2010.02.05
トンデモ話は奥で繋がる(8) 22.2.5
トンデモ話は奥で繋がる 「第八夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。
≪死後の魂と宇宙人、どっちも有?≫
★ 「宗教」に対する心構え
こうして、当時の中東情勢を理解とようと始めた「宗教」の成立経緯
の勉強でしたが、学生時代に「倫理社会」のテスト勉強として詰め込ん
だイメージとは、かなり違った印象を持ちました。
そして、「宗教」を見極める上では、以下の2点について慎重に判断
すべきだと感じました。
① その宗教の発端となった人物(あえて、"創始者"とは言わないこ
ととします)が伝えようとした教義と、現在「正統」とされている
教義とは、かなり異なっている可能性があること。
② 発端となった人物が没した後に、権威的な階層が出来上がってい
る場合には、単に彼らの都合により「異端とされてしまった真実」
がある可能性があること。
そしてこのことは、現代社会で一見「トンデモ話」扱いされている事項
に相対する上で、非常に重要な心得であるような気がします。
★ 自分の"立ち位置"を決めること
日本においては、極端な『政教分離』政策が敷かれているため、教育
の現場では「宗教」への取り組み方を学ぶ機会がありません。
一方現社会では、何でもありの「日本的無宗教観」が一般的となって
しまっているため、いったん「宗教と思い込んだもの」に嵌ってしまう
と、出口、すなわち、「これは自分の求めている宗教とは違う」という
感覚を確認できぬまま、身を滅ぼしてしまうケースが多々あります。
その原因の多くは、「宗教」に近づく(あるいは近づかれる)前に、
それに対する自分の"立ち位置"を決めていないことにあると思うのです。
小生は、宗教を信じようが信じまいが、この世界の成り立ちについて、
自分で決断すべき事項が二つあると考えています。
一つ目は、「死後も自分の意識が存在するかどうか」です。
実は、日本人の多くは、このことについて非常に「あいまい」です。
先祖代々の墓をしっかりと受け継ぎ、盆や命日の作法は欠かさない人で
も、「霊」の存在については「そんなものは無い」と考えている人が多
々あります。
しかし、「死後は何も残らない」のであれば、「墓」も「先祖供養」
も必要ないはずです。自分の世間体だけでしている人もいるかも知れま
せんが、それならば息子や娘に、「自分の墓や供養は自由にしてよい」
と言い切れるはずです。
二つ目は、「人類以外の生命体(又は意識体)があるかどうか」です。
首相が交代してから、「宇宙人」という言葉もずいぶんメジャーにな
りましたが、一般には「宗教」と関連付けて考えている人は少ないと思
います。しかしながら、「宗教」の多くは、彼らの『神』を前提に(しば
しば、自分自身をも指して)語られます。それが、「人間」を指している
のでない以上、その姿の可視・不可視に関わらず、「地球外生命体」を
指しているわけです。
★ Ⅰ 「死後の意識」もなく、「地球外生命」もない
この"立ち位置"をとる場合には、「現世での幸福」のみがテーマとな
るでしょう。富や名誉が目的の人から、誠実に生きることに価値を置く
人まで様々です。また、死後は自分の「意識」はないけれど、その生き
た証は残したい人もいるでしょう。
または、死ぬまでの時間を限りなく伸ばす、はたまた始皇帝のように
「不老不死」を目指すというのもあるかも知れません。
この場合は本来「宗教」は不要では無いでしょうか。むしろ「処世術
」なり「儒教精神」なりを身につけて、その信念にあった行動を自ら実
践すればよいはずです。仮にグループで行動するにしても、それは「宗
教」とは違うものだと思います。
また、「不老不死」の仙人的な人物がいたとしても、「宗教」という
より、徒弟的な「修行」の一種でしょう。ただし、何世紀も「死んだこ
との無い」人に出会えばの話ですが…。
★ Ⅱ 「死後の意識」はあるが、「地球外生命」はない
この"立ち位置"をとる場合には、「肉体」とは別に「意識としての魂」
があると考え、次の「肉体」への「生まれ変わり」が主たるテーマとな
ります。最もオーソドックスなのは「チベット仏教」にあるような、
