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トンデモ話は奥で繋がる(172) 24.9.2

トンデモ話は奥で繋がる 「第172夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪霊的本性たち ④≫
 
 ★ 惑星紀~③月紀

 さて『月紀』には、人類の進化にとって最も大きな出来事である、
『太陽』の分離が起こります。それでは、再びシュタイナーの話か
ら入ってゆきましょう。

 「 第1『月』周期では、土星存在がやや異なった形で、
  繰り返されるだけである。第2『月』周期も、まだ何
  も新しいものをもたらさない。

   …第3『月』周期に到って、初めて新しいものが加
  わる。人間は物質体とエーテル体に加えて、アストラ
  ル体
を得たのである。

   この段階の人間は、外的な形態としては、物質体、
  エーテル体、アストラル体を持っている今日の動物
  比べることができる。

   『月』において、人間は動物界の段階に到ったので
  ある。…今や、植物界を分離することによって、動物
  界に高まったのである。

   こうして、人間の傍らに、2つの領域が存在するこ
  とになる。人間は再び小さな部分を自分から分離し、
  上昇する。

   第3『月』周期に、重要な宇宙的プロセスが生じる。
  太陽と月が分離するのである。月が太陽を分離し、
      2 つの天体が出来た。

   …太陽は高貴な部分を保持し、外から月に光を注
  ぎ、月の存在全てに必要なものを与える。太陽は今
  や恒星に昇進
したのである。

   …太陽は、低次の部分を分離した後で、高次の存
  在に宿を貸す


    第4周期に全ては完成し、第5周期において、
  つの天体は再び1つに合体
する。そうして、1つの天
  体として、プラヤナの中に消えてゆく。」

  (ルドルフ・シュタイナー『神智学の門前にて』pp116-117
  《イザラ書房(西川隆範訳)》より抜粋転載)


 何と、いったん月から分離した太陽も、消え入る前には再び合
体してしまいます
。実はこうした展開は、次の『地球紀』にも見ら
れるのですが、折角できた天体も、また元に戻っています。

 こうした『創っては壊し』の繰り返しの歴史を見ていると、小生に
は、まるで何者かが地球を含む天体使って『粘土遊び』でもし
ているように見えてきます。

 ★ 月紀の生命体 

 「『月』は当時、まだ固い鉱物界を有していなかった。
  『月』は、固い地殻の代わりに、生命的な、内的に
  成長する泥炭沼のような天体だった。

   この生きた基質には、木のような構成体がが混
  ざっていた。その上に、当時の植物界が生長した。

   当時の植物は、本来、植物動物だった。植物動
  物は感覚を有し、圧力を苦痛に感じたことだろう。

   また、当時の動物界は今日の動物のようでは無
  く、人間と動物の中間にあった。

   当時の動物は、今日の動物より高次のもので、
  今日よりずっと計画的に衝動を遂行できたのであ
  る。

   しかし、その動物は、今日の人間よりは低次の
  ものだった。自分のことを『私』と言うことが出来な
  かった
からである。

   『月』の動物は、また自我を持っていなかった

   この3つの界が、生命的な『月体』の上に生きて
  いた。『月人間』は、今日の人間のように呼吸して
  はいなかった。

   『月人間』は空気を呼吸するのでは無く、火を呼
  吸
していた。火を吸うことによって、熱が人間の中
  に入り込んだ。

   火を吐き出すと、熱も出ていき、冷たくなった。
  今日の内的な血温を、人間は『月』では呼吸熱と
  して有していた。」

  (ルドルフ・シュタイナー『神智学の門前にて』p117
  《イザラ書房(西川隆範訳)》より抜粋転載)
   

 粘土質の『月』、感覚を持った『動物植物』、計画性な行
動をとれる『動物』、火を呼吸する『月人間』
…矢継ぎ早に
オカルト・パンチが繰り出されてきます。

 これらの講義が、初めて『神智学』を扉を開こうとする者達の
『門前』で繰り広げられたとすれば、大多数の聴衆は扉を開く
前に去ってしまったことでしょう。

 この部分は、小生から見ても、にわかに全てを受け入れる
ことは難しい
ところです。今は否定も肯定もせず、将来、自分
に語りかける菩薩の声を待つばかりです。

 ★ 惑星紀~④地球紀の始まり 
   
 さて、いよいよ『地球紀』に入っていきます。ここでも『月紀』
でお話ししたように、まるで陶芸師が、同じ焼物に何度も挑戦し
ているかのよう、同じ過程が繰り返されます。

 「 プラナヤの中に消え去った後、『月』は『地球』
  として、再び現れた。

   第1地球周期において、『土星』全体が繰り返さ
  れる。第2周期には『太陽』が繰り返され、第3周
  期
には『月』が繰り返された。

   第3周期には、太陽と月の分離も繰り返された。
  しかし、この周期の終わりには、太陽と月は再び
  一つの天体
になった。」

  (ルドルフ・シュタイナー『神智学の門前にて』pp117-118
  《イザラ書房(西川隆範訳)》より抜粋転載)


 何度も何度も、実にじれったい感じです。しかし、こうした展開
は何かに似ていると思いませんか。そうです、何度も失敗して
輪廻転生を繰り返す、私達人間の姿そのものです。

 惑星ですから、我々とは比べものにならない位、長い期間を
かけての成長です。しかし、ひとたびプラナヤの中に消え去れ
ば、次にはまた、前回と同じ過程を経なければなりません。

 しかし、前回の『生(マンヴァンタラ)』が全く無駄になるのでは
ありません。必ず、次の進化への手がかりを得て、惑星の生
涯を、もう一度初めからやり直すのです。

 そして私達人間は、その中で生きています。惑星と共に生き
ている
以上、惑星が進化すればその分だけ、我々人類も成長
してゆくことになるのです。

 つまり、当時の我々が『火を呼吸』できたかどうかは、現時点
で問題にしても意味が無い
のです。

 それは惑星の当時の進化の段階に合わせた、我々の成長の
過程
であったと言う他ないのです。 

 そして今『地球紀』にあって、我々は地球の進化とともに、全く
別の形で『熱』を得ています。まさに、『地球』がそのように進化
したために、我々も成長したわけです。

 これが、第169夜の西平氏の、まさに的を射た告白である、 

『そんな私にも重要だと思われるのは、人類が地球と一緒
に進化するという点である』

という言葉になっているのです。

 さて、次回第173夜は『月紀』には無い、新しい展開が始
まる『地球紀』の第4周期へと続きます。

( 追伸 )

