2013.04.04
立命
春山満という社長さんがいます。首から下が難病で動かないという大変なハンディを持ちながらも、たくさんの社員を抱える社長として精力的に活動されています。
その春山さんのブログのなかに、
壺中有天 という語録集があります。
その中に
↓ブログより抜粋
第一の天「宿命を嘆くな、自らの命を立てよ」
「宿命を嘆くな、自らの命を立てよ」
人生にはどうしようもない定めがあり、それは「宿命」と呼ばれる。
私にとって進行性筋ジストロフィーの発症は、
まさにその宿命そのものだった。
しかし、宿命の裏には立命というものがある。
「こうしたい、ここへたどり着きたい」。そう自らを勉励することによって、
宿命は立命に変えることができるのである。
自らの命を知って、自らの命を立てる。人生はじつに面白い、と思う。
宿命を嘆くのではなく、限りある命を知り、
自らの力で人生を切り開いていく。そういう志や気力のもとに、
大きな道が開けてくるものなのだ。
以上のようなことが書かれています。
この立命...それは宿命とは違います。この春山さんは筋ジストロフィーという病を得たことは宿命だが、それを自らの意思で、変えることができると言っています。動かない、それだからといって、-こうなりたい。こうしたい-ということまであきらめていいのでしょうか?春山さんのこの語録はそんな疑問を投げかけてくれます。
動かない体だからできることは限られていると、そう思うのは普通のようでも早計に過ぎないのではないでしょうか?そんなことを言うと-春山さんはとくべつだからだ-と言ったり、-普通の人はそうはいかない-と言ったりする人がいますが...翻って自らを省みると、〇○だから、しょうがない、とか××でできるわけないとか、そんなことが頭の底に存在し、物事を行おうとするとき、また普段の生活でもそれが自分の行動のスケールとなっていることに気づきました。
もしかして、できるのではないか?最初から無理だと思い、参戦すら考えてないことが多かったのではないか?
おなじことを仕上げるにしても、内容は同じでも、もともと素養のない人はスタート地点がマイナス地点から始まり、素養のある人は大分進んだプラス地点から始まります。
勉強でも音楽でもなんでもすぐに物事を習得し上級レベルまで行ける人をもてはやします。かたや、凡人はおろか、それ以下のさえないやつ、がいます。勉強であったら、なかなかものを覚えられない。理解が悪いなどなど...そんなひとは優れた人を見て、―自分はだめだ-とか-無理かも-など考えるのはざらで、-こんな出来が悪くて恥ずかしい-と感じたりして...
もともと、もともと素養がないのだ。などと考え、あきらめへと...
私もそうです。ミディアムシップも他の勉強も...もともとの能力、素養、勉強に関しては記憶力が他の人よりないのだ、とあきらめることが普通のこととして選択していました。
しかし...ミディアム実習で、ある感覚を実際につかんだことは、私の-なにか-を変えてくれたように思います。
足りないものはあるのだ。それは現実だ。しかし、それだからと言って何が問題であろう。何か、やりたいこと、今までできなかったことで完成したいことがあるなら、やってみればいいじゃあないか。むろん、最初から秀でている人のようには行かないだろう、
でも、やってみよう。やってみるしかないじゃあないか。とはたから見たら基地外(←多分禁止用語なので当て字)沙汰のことです。内容を打ち明けたらあざ笑う人、多数でしょう。
でもやってみる。
スピリチュアルでは、-簡単に成功できる-と思えば-成功-すると言います。しかし、そんなたわごとは、もう捨てました。この世は現実です。語学一つにとっても実際に練習、勉強を積み重ねないとどうにもならないということをなぜ今の流行のスピリチュアルは重要視しないのでしょうか?
彼らは言います。
-努力しなければならないと思っているから努力して達成することになる。簡単にできるとおもえば努力なしにできるのだ-
本当かね?よくもまぁ、こんなたわけたことを軽々しく言い、みんなもそれに頷くよ...
私はそんな言葉より、春山さんの-立命-と言う言葉に心が湧きおどります。
宿命により、それぞれみんな素質、ハンディはもっています。でも、それを立命により運命へと変える時...人生の挑戦への意気込みと、困難さゆえの楽しさと、達成感と、得られるのではないでしょうか?かつて私は英語が苦手で、全く単語が覚えられませんでした。ちょっと覚えても、スラスラ覚えていくまわりの秀才たちには全く及ばない鈍才です。嫌いだし、じぶんにはわからないと、最初からもう覚えるのもあきらめてました。
しかし、たまたま書店で手にした高校生向きの英単語集に、それが東大志望者向けのものなのですが、
-みなさん、なかなか覚えれない と思うと思います。10個覚えたつもりでも3個しか覚えてない。7個も忘れてしまった。そう思うでしょう。でも人間は忘れる動物です。10個覚えて3個覚えた、とできたことを喜んでください、そしてなんども繰り返し学習するのです-などという内容が書かれていました。
東大志望者に-忘れて普通だ。覚えれなかったことを責めるよりも、覚えたことを喜べ-なんて言うのです。これの言葉は自分の今までの考えを根底から覆すような言葉でした。東大志望者でも忘れて当たり前、少しの成果でもそれを喜べとは...
