2013.02.03
トンデモ話は奥で繋がる(189) 25.2.3
トンデモ話は奥で繋がる 「第189夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。
≪神と呼ばれるもの≫
★ 『生命』を造り出すもの
以下、今までお話しして来たことを踏まえて、小生なりの総括
的な現世観をまとめていきましょう。
まず、『何故、私達は現世に存在しているのか』ということ
を考えて見ましょう。その場合、『神』の存在の有無と、その実
体の定義が必要になってくると思います。
宗教的な話になると『神』が『万物の創造者』ということで片
付けられてしまいます。逆に、無神論者の方は『そんな存在な
どなく、自然に発生したのだ』ということになります。
初めから『人間の創造者』の問題を取り上げたのでは、両者
の水掛け論となってしまいますので、ここでは、もう少し根源的
なこと―生命とは何かという点から考えてみましょう。
現世においての、生物と無生物の違いは、それ自身に『自己、
若しくは自己の複製物を存続させようとする働き』があるか
どうかにあると思います。
無論、無生物をそのまま放って置いても、そのような働きは生
まれてきませんので、『生命』に変化させる、何らかの作用が
存在したと考えるのが自然だと思います。
一般には、無機物の塊の中に稲妻のような刺激が加わっ
て、原始的なたんぱく質様の分子結合が出来、そこから有機生
命体の細胞が発生したと考えられています。
しかし、21世紀を迎えた現在でさえ、私達は21世紀いまだに、
無から人工的に『生命』を創り出すことはできていません。
可能性はありますが、実証はされていないのです。
★ 『存在意識』=『脳』?
さて、仮にこのような『生命』の自然発生を認めたとしても、
次には、その単細胞の有機生命体に我々のような『存在意識』
がどのように備わったのかが問題になります。
何を持って『存在意識』というのかにも、様々な解釈があると
思いますが、最低限、『自己を存続させようとする意思』があ
ることを『存在意識』の第1歩としてみましょう。
原初の有機生命体については、恐らく単細胞生物から始ま
ったと推測されます。果たしてその単細胞に『存在意識』があ
ったのでしょうか。
私達人間に即して考えれば、我々の中にある1個の精子や
卵細胞について『存在意識』があるかどうかと言う問いに置き
換えることが出来ます。
仮に『単細胞にも存在意識がある』と考えることにすると、
例えば受精の際、個々に存在した2つの『存在意識』がどうな
ってしまうのかが問題になります。
まず、『合体した場合は、どちらかの意識が消滅する』と
考えることもできます。つまり、多細胞になる瞬間、どれか一つ
の『存在意識』だけが残ると考えることになります。
しかし一方では、我々の細胞は、それぞれの場所で個々に
生命活動をしており、体から切り離されても、一定の条件下で
「生きている」からこそ臓器移植も可能となります。
ましてや、プラナリア等の下等生物では、複数に分断された
後も個々に再生して、複数の個体となり、それぞれに『存在意
識』 を持っているように見えます。
このように考えると、『存在意識』は全ての細胞にあるのでは
無く、どこかの段階で、個々の有機生命体に、それぞれ1つ
ずつ発生すると考えた方が自然に思えます。
1つの考え方として、個々の有機生命体に、『脳』が出来た瞬
間に『存在意識』も発生すると考える見方もできます。確かに
多くの動物については、これで説明はできます。
しかし、全ての植物には『脳』はありません。動物でも、左
右相称動物でないもの―クラゲやヒトデの類、サンゴのような
群体生物には『脳』はないと言われています。
(ただし、『腸』が『脳』の役割をしているという説もあります。)
ここで『脳のない生命には存在意識は無い』と定義すると、
植物やクラゲ等は、ただ何となく自己の複製物を造り続けてい
るということになります。
私達の既成の科学の範囲に留まれば、これで十分かも知れ
ません。しかし現世には、これだけでは説明できない現象も
多々あります。
例えば、精神医学上『多重人格症』と呼ばれる症例がありま