 中曽根君、君は進化して、今後は放射能
でも呼吸してくれたまえ。

目次のペーシへはこちらから
 

トンデモ話は奥で繋がる(171) 24.8.26

トンデモ話は奥で繋がる 「第171夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪霊的本性たち ③≫
 
 ★ 惑星紀~①土星紀

 さて、前夜でお話したとおり、リーディングによる歴史観には、
パラレルワールドという弱点がありますが、正確な追究をする
限り、大局的な歴史観については、ある程度固まったものになる
と思われます。

 しかし、神智学や人智学の場合、通常のリーディングの範疇を
超えた、物質的な地球の誕生以前の話から始めているため、
地質学的な根拠も乏しく、全くの空想と言われても反論はできま
せん。

 そのため、西平氏があえて『補論』とし、『自分にも理解できて
いない』
とした心情は理解できますし、全く正直な感慨であると言
えるでしょう。

 無論、その思いは小生にもありますが、シュタイナーの捉えた
世界を理解する上で、『地球紀』に到るまでの出来事は、どうして
も避けて通れない部分なのです。

 以下、その部分のリーディングについて、西川氏の『神智学の
門前にて』
の翻訳本から、地球と人類(といっても現在のそのま
まの意味ではありません)
の歴史を抜粋してみましょう。

 「 地球は、現在の惑星になる前は、別の惑星だった。
  この地球は4つの受肉を経てきている『土星』
  『太陽』『月』『地球』
である。

   『土星』『太陽』『月』『地球』という名は、今日存在
  する惑星を指しているのでは無い


   …太古の『太陽』は惑星だった。受肉の経過の中
  で『太陽』は惑星から恒星の等級に上昇したのであ
  る。

   太古の『月』と名付けられているものも、…地球の
  第三受肉段階
である。
   『土星』は地球の最初の進化段階である。
  ……………………………………………………………

   『土星』上に、既に人間は存在していた。…しばら
  くの間存在した後、『土星』は次第に消えていき、長
  い間、目に見えなくなった。

   そして次に『太陽』として再び出現し、輝きを発した。
  『太陽』も同様の経過を辿り、次に『月』として再び現
  れた


   そして同様にして『地球』が現れたのである。
  …互いに分離した惑星と思い描いてはならない。
  …1つの惑星の、4つの現象状態なのである。
  ……………………………………………………………

   惑星上の存在も、全て、惑星と共に変容していっ
  た。人間は他の惑星上にいたことは無い。地球がさ
  まざまな状態で存在したのである。

   地球が『土星』であった頃は、人間界の最初の萌
  芽
しか存在しなかった。今日、人体は非常に精巧に
  作られているが、土星上にはその最初の萌芽しか
  存在しなかった。

   鉱物、植物、動物は存在しなかった。人間は創造
  の初子
なのである。…『土星人間』は大部分、霊的
  存在
だった。

   …この人間の姿は一種のオーラの卵であり、その
  中に小さな西洋梨のような皮の形姿があり、閉じた
  牡蠣の殻の様な、一種の渦巻きがある。」

  (ルドルフ・シュタイナー『神智学の門前にて』pp110-112
  《イザラ書房(西川隆範訳)》より抜粋転載)
  

 細胞分裂中にある受精卵は、途中、幾つかの組織の生滅を繰
り返しながら、次々とその形態を変えてゆきます。まさにそれと同じ
ことが、我々の惑星自体にも起こっているのです。

 神智学等では、その幾つかの生滅の時期を、各惑星の名前をつ
けて呼んでいるに過ぎません。しかも各惑星は、その末期にはい
ったん消え去ってしまう
ようです。

 ★ 惑星紀~②太陽紀

 さて、我々人間は、他の物質体に先駆けて土星に現れましたが、
やがて土星の消滅とともに消えていき、次のステージへと進化し
てゆきます。
 
 「 『土星』はプラナヤの中に消え去り、そのプラナヤ
  の中から『太陽』として再び現れた。『太陽』とともに
  人間も再び現れた。

   しかし、その間に人間は、何かを自分から分離す
  る力
を得た。かたつむりが殻を抜け出るようにであ
  る。

   人間は殻のような形のものを、浮遊する形態とし
  て分離し、進化するために、精妙な素材を自分の
  内に留めた


   こうして、人間は自分から、鉱物界を形成したの
  である。しかし、この鉱物は一種の生きた鉱物だっ
  た。

   人間は『太陽』上で、今日の植物のように、エー
  テル体が加わるように進化
した。人間は『太陽』上
  で植物界を通過したのである。…

   『太陽』上で、人間は植物だった。人間は『太陽』
  の中にあり、『太陽』の身体に属していた。『太陽』
  は光体だった。

   『太陽』は光エーテルから成り立っていた。人間
  はまだ植物であり、
頭を『太陽』の中心点に向けて
  いた。」

  (ルドルフ・シュタイナー『神智学の門前にて』pp114-115
  《イザラ書房(西川隆範訳)》より抜粋転載)


 まず『プラヤナ』について説明しなければならないでしょう。
(…と言っても、小生が正しく理解して説明をできるのかどうか、甚
だ疑わしいのですが。)

 シュタイナー曰く、

 『 惑星が前段階の受肉の期間を終えて、次の受肉
  を行う間、惑星の姿が見えず、外的な生命を送ら
  ない時期
 』
 
 を言う言葉だそうです。さてこれを、この言葉のまま理解できる方
は、シュタイナーをある程度読み込んでいる方だと推察いたします。

 かく言う小生は、この文章を書き込んでみて、ようやく朧げに理解
した程度ですが、以下、蛇足と薄学を覚悟の上で、少々解説してみ
ます。

 まず大前提として、『惑星』も『意識』を持つひとつの生命体
あって、我々と同じく彼等の『意識』が、惑星の『体』に受肉する
ことで、現世に『生まれる』のです。

 そして、現世での『死』を迎える際、その『意識』は惑星の体を離
、別の世界(恐らく我々と同じ霊界)へ移り、惑星の体は消滅して、
現世には何もなくなります。

 この惑星の『生』と『生』の間の期間をプラナヤと言っているのです。
ちなみに『生』の期間についてはマンヴァンタラと言っています。
(まあ名前は何でもいいのですが。)
 ………………………………………………………………………