なんとなく力とやる気が湧いてくる気がしました。ただ手をこまねいて、スピリチュアル的に-楽にできると思う-ことをするより、現在の力を出し切り、自分の-こうなりたいという姿-をめざし、そのために必要なことをするしかない。努力することも勉強することもそのための必要な過程なのです。やるしかないのです。
宿命を立命に...これがあるからこそ、人生の喜びがあるのだと思います。もともとあまり素養がないことは、挑戦することがが多いという神からの-贈り物-であって、重荷ではないのです。
その春山さんのブログのなかに、
壺中有天 という語録集があります。
その中に
↓ブログより抜粋
第一の天「宿命を嘆くな、自らの命を立てよ」
「宿命を嘆くな、自らの命を立てよ」
人生にはどうしようもない定めがあり、それは「宿命」と呼ばれる。
私にとって進行性筋ジストロフィーの発症は、
まさにその宿命そのものだった。
しかし、宿命の裏には立命というものがある。
「こうしたい、ここへたどり着きたい」。そう自らを勉励することによって、
宿命は立命に変えることができるのである。
自らの命を知って、自らの命を立てる。人生はじつに面白い、と思う。
宿命を嘆くのではなく、限りある命を知り、
自らの力で人生を切り開いていく。そういう志や気力のもとに、
大きな道が開けてくるものなのだ。
以上のようなことが書かれています。
この立命...それは宿命とは違います。この春山さんは筋ジストロフィーという病を得たことは宿命だが、それを自らの意思で、変えることができると言っています。動かない、それだからといって、-こうなりたい。こうしたい-ということまであきらめていいのでしょうか?春山さんのこの語録はそんな疑問を投げかけてくれます。
動かない体だからできることは限られていると、そう思うのは普通のようでも早計に過ぎないのではないでしょうか?そんなことを言うと-春山さんはとくべつだからだ-と言ったり、-普通の人はそうはいかない-と言ったりする人がいますが...翻って自らを省みると、〇○だから、しょうがない、とか××でできるわけないとか、そんなことが頭の底に存在し、物事を行おうとするとき、また普段の生活でもそれが自分の行動のスケールとなっていることに気づきました。
もしかして、できるのではないか?最初から無理だと思い、参戦すら考えてないことが多かったのではないか?
おなじことを仕上げるにしても、内容は同じでも、もともと素養のない人はスタート地点がマイナス地点から始まり、素養のある人は大分進んだプラス地点から始まります。
勉強でも音楽でもなんでもすぐに物事を習得し上級レベルまで行ける人をもてはやします。かたや、凡人はおろか、それ以下のさえないやつ、がいます。勉強であったら、なかなかものを覚えられない。理解が悪いなどなど...そんなひとは優れた人を見て、―自分はだめだ-とか-無理かも-など考えるのはざらで、-こんな出来が悪くて恥ずかしい-と感じたりして...
もともと、もともと素養がないのだ。などと考え、あきらめへと...
私もそうです。ミディアムシップも他の勉強も...もともとの能力、素養、勉強に関しては記憶力が他の人よりないのだ、とあきらめることが普通のこととして選択していました。
しかし...ミディアム実習で、ある感覚を実際につかんだことは、私の-なにか-を変えてくれたように思います。
足りないものはあるのだ。それは現実だ。しかし、それだからと言って何が問題であろう。何か、やりたいこと、今までできなかったことで完成したいことがあるなら、やってみればいいじゃあないか。むろん、最初から秀でている人のようには行かないだろう、
でも、やってみよう。やってみるしかないじゃあないか。とはたから見たら基地外(←多分禁止用語なので当て字)沙汰のことです。内容を打ち明けたらあざ笑う人、多数でしょう。
でもやってみる。
スピリチュアルでは、-簡単に成功できる-と思えば-成功-すると言います。しかし、そんなたわごとは、もう捨てました。この世は現実です。語学一つにとっても実際に練習、勉強を積み重ねないとどうにもならないということをなぜ今の流行のスピリチュアルは重要視しないのでしょうか?
彼らは言います。
-努力しなければならないと思っているから努力して達成することになる。簡単にできるとおもえば努力なしにできるのだ-
本当かね?よくもまぁ、こんなたわけたことを軽々しく言い、みんなもそれに頷くよ...
私はそんな言葉より、春山さんの-立命-と言う言葉に心が湧きおどります。
宿命により、それぞれみんな素質、ハンディはもっています。でも、それを立命により運命へと変える時...人生の挑戦への意気込みと、困難さゆえの楽しさと、達成感と、得られるのではないでしょうか?かつて私は英語が苦手で、全く単語が覚えられませんでした。ちょっと覚えても、スラスラ覚えていくまわりの秀才たちには全く及ばない鈍才です。嫌いだし、じぶんにはわからないと、最初からもう覚えるのもあきらめてました。
しかし、たまたま書店で手にした高校生向きの英単語集に、それが東大志望者向けのものなのですが、
-みなさん、なかなか覚えれない と思うと思います。10個覚えたつもりでも3個しか覚えてない。7個も忘れてしまった。そう思うでしょう。でも人間は忘れる動物です。10個覚えて3個覚えた、とできたことを喜んでください、そしてなんども繰り返し学習するのです-などという内容が書かれていました。
東大志望者に-忘れて普通だ。覚えれなかったことを責めるよりも、覚えたことを喜べ-なんて言うのです。これの言葉は自分の今までの考えを根底から覆すような言葉でした。東大志望者でも忘れて当たり前、少しの成果でもそれを喜べとは...
なんとなく力とやる気が湧いてくる気がしました。ただ手をこまねいて、スピリチュアル的に-楽にできると思う-ことをするより、現在の力を出し切り、自分の-こうなりたいという姿-をめざし、そのために必要なことをするしかない。努力することも勉強することもそのための必要な過程なのです。やるしかないのです。
宿命を立命に...これがあるからこそ、人生の喜びがあるのだと思います。もともとあまり素養がないことは、挑戦することがが多いという神からの-贈り物-であって、重荷ではないのです。
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