す。ひとつの肉体に、複数の『存在意識』が入れ替わって現れ
るような症例です。
無論これも、そういう病気であって、ひとつの『存在意識』が、
多数の異なる自己を演じているのだという解釈もあります。
しかし、そのことを証明できるわけではありません。
さらに、オカルト的な分野にまで踏み込めば、他人の肉体に、
違う『存在意識』が憑依し、憑依した本人で無ければあり得
ない言動をみせる現象が存在します。
この場合『脳』はその肉体の持ち主のものしかありません。
そして、当該『脳』が自己の経験しない記憶を有しているとは、
とうてい考えられません。
ということになれば、『存在意識』は、私達の『脳』等が創り出
しているものでは無く、外から我々の肉体に結びつき、それを
操っていると考えた方がうまく説明がつきます。
★ 『存在意識』の源
それでは、この『存在意識』はどこから出現したのでしょうか。
上記のような現象も含めた場合、この問いに対しては、恐らく誰
も答えることはできないでしょう。
ところで私達は、この『存在意識』を、通常は『自我意識』とし
て感じていますが、昆虫や動物の場合、種の存続のために自己
を犠牲にする行動が見られます。
例えばミツバチは、巣に対する外敵の侵入に対して、自己を犠
牲にして集団攻撃をします。ここには自己を存続させようという意
識を超えた種の保存の意識が働いています。
この場合の個々の個体の『存在意識』は共有された『集合意
識』に限りなく近くなります。と言うより、動物の場合は基本的に
は『集合意識』が働くことの方が多いように見えます。
私達人間の場合は、かなりの部分を『自我意識』が支配して
いますが、血族や民族が未曾有の危機に瀕した場合は『集合
意識』的な行動をとる場合があります。
この『集合意識』をより拡大していけば、やがて『人類意識』、
さらには全ての動植物をも含めた『地球意識』とでも言うべき大
きな『集合意識』となっていくでしょう。
さらにシュタイナーの説に従えば、現在の『地球』以前に進化
を遂げた生命体や、その霊、そしてそれに対峙しているように見
えるアーリマンやルシファーでさえ、同じ目的を共有しています。
そして、ミトラ神学のいうズルワンのように、その根源はただ1
つのものであると思います。私達はそれを、あたかも自分の『自
我意識』であるかのように錯覚しているだけだと思うのです。
小生は、この『根源の意識』こそ、『神』と呼ばれるべきもので
はないかと思っています。無論、形姿の有無は問いませんし、
単なる『作用』かもしれません。
つまり、存在しているのは『神』というただ1つの意識のみであ
り、私達はそこから派生している『分身』のひとつに過ぎないの
ではないかと思うのです。
ジョン・レノンは『Imagin』のメロディーにのせて、『想像してご
らん。私達には違いなど無く、いずれ1つになれるのだ』
と歌いました。
そもそも、私達一人ひとりが、ただ1つの『神』の『分身』なの
ですから、差別も争いも疑いも、『神』の自作自演ということに
なるでしょう。
しかし、だからと言って、この『自作自演の世界が無意味だ』
と言う訳ではなく、私達、つまり『神』自身の成長のために必要
な仮想空間なのです。
その意味では、差別や争いや疑いは、この世界から消えて
しまうことは無いでしょう。それらを一つひとつ克服する度、さら
なる高度な『過ち』を、『神』自身が投げかけるのです。
ただし、『それなら過ちは永遠に無くならないでは無いか』と
絶望するのは間違いです。『過ち』と気づいた以上、同じ『過ち』を
繰り返さなくなることこそ、この世界の目的なのです。
私達の全てが『この過ちはもう二度と繰り返さない』という自覚
を持つことこそ、私達の魂の成長であり、その一つひとつが『アセン
ション』なのでは無いかと、小生は思います。
この世には、差別も争いも疑いも、現に存在し続けます。し
かし、それは幻想であり、本来はひとつなのだと『Imagin』しよ
うと、ジョンの詩は呼びかけ続けるのです。
さて、次回第190夜は『一神論』について、考えてみましょう。
( 追伸 )
中曽根君、君とも本来はひとつなのだと、
言えるような言動を、
これからは望みたいものだ。