 ところで『太陽』の中で人類は、殻のようなものを脱ぎ捨て、自ら
の中に『エーテル体』の成分を加えた『植物体』の段階へと進化
たと言います。

 一方で、脱ぎ捨てられた殻は『鉱物界』となって、別の進化を歩
んでいきます。つまり、鉱物そのものも、その源は人間が産み出
した
ものだとシュタイナーは言います。

 ただし、それは『生きた鉱物』であり、今ある鉱物とは違うものだと
も言っています。シュタイナーはそれ以上言及していませんが、小生
は次のように考えています。

 まず始めに、第138夜の図を思い出してください。我々を含む
ての存在
は、物質界から神界まで間に『4つの体』全てを持ってい
ます。
縮西川各界

 うち『鉱物』は『物質体』以外は全て『アストラル界』より上位にあり
ます。従って、現世では、個々の意思を持って生きてはいません

 ところが『土星紀』の人間は、まさに『物質体』だけで『生きて』
いた言います。しかも、それでいて「霊的」な存在であり、『太陽紀』
に移って初めて、自らの中から『エーテル体』を創り出しています。

 つまりこの時期の人間は、ちょうど植物の種のような存在で、外見
上は生きているように見えませんが、種の中には将来他の『3つの
体』
となるべき要素を宿した状態だったのです。

 そしてそれは、脱ぎ捨てられた『鉱物』も同じ、鉱物達は『4つの
体』の全ての要素を持って物質界に存在し
、動きは無くとも、個々
の意思で生きていた
のだと思います。
 ………………………………………………………………………

 さて、このようにシュタイナーの話す『アーカーシャ年代記』は、全く
雲をつかむような話で、西平氏が説明をためらった気持ちもわかる
と思います。
 
 無論『これを証明せよ』と言われても、我々にはなす術はありません。
しかしその時、我々は第168夜でお話しした、2つの悪癖に陥って
はいけないのです。

 非科学的だと切り捨てるのでも、盲目的に信じるのでもなく
あくまで、菩薩自身から受け取った霊感に従うのです。それが無
いうちは、否定も肯定も早まってはいけません。

 そして、シュタイナーは、このように受け取ったということです。
そこには何の証明も必要とされません。『真理であると認識する故
に語』
ったのです。
 
 以下、しばらく、このことを念頭においておつきあいください。

 さて、次回第172夜は『月紀』の話へと続きます。
( 追伸 )

 中曽根君、我々はそろそろ君の殻を
脱ぎ捨てる時のようだね。

目次のペーシへはこちらから
 

トンデモ話は奥で繋がる(170) 24.8.19

トンデモ話は奥で繋がる 「第170夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪霊的本性たち ②≫
 
 ★ アーカーシャ年代記

 さて、西平氏は、現在の『地球紀』に前後する7つの時期につい
て、シュタイナーがその源泉としているものについては、(恐らく意
図的に)
言及していません。

 しかし、度々紹介してきた西川氏の訳による『ルカ福音書講義』
によれば、過去の出来事の唯一の源泉は『アーカーシャ年代記』
であると、シュタイナーは言っています。

 「 過去の出来事についての霊的探求には、一つの源泉
  しか無い
というのは本当です。源泉は、外的な文献の
  中にはありません。
  (…中略…)

   不滅の年代記、アーカーシャ年代記の中に読み取る
  ことのできるものが、私達の霊的探求の源泉なのです。
  (…中略…)

   超感覚的な世界に参入した者は、アーカーシャ年代
  記を読むことを、次第に学んでいきます。アーカーシ
  ャ年代記は、普通の書物ではありません。

   皆様の霊眼の前に、一連の出来事が繰り広げられる
  と考えてください。ローマ皇帝アウグストゥスの行為が、
  霧のように、皆様の目の前に現れると考えてください。

   当時起きた事の全てが、皆様の霊眼の前に現れます。
  そのように、霊的探究者の前に、様々な事象が現れて
  来ます。」

  (ルドルフ・シュタイナー『ルカ福音書講義~仏陀とキリスト教』
 p21《イザラ書房(西川隆範訳)》より抜粋転載)


 つまり、リーディングの世界ではエドガー・ケイシーを始め、多
数の霊能力者がその存在に言及している『アカシック・レコード
と考えてよいでしょう。

 西平氏は、自分の学者としての立場もさることながら、このこと
に言及することが、シュタイナーが一般の霊能的カウンセラー
同列に見られてしまうことを懸念したのかも知れません。

 ★ リーディングの限界

 さて、やや脇道にそれますが、ここでアカシック・レコードを拠り
所とした、過去や未来のリーディングの確かさについて、少々
考えてみたいと思います。

 よく、同じ個人の過去生や歴史的事象をリーディングしても、
視者によって全く違った結果になってしまう
ことがあり、それ故、
いい加減な印象を与えてしまうことがよくあります。

 一般の方にしてみれば、能力の差異により、つかんだ印象に多
少の鮮明さの差があるのは仕方の無いとしても、同じ事象を探究
して、全く違うというのは合点のいかない所でしょう。

 しかし、数々の優れた霊能力を発揮したエドガー・ケイシーでさ
え、第二十三夜でも述べたように、そのリーディングによる予言が
外れる度、否定論者の格好の論拠にされています。

 この点について、シュタイナーは、このようないく違いが生じる一
番の原因は、我々が物質体、エーテル体、アストラル体、自我
の4つの構成要素の集合体であるから
だと説明しています。

 「 しかし、アーカーシャ年代記を読むのは、物質界
  の出来事を見るのとは違って、容易なことではあり
  ません。
  (…中略…)

   現在生きている人を考察して、『この人の自我は、
  前世ではどこにあったのか
』を知ろうとするなら、
  神界を通って、その人の前世に到らねばなりません。

   どの自我が輪廻転生を通じて、その人に属して来
  たのかを、はっきりさせねばなりません。

   複雑な方法で継続する自我を、地上の様々な段階
  と結びつけなくてはなりません。

   その自我が、前世でどの身体に受肉していたかを
  探究するとき、非常に誤謬に陥りやすくなります。
  (…中略…)

