加したところ、Mさんが他の人をリーディングしていて、
-これは、実習の相手ではなく、るんるうんさんだ-などと言い、先生も-そうだ-という番外編リーディングに急遽様変わりしたのです。
そして、
その内容は...
父の働いていた姿をそのまま、描写し、語られたのです。!
また、私について-この子は〇△×...-とその言葉を聞くと小さい時の遊んでいる自分の姿、当時の家などまでざっと脳裏に浮かびました。
Mさんの語ってくれた父の姿は元気一杯で、仕事をしていました。
これは!...
私の見た夢も非常に元気で活力にあふれた姿でした。Mさんの語ってくれた父と私の夢に出てきた父...非常に元気でした。
よく言います。死んだ人はそれで時間が止まっているから、ずっとその思いを持ったまま、霊界で同じことをしていたり、同じ苦しみの中にずっといる...それもあると思います。よくあるのは、古戦場とかでずっと戦っている戦士の霊とか、事故現場で-死んだ-と知らずにずっとそこにいる霊とか...あの世は時間がないからだ、などといいますが...
私は今回の夢、Mさんのリーディングで、時がとまるのは霊だけでなく、こちら現実世界に存在している私たちの思いも止まっていることがあるのだ、と思ったのです。
私は父の最期の悲惨さだったこともあり、その記憶が凍土のように凍りつき、溶けることがありませんでした。私の中の拭い去れない記憶...それを今年の5月無理矢理にも-思うまい-と思うことにより、少し、氷が解け始めたのでしょうか。
Mさんの語ってくれた父の姿...それは健康を回復し、仕事をばりばりやっている父でした。
思えば、父が亡くなる何年か前からその悲惨な姿がずっと自分の中に生き続けていたような気がします。正直言えば、まだ、スーパーで同じような年恰好の人を見るとまだ、何とも言えない、つらいような気持ちにはなります。
しかし、このごろ思うのは、
時は、あの世でも流れていて、仮にこの世の命、それからその後の霊界での命を繋げて考えれば、
この世で最後が悲惨でもその後回復し、元気にしていると考えてもいいじゃあないのか?などと思ったのです。
悲惨と回復の間に-死-が横たわっていますが、その後、徐々に状況は好転し、今は元気で幸せなのでは?などと思ったりしたのです。
普通の人生でも前半が悲惨でも後半が幸せならだれもその人のことを-かわいそう-に思いません。
悲惨な状況で死んだ人でもその後の死後の人生が続いていて、楽しくやっているとしたら...そのことをなかなか忘れられない残された人ももう、過去の記憶にとらわれることはないのではないでしょうか。
今回のクラスではMさんの具体的な描写のおかげで、父の元気な姿を感じました...事前に夢でも見たし、それが今の姿だと実感できたと思います。ずっと凍り付いてそのままだった私の記憶も過去のこととして、整理整頓されつつあるようです。
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