「魂」は死後の「中有」の期間を経て輪廻転生を繰り返すか、そこから
解脱して「仏の世界」へ行くというものでしょう。
この場合、「仏の世界」に居るのは、修行を成し終えた「魂」であり、
元は皆「人間の意識」です。
解脱してそこに到達するか、輪廻を繰り返すかは、「中有」の「魂」
の選択にかかっており、「チベット死者の書」にはその心得が書かれて
いる…とすれば、個々人の事前の修養さえできていれば、この場合も
「宗教」の集団に属する必要はないように思います。
★ Ⅲ 「死後の意識」はないが、「地球外生命」はある
この"立ち位置"をとる場合には、「地球外生命」の性質によって
「現世」の意味合いが変わる可能性があります。
仮に「地球外生命」が、科学の進歩度等の差こそあれ、自分たちと同
じように、限られた寿命を生きているのであれば、それほど影響は無い
でしょう。もっとも、天変地異が起こった際、科学力に勝る彼らの援助
ぐらいは期待できるかも知れません。
さらに進んで(?)、全く別の次元の「地球外生命」がいるとしたら、
例えば「時間」を超越して存在する、或いは肉体を必要とせず「意識」
のみで存在できる「生命」があるとすれば…「人間」にも、そうした存
在になる可能性があるかもしれません。
どちらにせよ、ガンコな特定宗教のファン以外は、古代人・現代人を
問わず、思わず「彼(等)こそ『神』だ。」と思い込む可能性は大いに
あります。しかしながら、そのまま100%信じ込むのは大変危険です。
自分の出会った、または気に入った「地球外生命」だけが、特別な存
在ではない場合のリスクを常に考えなければなりません。ましてや即
『神』としてしまうのは禁物です。
小さな地球上にいる我々の中ですら、さまざまな「宗教」が百花繚乱
しているのです。彼らには彼らの都合や、自説があって当然で、或いは
どこかの星のように『派閥争い』がある可能性も大いにあります。天変
地異からは救われるものの、もっと悲惨な現実へと招かれる可能性だっ
てあるやもしれません。
さて、当時の小生自身は、残った「立ち位置Ⅳ」を選択しました。
次回 第九夜では、そこに至った理由について述べてみたいと思います。
目次のペーシへはこちらから
-弟子のクッテネルがお送りします。
≪死後の魂と宇宙人、どっちも有?≫
★ 「宗教」に対する心構え
こうして、当時の中東情勢を理解とようと始めた「宗教」の成立経緯
の勉強でしたが、学生時代に「倫理社会」のテスト勉強として詰め込ん
だイメージとは、かなり違った印象を持ちました。
そして、「宗教」を見極める上では、以下の2点について慎重に判断
すべきだと感じました。
① その宗教の発端となった人物(あえて、"創始者"とは言わないこ
ととします)が伝えようとした教義と、現在「正統」とされている
教義とは、かなり異なっている可能性があること。
② 発端となった人物が没した後に、権威的な階層が出来上がってい
る場合には、単に彼らの都合により「異端とされてしまった真実」
がある可能性があること。
そしてこのことは、現代社会で一見「トンデモ話」扱いされている事項
に相対する上で、非常に重要な心得であるような気がします。
★ 自分の"立ち位置"を決めること
日本においては、極端な『政教分離』政策が敷かれているため、教育
の現場では「宗教」への取り組み方を学ぶ機会がありません。
一方現社会では、何でもありの「日本的無宗教観」が一般的となって
しまっているため、いったん「宗教と思い込んだもの」に嵌ってしまう
と、出口、すなわち、「これは自分の求めている宗教とは違う」という
感覚を確認できぬまま、身を滅ぼしてしまうケースが多々あります。
その原因の多くは、「宗教」に近づく(あるいは近づかれる)前に、
それに対する自分の"立ち位置"を決めていないことにあると思うのです。
小生は、宗教を信じようが信じまいが、この世界の成り立ちについて、
自分で決断すべき事項が二つあると考えています。
一つ目は、「死後も自分の意識が存在するかどうか」です。
実は、日本人の多くは、このことについて非常に「あいまい」です。
先祖代々の墓をしっかりと受け継ぎ、盆や命日の作法は欠かさない人で
も、「霊」の存在については「そんなものは無い」と考えている人が多
々あります。