   物質体エーテル体とでは、全く違った流れを辿
  っているように、アストラル体独自の系図を有し
  ています。ですから、

   『 エーテル体は、ある全く別の個人の再来であ
    って、その人の自我が前世で受肉した人物の
    エーテル体と同じなのではない 


  と、言うことができるのです。
  (…中略…)

   誰かを霊的探究の観点から、完全に理解しようと
  するなら、その人の祖先の事を調べたり、その人の
  エーテル体の由来、アストラル体の由来を調べたり
  するだけでなく、

   物質体、エーテル体、アストラル体、自我の4つ
  の全てがどのような道を辿って、現在1人の人物に
  結びついている
かを、完全に調べなくてはなりませ
  ん。
  (…中略…)

   霊視者や秘儀参入者の観点から、人間であれ、他
  の存在であれ、世界の現象について語ろうとする時
  には、非常に込み入った状況に出会う、という事が
  お分かりいただけたと思います。」  
   
  (ルドルフ・シュタイナー『ルカ福音書講義~仏陀とキリスト教』
 pp22-26《イザラ書房(西川隆範訳)》より抜粋転載)
 

 つまり、その人の過去を見ているつもりでも、それが4つ要素の
どれに当たるのかを、常に注意して見てゆかないと、全く別の要素
の歴史や過去生と繋げてしまう
ことになるのです。

 ですから、その部分を見る霊的能力がいくら優れていても
意力や整理力を常に働かせている必要
があり、その部分が弱い
場合は、正確なリーディングが出来ない訳です。

 ★ 過去・未来の歴史

 もう一つ、過去や未来の歴史の確かさについてはどうでしょうか。
これについては、小生はまだ、シュタイナーの解説に出会った事は
ないので、小生なりの考え方をお話ししてみます。

 さて、歴史と言っても、自然界の大きな変動もあれば、人間が織
り成す人為的な歴史
もありますが、まず、後者の人為的な歴史か
ら考えて見ましょう。

 少々話が飛びますが、小生の乏しい『外国小説の読書歴』の中に、
トルストイの大作『戦争と平和』があるのですが、この小説をトルス
トイは、あるテーマを持って書いています。

 作品は、ナポレオンが台頭し、ロシア遠征に失敗するまでの期間
を通じて、戦争の時代に巻き込まれながら、多くの登場人物が織り
成す人生を、実に詳細に描いています。

 岩波文庫4冊で約2千頁強のこの大作を読み終えた後、薄学の小
生は、この小説のテーマを月並みにこう考えました。

『人間は、歴史の大きな流れに翻弄される生き物である。』と。

 ところが、『あとがき』には、トルストイ自身のテーマが解説されて
いました。そこには、『歴史はどう創られるのか』というテーマに
対し、小生とは正反対の洞察が載っていました。

 トルストイ曰く、

『 歴史とは、少数の英雄的存在によって創られるものでは
 無く、無数のひとり一人の繋がりによって動いてゆくもので
 ある』
と。

 つまり、小生がどこかの書店で一冊の本を買ったことさえ、
めぐり巡って、世界の歴史の流れを変える出来事の一つに
なる
という事を、長く詳細な物語に託して表現したものなのです。

 これを、もう少し霊的観念から捉えて見ましょう。第137夜
第141夜でお話ししたように、我々は、霊界で自らの人生の設
計図を創り、その実現のため現世に転生
して来ます。

 また、第138夜でお話ししたように、転生すべき現世が、設計
した人生を送るために適したものとなるように、動物霊や植物霊
と共同して、地球の環境を変える作業
もしています。

 とすれば、前者の『自然界の大きな変動』でさえ、我々を含め
た、地球を舞台とする全ての霊的存在の総意によって、少し
ずつ変化していると見ることもできます。

 つまり、我々が生きてゆく環境も人生も、我々自身が霊界に
いる間に用意したもの
であり、その総和が現世の歴史である
と言うことができます。正に我々自身の意思が歴史を創るのです。
 ……………………………………………………………………

 さらに、もう一つ『時空』について考えて見ましょう。現世では、
我々は『時間』も『空間』も『切り離せない唯一共通のもの』
で、遠く彼方まで繋がったものとして認識しています。

 しかし、そもそも『空間』とは、主に分子の波動を、我々の視
覚が、色や形として認識している
ものに過ぎません。仮に空気
を『黒』と認識したなら、全く暗闇になるかもしれません。

 『時間』についても、我々が存在しているのは常に『現在』の一
時点で、ほんの数秒たりとも『過去』や『未来』に身を置ける
わけでは無く
、どちらも概念上の時間でしかありません。

 つまり、我々人間が認識できる『時空』とは、人間としての感覚
の世界に制限された、限られた1時点の空間に過ぎません。全
て繋がっているというのは、概念で思っているに過ぎないのです。

 例えば、第134夜でもお話ししたように、スピリチュアリズムの
基本である、自分自身が宇宙と繋がろうと意識する際には、我
々にとっての空間は、視界に入る球形の空間に限定されます。

 これを一歩進めて考えれば、我々自身にとって、自分が今存
在している(と錯覚している)空間
こそが、自分自身の個々の
空間であって、それ以外の空間は自分の空間では無いので
す。

 世界を飛び回っている商社マンにとっては、全世界が自分の固
有の空間ですが、自分の地域に閉じこもって生活している人にと
っては、その地域のみが空間の全てです。

 そして、その空間は、そこに参加している個々人が、霊界で予
め設計してきた意思の総和として存在しています。反対に、そこ
関係しない人達にとっては『存在しない』空間なのです。
 ……………………………………………………………………

 ここに『時間』の観念を追加して見ます。地図上では同じ地点
であっても、『現代』を選んで転生した人達と、『江戸時代』を
選んで転生
した人は、違う『空間』を生きていると考えてみま
しょう。

 すると『時間』と『空間』は、当人が転生することを選んだ環
境を特定する一つの『地番』
に過ぎず、我々は、そこで出会う
人々とのみ、特定の『時空』を共有
していると言えます。

 つまり、我々の現世は、ただひとつの時空では無く、精妙に調
整された、個々人の時空の集合体である、と考えるのです。

 そして、その『全ての時空の地番』が『アカシック・レコード
に載っているとすれば、霊視者は、特定の個人のいた『時空』
を検索することで、そのビジョンを霊視することができます。