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-弟子のクッテネルがお送りします。
≪神と呼ばれるもの≫
★ 『生命』を造り出すもの
以下、今までお話しして来たことを踏まえて、小生なりの総括
的な現世観をまとめていきましょう。
まず、『何故、私達は現世に存在しているのか』ということ
を考えて見ましょう。その場合、『神』の存在の有無と、その実
体の定義が必要になってくると思います。
宗教的な話になると『神』が『万物の創造者』ということで片
付けられてしまいます。逆に、無神論者の方は『そんな存在な
どなく、自然に発生したのだ』ということになります。
初めから『人間の創造者』の問題を取り上げたのでは、両者
の水掛け論となってしまいますので、ここでは、もう少し根源的
なこと―生命とは何かという点から考えてみましょう。
現世においての、生物と無生物の違いは、それ自身に『自己、
若しくは自己の複製物を存続させようとする働き』があるか
どうかにあると思います。
無論、無生物をそのまま放って置いても、そのような働きは生
まれてきませんので、『生命』に変化させる、何らかの作用が
存在したと考えるのが自然だと思います。
一般には、無機物の塊の中に稲妻のような刺激が加わっ
て、原始的なたんぱく質様の分子結合が出来、そこから有機生
命体の細胞が発生したと考えられています。
しかし、21世紀を迎えた現在でさえ、私達は21世紀いまだに、
無から人工的に『生命』を創り出すことはできていません。
可能性はありますが、実証はされていないのです。
★ 『存在意識』=『脳』?
さて、仮にこのような『生命』の自然発生を認めたとしても、
次には、その単細胞の有機生命体に我々のような『存在意識』
がどのように備わったのかが問題になります。
何を持って『存在意識』というのかにも、様々な解釈があると
思いますが、最低限、『自己を存続させようとする意思』があ
ることを『存在意識』の第1歩としてみましょう。
原初の有機生命体については、恐らく単細胞生物から始ま
ったと推測されます。果たしてその単細胞に『存在意識』があ
ったのでしょうか。
私達人間に即して考えれば、我々の中にある1個の精子や
卵細胞について『存在意識』があるかどうかと言う問いに置き
換えることが出来ます。
仮に『単細胞にも存在意識がある』と考えることにすると、
例えば受精の際、個々に存在した2つの『存在意識』がどうな
ってしまうのかが問題になります。
まず、『合体した場合は、どちらかの意識が消滅する』と
考えることもできます。つまり、多細胞になる瞬間、どれか一つ
の『存在意識』だけが残ると考えることになります。
しかし一方では、我々の細胞は、それぞれの場所で個々に
生命活動をしており、体から切り離されても、一定の条件下で
「生きている」からこそ臓器移植も可能となります。
ましてや、プラナリア等の下等生物では、複数に分断された
後も個々に再生して、複数の個体となり、それぞれに『存在意
識』 を持っているように見えます。
このように考えると、『存在意識』は全ての細胞にあるのでは
無く、どこかの段階で、個々の有機生命体に、それぞれ1つ
ずつ発生すると考えた方が自然に思えます。
1つの考え方として、個々の有機生命体に、『脳』が出来た瞬
間に『存在意識』も発生すると考える見方もできます。確かに
多くの動物については、これで説明はできます。
しかし、全ての植物には『脳』はありません。動物でも、左
右相称動物でないもの―クラゲやヒトデの類、サンゴのような
群体生物には『脳』はないと言われています。
(ただし、『腸』が『脳』の役割をしているという説もあります。)
ここで『脳のない生命には存在意識は無い』と定義すると、
植物やクラゲ等は、ただ何となく自己の複製物を造り続けてい
るということになります。
私達の既成の科学の範囲に留まれば、これで十分かも知れ
ません。しかし現世には、これだけでは説明できない現象も
多々あります。
例えば、精神医学上『多重人格症』と呼ばれる症例がありま
す。ひとつの肉体に、複数の『存在意識』が入れ替わって現れ
るような症例です。