しかし、「死後は何も残らない」のであれば、「墓」も「先祖供養」
も必要ないはずです。自分の世間体だけでしている人もいるかも知れま
せんが、それならば息子や娘に、「自分の墓や供養は自由にしてよい」
と言い切れるはずです。
二つ目は、「人類以外の生命体(又は意識体)があるかどうか」です。
首相が交代してから、「宇宙人」という言葉もずいぶんメジャーにな
りましたが、一般には「宗教」と関連付けて考えている人は少ないと思
います。しかしながら、「宗教」の多くは、彼らの『神』を前提に(しば
しば、自分自身をも指して)語られます。それが、「人間」を指している
のでない以上、その姿の可視・不可視に関わらず、「地球外生命体」を
指しているわけです。
★ Ⅰ 「死後の意識」もなく、「地球外生命」もない
この"立ち位置"をとる場合には、「現世での幸福」のみがテーマとな
るでしょう。富や名誉が目的の人から、誠実に生きることに価値を置く
人まで様々です。また、死後は自分の「意識」はないけれど、その生き
た証は残したい人もいるでしょう。
または、死ぬまでの時間を限りなく伸ばす、はたまた始皇帝のように
「不老不死」を目指すというのもあるかも知れません。
この場合は本来「宗教」は不要では無いでしょうか。むしろ「処世術
」なり「儒教精神」なりを身につけて、その信念にあった行動を自ら実
践すればよいはずです。仮にグループで行動するにしても、それは「宗
教」とは違うものだと思います。
また、「不老不死」の仙人的な人物がいたとしても、「宗教」という
より、徒弟的な「修行」の一種でしょう。ただし、何世紀も「死んだこ
との無い」人に出会えばの話ですが…。
★ Ⅱ 「死後の意識」はあるが、「地球外生命」はない
この"立ち位置"をとる場合には、「肉体」とは別に「意識としての魂」
があると考え、次の「肉体」への「生まれ変わり」が主たるテーマとな
ります。最もオーソドックスなのは「チベット仏教」にあるような、
「魂」は死後の「中有」の期間を経て輪廻転生を繰り返すか、そこから
解脱して「仏の世界」へ行くというものでしょう。
この場合、「仏の世界」に居るのは、修行を成し終えた「魂」であり、
元は皆「人間の意識」です。
解脱してそこに到達するか、輪廻を繰り返すかは、「中有」の「魂」
の選択にかかっており、「チベット死者の書」にはその心得が書かれて
いる…とすれば、個々人の事前の修養さえできていれば、この場合も
「宗教」の集団に属する必要はないように思います。
★ Ⅲ 「死後の意識」はないが、「地球外生命」はある
この"立ち位置"をとる場合には、「地球外生命」の性質によって
「現世」の意味合いが変わる可能性があります。
仮に「地球外生命」が、科学の進歩度等の差こそあれ、自分たちと同
じように、限られた寿命を生きているのであれば、それほど影響は無い
でしょう。もっとも、天変地異が起こった際、科学力に勝る彼らの援助
ぐらいは期待できるかも知れません。
さらに進んで(?)、全く別の次元の「地球外生命」がいるとしたら、
例えば「時間」を超越して存在する、或いは肉体を必要とせず「意識」
のみで存在できる「生命」があるとすれば…「人間」にも、そうした存
在になる可能性があるかもしれません。
どちらにせよ、ガンコな特定宗教のファン以外は、古代人・現代人を
問わず、思わず「彼(等)こそ『神』だ。」と思い込む可能性は大いに
あります。しかしながら、そのまま100%信じ込むのは大変危険です。
自分の出会った、または気に入った「地球外生命」だけが、特別な存
在ではない場合のリスクを常に考えなければなりません。ましてや即
『神』としてしまうのは禁物です。
小さな地球上にいる我々の中ですら、さまざまな「宗教」が百花繚乱
しているのです。彼らには彼らの都合や、自説があって当然で、或いは
どこかの星のように『派閥争い』がある可能性も大いにあります。天変
地異からは救われるものの、もっと悲惨な現実へと招かれる可能性だっ
てあるやもしれません。
さて、当時の小生自身は、残った「立ち位置Ⅳ」を選択しました。
次回 第九夜では、そこに至った理由について述べてみたいと思います。
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