 そのように考えれば、『過去の地番』にいる個人の霊視について
は、4つの構成体を注意して見分けさえすれば、ある程度一致し
たビジョンが見られるはずです。

 何故なら、過去の『地番』に参加する個々人は、タイムトラベ
ラーでもいない限り既に決まっており、事前に彼等が用意して
霊界での『設計図』も、ほぼ確定し更新されることが無いから
です。

 実際には、個々人の『設計図』は、『顛末記』のような形になって、
第135夜で述べた『思い出のタブロー』となって『アカシック・レ
コード』に引き渡されるのでは無いかと、小生は思います。

 ★ タイムワープと放射能

 同じように考えれば、『未来の地番』についても、現在霊界に住
む霊的存在が、日々未来の『設計図』を用意して、『アカシック・
レコード』に書き込んでいると思われます。

 このように、全ての個々人の時空が『アカシック・レコード』上
にある
とすれば、第五十三夜でお話した、数々のタイム・ワープ
現象についても、その説明がつきます。

 通常、我々は現世の『時空』こそが唯一の時点であると錯覚して
いますが、あるきっかけで『3次元』の制約から解かれると、『ア
カシック・レコード』上の違った『時空』へ飛ぶ
のです。

 また、霊能者のリーディングによる『予言』も、未来の『設計図』
のビジョンを見る能力があれば可能でしょう。
 しかし、問題点が一つあります

 まず、未来の『設計図』に参加する個々人は、その時点で確
定していない
ことです。

 その『地番』に参加しようとする人々が日々変動した場合、その都
『設計図』が変更される可能性があります。
 
 そして何より、今現在、現世を生きている我々が、地球環境を
直接に変容してゆく
ため、『設計図』の出発点が、日々刻々と変わ
ってゆき、直前までのシナリオが大きく変わったりするでしょう。

 ここで、直前までの『設計図』が消滅すれば問題は無いのです
が、第135夜でお話ししたように、霊界では『全ての思考は生き
ている』
とシュタイナーは言っています。

 もし、直前のビジョンも行き続けるとすれば、霊視者がこちら
のビジョンを見る可能性
があり、小生は、これが俗に言う『パラ
レル・ワールド(平行現実)』
の正体では無いかと思っています。

 そのため、未来の『予言』は、前の時代であればある程、この
り消されたビジョンを霊視する可能性
が高くなります。それがあ
まり変わらない場合もあれば、全く違う場合も起こって来ます。

 そして、これと同じことが『過去の地番』に対しても起こりうる
とすれば、過去の霊視の際にも、既に取り消されたビジョンを見て
しまう可能性があるのではないでしょうか。

 逆に言えば、霊界で決めつつある『未来の設計図』も、現世を
生きる我々の行動次第で、変わってゆく
のです。江原氏がよく
言っている『宿命は変えられないが運命は変えられる』です。

 そして今、その法則に従って、最も行動を起こすべきなのが、
我々が誤った利用を続けている『放射性物質』からの脱却では
ないでしょうか。

 放射性物質は、もともと地球の奥深くに存在し続けるべきで
あった、惑星のエネルギー源
を、その制御方法もままならぬま
ま、地上に掘り出してしまったものです。

 プルトニウムに到っては、我々の寿命の2百倍の年月に渡って、
放射線を出し続け、200代先の子孫の自然環境までも変えて
しまう
物質です。

 『除染』を喧伝する人達もいますが、『放射性物質』から『放射
能』を無くすこと等できません
。いくら洗い流しても、被曝する確
率を下げるかわりに、被曝の可能性のある範囲を広げてしまう
だけ
なのです。

 今、我々がすべきことは、これ以上の汚染地域や汚染物質を出
さないよう、地球規模での対策を取ることです。そのためには、
『原発0%』は当たり前の判断なのです。

 もちろん、今は放射線とは全く関係の無い『地番』に生きて
いる方
もあり、自分の人生では、何の関わりも無く余生を送る
『設計図』を持っている方
も多いと思います。

 その人達にとっては、関わらず、ただ状況を見守るという選択
肢もあるでしょう。しかしそれは、同時に、放射能が『未来の設計
図』 をどんどん変えていってしまうのを黙認する
ことです。

 少なくとも、我々の手でこれ以上の『放射性物質』を増やさな
い選択
ができるのに、それをしないのは、第156夜でお話しした
自己中心的な思念を来世に持ち込むことにならないでしょうか。

 今、現世にいる我々の現世での意思が『未来の設計図』の行
方を大きく変革できる可能性
を秘めていると小生は思っています。
それには、できるだけ多く人の意思が関わることが必要だと思う
のです。

 さて、次回第171夜はまた本題に戻ってお話しします。

( 追伸 )

 中曽根君、君の思念だけは
『未来の設計図』には載せたくないね。

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トンデモ話は奥で繋がる(169) 24.8.12

トンデモ話は奥で繋がる 「第169夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪霊的本性たち ①≫
 
 ★ 地球と太陽の分離

 キリストの本性については、第153夜以降で度々お話ししました
ように、シュタイナーは、通常の物理的感覚では捉えられ無い『太陽
の本性』
だといっています。

 そして、私達自身も、多くは無自覚のまま、一部は間違った期待を
持って、『太陽の本性』が我々の前に姿を現す事を『再臨』として待
ち望んでいます。

 しかし、一体、何故私達は『太陽の本性』を待ちわびるのでしょ
うか。…こう書くと、読者の中には、『私はキリスト教徒では無く、そん
な事とは無縁だ』と言う方も、少なからずみえると思います。

 しかし、本来『キリストの本性』は『キリスト教徒』に限定されるような
ちっぽけな存在ではありませんし、シュタイナーは『キリスト』という名
称さえ、別の言葉に代えてしまってもよいと言っています。

 さて、これ以降にお話しする事項は、シュタイナーの話の中でも、相
当に『(原義としての)オカルト的』な部分です。しかし、これこそが彼
の伝えようとする、我々の住む宇宙の原理の部分です。

 それ故逆に、これらの話をすんなりと容認できるのであれば、今まで
で小生がくどくどと説明してきたことは、蛇足に過ぎないと言ってもよい
と思います。

 それでは「キリストの本性」と題された部分から抜書きして見ます。

 「 地球紀における精神の進化をめぐる観点を理解するた
  めに、思い出しておきたい事があります。地球紀の初め、
  地球はまだ太陽と一体でした。

   その後、太古の或る時点で、太陽と地球が分離しまし
  た。もちろん、神智学徒なら分るように、地球物質と太陽
  物質の単なる物質上の分離だけを問題にしているので
  はなく、