無論これも、そういう病気であって、ひとつの『存在意識』が、
多数の異なる自己を演じているのだという解釈もあります。
しかし、そのことを証明できるわけではありません。
さらに、オカルト的な分野にまで踏み込めば、他人の肉体に、
違う『存在意識』が憑依し、憑依した本人で無ければあり得
ない言動をみせる現象が存在します。
この場合『脳』はその肉体の持ち主のものしかありません。
そして、当該『脳』が自己の経験しない記憶を有しているとは、
とうてい考えられません。
ということになれば、『存在意識』は、私達の『脳』等が創り出
しているものでは無く、外から我々の肉体に結びつき、それを
操っていると考えた方がうまく説明がつきます。
★ 『存在意識』の源
それでは、この『存在意識』はどこから出現したのでしょうか。
上記のような現象も含めた場合、この問いに対しては、恐らく誰
も答えることはできないでしょう。
ところで私達は、この『存在意識』を、通常は『自我意識』とし
て感じていますが、昆虫や動物の場合、種の存続のために自己
を犠牲にする行動が見られます。
例えばミツバチは、巣に対する外敵の侵入に対して、自己を犠
牲にして集団攻撃をします。ここには自己を存続させようという意
識を超えた種の保存の意識が働いています。
この場合の個々の個体の『存在意識』は共有された『集合意
識』に限りなく近くなります。と言うより、動物の場合は基本的に
は『集合意識』が働くことの方が多いように見えます。
私達人間の場合は、かなりの部分を『自我意識』が支配して
いますが、血族や民族が未曾有の危機に瀕した場合は『集合
意識』的な行動をとる場合があります。
この『集合意識』をより拡大していけば、やがて『人類意識』、
さらには全ての動植物をも含めた『地球意識』とでも言うべき大
きな『集合意識』となっていくでしょう。
さらにシュタイナーの説に従えば、現在の『地球』以前に進化
を遂げた生命体や、その霊、そしてそれに対峙しているように見
えるアーリマンやルシファーでさえ、同じ目的を共有しています。
そして、ミトラ神学のいうズルワンのように、その根源はただ1
つのものであると思います。私達はそれを、あたかも自分の『自
我意識』であるかのように錯覚しているだけだと思うのです。
小生は、この『根源の意識』こそ、『神』と呼ばれるべきもので
はないかと思っています。無論、形姿の有無は問いませんし、
単なる『作用』かもしれません。
つまり、存在しているのは『神』というただ1つの意識のみであ
り、私達はそこから派生している『分身』のひとつに過ぎないの
ではないかと思うのです。
ジョン・レノンは『Imagin』のメロディーにのせて、『想像してご
らん。私達には違いなど無く、いずれ1つになれるのだ』
と歌いました。
そもそも、私達一人ひとりが、ただ1つの『神』の『分身』なの
ですから、差別も争いも疑いも、『神』の自作自演ということに
なるでしょう。
しかし、だからと言って、この『自作自演の世界が無意味だ』
と言う訳ではなく、私達、つまり『神』自身の成長のために必要
な仮想空間なのです。
その意味では、差別や争いや疑いは、この世界から消えて
しまうことは無いでしょう。それらを一つひとつ克服する度、さら
なる高度な『過ち』を、『神』自身が投げかけるのです。
ただし、『それなら過ちは永遠に無くならないでは無いか』と
絶望するのは間違いです。『過ち』と気づいた以上、同じ『過ち』を
繰り返さなくなることこそ、この世界の目的なのです。
私達の全てが『この過ちはもう二度と繰り返さない』という自覚
を持つことこそ、私達の魂の成長であり、その一つひとつが『アセン
ション』なのでは無いかと、小生は思います。
この世には、差別も争いも疑いも、現に存在し続けます。し
かし、それは幻想であり、本来はひとつなのだと『Imagin』しよ
うと、ジョンの詩は呼びかけ続けるのです。
さて、次回第190夜は『一神論』について、考えてみましょう。
( 追伸 )
中曽根君、君とも本来はひとつなのだと、
言えるような言動を、
これからは望みたいものだ。
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