   物質としての惑星と結びついた神霊存在たちが別々に
  なった
のです。

   地球と太陽の分離以後、地球には一定の霊的存在たち
  が、太陽には別の霊的存在たちが結びついていました。

   太陽の霊的存在たちは、地球紀の状況を超えて進化を
  遂げた
ので、更なる進化を地球で遂げることができなく
  なったのです。

   このように、或る種の霊的本性たちは地球と密接に結
  びついており、他の本性たちは太陽と結びついて、太陽
  から地球に作用
を及ぼしました。

   ですから、太陽の分離以後、2つの舞台―地球上の舞
  台とそこに現れる本性たち、太陽上の舞台とそこに現れ
  る本性たち―があるのです。

   高次の領域から人間のために働く霊的本性たちは、太
  陽と共に地球の外に舞台を移した本性たちです。

   そして、太陽の舞台に現れるこの本性たちが、時に応
  じて地球の人類と結びつき、地球紀と人類のために進化
  を導いてきたのです。

   諸民族の神話の中に、繰り返し『太陽の英雄』(日の
  御子)』の事が出てきます。それは、霊界から人類の進
  化のために働きかけてくる本性たちのことです。
 
   そういう太陽本性に浸透されている人は、外見上より
  も遥かに偉大な存在です。外観は幻影であって、その背
  後に本来の存在
が生きているのです。

   そういう人物の本性を窺い知ることのできる人だけが、
  この偉大な存在を予感できるのです。」   

  (『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 pp297-298《筑摩書房(高橋巌 訳)》より抜粋転載)


 ★ 西平氏の『補論』

 いきなり「地球紀」という言葉が出てきすが、これは単に、現在我々
が住んでいる地球の歴史では無く、地球が存在する以前からの人
類の霊的進化のステージ
の一つです。

 もっとも、この手の話は、シュタイナーの思想を伝えようとする研究
者の多くが、読者の辟易する顔、そして何より研究者自身が変人
視される
危険性を恐れ、正面きって紹介する人は少数です。

 実は、第131夜以降で幾度か登場いただいている西平直氏も、そ
うした危険性を躊躇するように、あえて『本論』では紹介せず、巻末に
『補論』として乗せています。

 これを読んでみると、自らの立場を持ち崩さないよう、慎重に言葉を
選んでいる様子が伺えますが、それ故、エッセンスだけが簡潔にまと
められています。

 「 どうやら、シュタイナーが『神智学概論』の中で最も力
  を入れたのは、この部分
であったらしい。

   その大切な所を『補論』に回すのは申し訳ないのだが、
  実は、ここもまた、私には、十分に理解できない所なの
  である。
  (…中略…)

   人間を構成する4つの要素の進化が、地球の進化と
  密接に関連している
と言うのである。

   地球の進化といっても、普通に考えられている、地球
  46億年の歴史では無い。

   シュタイナーによれば、
  『物質存在としての地球は、ある霊的な宇宙存在から
  進化してきた

   そして、その過程で、何度も姿を変えて来ている。

   各段階には、こんな名前が付けられている。
    第1段階『土星紀』、第2段階『太陽紀
    第3段階『月紀 』、第4段階『地球紀

   現在私達が暮らしている地球は、この第4の段階
  ある。そして、今後の展開として、

    第5段階『木星紀』、第6段階『金星紀
    第7段階『ヴァルカン紀
  がある。

   こうした名称から違和感を感じてしまうようでは、とう
  ていシュタイナーの深い英智を理解できるはずもない
  のだが、

   そんな私にも重要だと思われるのは、人類が地球と
  一緒に進化する
という点である。
  (…中略…)

   地球が姿を変える、その全ての転換に、人間は参加
  していた
。そして、地球の転換に合わせて、人間の存
  在様式も変化して来た。
  (…中略…)

   まず、第1段階『土星紀』では、人間は『肉体』として
  のみ存在
していた。『エーテル体』も『アストラル体』も
  『自我』も、まだ肉体の中に組み込まれてはいなかった。

   第2段階『太陽期』で『肉体』が『エーテル体』と結び
  つく
。エーテル体を組み込むことで、肉体は、それまで
  の在り方を変化させる


   同様のことが、第3段階『月紀』でも生じる。その時期
  に、人間の祖先は『アストラル体』を自分の中に組み入
  れた
肉体は3度目の変化を遂げ、エーテル体は2度目
  の変化
を遂げる。

   そして、第4段階『地球紀』に到って、人間は初めて、
  『自我』を組み入れる。それによって、肉体は4度目の、
  エーテル体は3度目の、アストラル体は2度目の進化
  
を遂げる。

   ここに、ようやく4つの構成要素を備えた、現在の
  『人間』が出現したことになる。

   しかし、何故人間は、地球と進化を共にして来たの
  か。ごく簡単に言えば、人間が霊的世界と物質世界の
  『仲介』を果たす
からである。

   人間は、誕生の際に受け取る物質的な力を、地上の
  生活の中で新しく造り替え、別の形にして地球に手渡
  す。

   (逆に)霊的世界から流れ込んで来る力を、人間が
  仲介することによって、大地に伝えてゆく

   だから、地球の存在の仕方が変わると、人間も変わ
  らざるを得ない。そして、人間の構成要素が変わると、
  地球の存在も変わってゆく
ことになるという訳である。」
 
  (西平直『シュタイナー入門』pp142-144
  《講談社現代新書》より抜粋転載)


 ★ 両刃の道標   

 いかがでしょうか。まとめれば、人間は『星』と一心同体の存在
あり、今までさまざまな『星』を遍歴しながら、お互いの要求に呼応
して共に進化して来た
、ということになります。

 ただし、ここで言っている各惑星の名については、必ずしも現在の
惑星そのものを指すものでも、実際に我々の実体がその天体にあっ
たと確定するものでもありません。

 何故なら、我々の住む太陽系は、物理的にも、初めから現在の惑
星配列をしていたという保証はありませんし、霊的には、我々は他
の天体と結びついていた可能性
もあるからです。

 ところで西平氏は「私には、十分に理解できない」とか、「こうし
た名称から違和感を感じてしまう
」という表現を交えて、自分の理
解外のこととしています。

 無論、本当に理解できるのは、恐らく『真のメシア』だけなので
しょうが、加えて、彼自身があまり深入りすべきではない立場にい
ることも考えての表現だと思います。

 しかし小生は、西平氏は、その部分にこそ惹きつけられるものを
感じているのではないかと思います。何故なら、単なる『入門篇』
としてなら、この部分は無くてもよい
と思うからです。

 がしかし、西平氏は「シュタイナー」があまた大勢の「夢想家」
の1人として理解されるべきではない
と思い、あえて「両刃の剣」
に相当する、この部分を『補論』として紹介したのでしょう。

 この部分があることによって、これまでの話に何とか視線を逸ら
さずに付き合ってきた懐疑的な読者は、大きく2つのグループに
分かれてゆきます。

 ひとつは、シュタイナーに『オカルティスト』というレッテルを貼
り、全く敬遠してしまうか、逆にその道の権威(?)として取り
扱う者達
です。

 彼等にとっては、シュタイナーの言っている事は、特定の人類の
みが理解し、到達し得る分野
であって、全く無視するか、逆に自分
こそは一般人とは違う、選ばれた者として意識するのです。

 そしてもう一つは、自分が常々疑問に感じていた現世の意味と仕
組みについて、新しい見方を提示され、それが全人類に共通す
る法則として理解し始める者達
です。

 西平氏は、恐らく後者の1人であり、彼の『入門篇』から次の書物
に進もうとする後者の人達に、貴重な『道標』
を残そうと、あえて
この『補論』を入れたのだと、小生は思っています。
 
 さて、今夜は各『紀』の話だけになってしまいましたが、続き
は、次回第170夜でお話しします。

( 追伸 )

 中曽根君、君には『亡国のニュ―・クリスト』
という偽メシア名を進呈しよう。

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トンデモ話は奥で繋がる(168) 24.8.5

トンデモ話は奥で繋がる 「第168夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪復活と再臨 ⑨≫
 
 ★ 我々の2つの悪癖

 それでは、前夜のシュタイナーの言葉を続けましょう。彼によれば、
我々は前述の『偽メシア』の出現にさらされると、2つの全く異なる
反応
で対応しがちであると述べています。

 「 こういう分野での偽者の影響力は、途方も無く大きい
  のです。何故なら、現代人は、両極端の間を揺れ動い
  ているからです。

   一方で現代人は、人々の中に働く霊的な力を認めよ
  うとしません
。独創的な霊力が示されると、現代人はそ
  の才能や能力を認めたがりません。

   いつでもどこでもそうです。新聞もまた繰り返しそうい
  う発言をしています。これは現代の悪癖の一つです。

   私達の時代に、地上最大の個性が生まれてくるはず
  なのに、私達の時代はそのことに全く鈍感で、それに注
  目しようとはせず
、ただなりゆきに任せています。

   そして、もう一つの悪癖も存在します。

   それは他の多くの現代的習慣と共通のものです。すな
  わち、霊的な個性を過小評価して、その存在を認めない
  のと同じ位に、

   その反面、誰かを神のように崇拝して、雲の上の存在
  にしてしまおうとする強い要求が存在しています。

   今日、到る所で、それぞれの救世主を戴く信者達の集
  会が見られます。もちろん現代に限ったことではなく、
  これまでも何世紀にも渡って、繰り返しそういう風潮
  現れてきました。」

  (『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
  p259《筑摩書房(高橋巌 訳)》より抜粋転載)


 我々は、古代アトランティス人の見霊能力を失った時から、常に『偽
メシア』の出現に対し、感性だけで対応する必要
が生じています。
そして2つの両極端な姿勢をとろうとするのです。

 2つの悪癖は、全く対照的な反応なのですが、共通しているのは、ど
ちらも『未知なるもの』に対し、他人の意見やマスコミの批評に頼
らず、それをよく吟味し自らの判断を下そうとしない
点です。

 シュタイナーが何度も繰り返し言っているように、今必要なことは、我
々の中に眠っている、物質的ではないものに対する感性を目覚め
させること
です。

 しかし、『その感性が分ると称している人物』に対して、全く非科学的
だと跳ねつけたり、言われたままにそう信じる
ことは、自らの感性を
目覚めさせることを放棄してしまうことなのです。

 ★ サバタイ・ツヴィに学べ《/span>

 さて、シュタイナーは、この言葉に続けて、幾人かの『偽キリスト』
例を述べています。

 1097年、スペインのコルドバでキリストを名乗った者
 1012年、モロッコのフェズに出現した偽メシア
 1137年、フランスに現れ死刑に処された偽キリスト
 1147年、ペルシアでキリストを引き合いにした者
 
 そして、その極端な例として、1666年スミルナ(イズミル)に現れた
サバタイ・ツヴィの例をこう語っています。

 「 彼(サバタイ)はキリストの再来であると自称していまし
  た。彼の姿を見ると、偽メシアの本質と、周囲に及ぼす
  影響とを、最も詳細に研究できるのです。

   その当時、スミルナから、新しいキリストがサバタイ・ツ
  ヴィ
という人間になって現れた、というニュースが広まり
  ました。

   当時の精神運動が小規模なものだと思ってはなりませ
  ん。ヨーロッパのあらゆる地方―フランス、スペイン、
  イタリア、ポーランド、ハンガリー、南ロシア、北アフ
  リカ、アジア内陸部―から、新しいキリストであるサバ
  タイ・ツヴィを見ようと、人々がスミルナに集まって来
  ました。

   当時サバタイ・ツヴィに新しいキリストを見た人々に、
  彼自身が打ち明ける前に、人々が彼の戦略を見抜く前に、
  
   『彼が本当のキリストでは無い』と、もし誰かが言ったと
  したら、その人は憎まれ、途方も無い人々の宗教心を逆
  撫で
したことでしょう。

   これがもう一方の悪癖です。多分これはキリスト教世
  界の諸地方で無くとも、他でも日常見られる悪癖です。

   肉身の救世主に出会いたいという要求が潜在的にある
  のです。

   キリスト教国の中では、通常は比較的小さな範囲内で
  こういう個人崇拝が生じますが、しかしこういうキリストた
  ちが繰り返し現れて来る
るのです。」

  (『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
  pp260-261《筑摩書房(高橋巌 訳)》より抜粋転載)


 どうでしょう。これと同じことが、今や宗教化しつつある一部のスピ
リチュアリズムにも起きている
とは思いませんか。あなたは眼で癒す
怪人が、戦略を用いているかどうか見抜く事ができますか

 或いは、それが『本当の怪人では無い』と感じた時に、ストレートに
口に出来るような精神状態に、周りの人達はあるでしょうか。
それも
戦略の一部では無い
と、確信を持って言えるでしょうか。

 ★ 

 そしてシュタイナーは、我々が本当に大切にすべきことを述べています。

 「 大切なのは、人々が神智学による事実の正確な洞察
  通して、前者の悪癖にも、後者の悪癖にも染まらないこと
  です。
  (…中略…)

   私達が古い菩薩の伝統精神においてでは無く、新しい
  菩薩の意味において生きようとするのであれば、いつか
  弥勒仏となるべき菩薩からの霊感を受けることが大切
  のです。

   そしてこの新しい菩薩は、私達に霊感を与えて、次の
  事に注意を向けさせます。

   『 キリストが新しい形式で、エーテル体の姿で、
    新しいエッセネ派の叡智を通して作用する時代
    が来た。

     キリストがエーテルの衣装をまとって人々に
    近寄り、人々に生命力を賦与する時代が来た。』
  (…中略…)

   私達は、何らかの宗教信条の意味で、キリストが
  再び物質界において知覚できるようになる、と言う
  つもりはありません。

   けれども、ひるむ事無く、語ろうと思います

   『 我々は真理であると認識する故に語るのだか
    ら、どんな結論になろうが構わない。
   
     我々は東洋の宗教教義を偏愛するつもりはな
    いが、未来においてキリストがどのように出現
    するのか
を、菩薩自身から霊感を受けて、我々
    はこう語るのだ。』」

  (『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 pp261-262《筑摩書房(高橋巌 訳)》より抜粋転載)
   

 我々に必要なことは、本当の菩薩からの霊感を感知することです。
それには、それがどんな結論になろうとも、自らの感性を信じる勇
が必要なのです。

 もちろん、自らの感性が判断を誤ることもあるでしょう
 しかし、それはそれで、自らの霊性が未熟だったと割り切って、再度
転生して改めた方がよい
と、小生は思います。

 無論、途中でその誤りに気がついた(いや、正確には誤っていた
と 判断したと言うべきでしょう)
時には、潔く誤りを正し、たとえ正反
対の方向であろうと、振り返って進んでゆく勇気
も必要です。

 さて、次回第169夜は、キリストも含めた宇宙の本性について
の話から入ってゆきます。

( 追伸 )

 
中曽根君、我々もひるむ事無く、
 君を『亡国主』と呼ぼう。

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トンデモ話は奥で繋がる(167) 24.7.29

トンデモ話は奥で繋がる 「第167夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪復活と再臨 ⑧≫
 
 ★ 次回のメシア

 さて今夜は、核心となる記述について先に紹介してしまおうと思い
ます。高橋氏は、『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
のあとがきの部分で、こう述べています。

 「 かつて2千年前のパレスティナで、キリストの自我が
  地上の物質界に降臨したように、今20世紀に、キリス
  トの自我は生命界に降臨
する。

   このエーテル界のキリストと出会って、癒しの力を獲
  得し、新しいエッセネ派=弥勒派(つまり人智学)を始
  めることが、人智学運動の本来の課題である。」
     
  (『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 p423《筑摩書房(高橋巌 あとがき)》より抜粋転載)
 

 一見、これまでのシュタイナーの主張を繰り返すような感じで、そ
のまま見過ごしてしまうような文章ですが、『偽メシア』という観点
からよく眺めてみてください。

 『偽メシア』は、私達を欺くためにやって来るのですから、当然、
エーテル界をまだ感じるが出来ず、騙される人々がたくさん住んで
いる『物質界』に現れるでしょう

 しかし『前回のメシア』であるイエスは、今回は『物質界』には現
われない
のです。しかし、シュタイナーは彼等を『偽メシア』と呼ん
で『今回の真のメシア』とは区別しているようなのです。

 また『今回の真のメシア』は、我々人類がエーテル界のキリスト
と出会うための橋渡しをする人物であり、それは『東方ミトラ伝説』
にも登場した『弥勒』に当たる存在だと言うのです。

 そしてその霊性を受け継いだ人物こそ、エッセネ派のパンディラの
息子、シュタイナーが『イエシュ・ベン・パンディラ』として物語って
いる人物なのです。

 ★ パンディラの子

 パンディラは、その実在が実証されているわけではありませんが、
シュタイナーによれば、イエスに先立ち紀元前1世紀に存在した、
エッセネ派の先駆的指導者であるとされています。

 イエシュ・ベン・パンディラはその息子で、ユダヤの経典タルムー
ドでは「パンディラの子イエス」として記載があるのですが、この人
物は『ナザレのイエス』とは血縁も何も無い別人だとしています。

 彼は、人類進化の指導者である重要な2人の『菩薩』の1人であ
り、『ナザレのイエス』が地上での使命を実現するのに必要なものを、
我々人類に流し込む存在であるとシュタイナーは述べています。

 「 人類進化の偉大な指導者のことを考えて見ましょう。
   そのような指導者については、東洋の理論が最も明
  らかに語っています。

   すなわち、指導者の頂点には、『菩薩』と呼ばれる、
  一連の高次の個性たちが立っています。数多くの菩薩
  たちが存在します。

   菩薩の使命は、人類の偉大な教師として、時代の人
  間的な成熟度に従って、その時代に流し込むべき内容
  を、霊界から秘儀の学堂を通して、時代ごとに人類に
  流し込むことにあるのです。

   菩薩は、時代ごとに交替します。常に、或る菩薩が
  他の菩薩の後継者となって働きます。

   我々の時代にとって大切なのは、2人の菩薩です。
  すでに何度も取り上げて来ましたが、仏陀となった菩
  薩であり、

   もう1人は、仏陀の後継者となって今後も2500年
  にわたって働き続ける菩薩です。

   この菩薩は、先行者と同じく仏陀の位階に達するで
  しょうが、そのときこの菩薩は、弥勒仏になるでしょう。
  (…中略…)

   この一連の菩薩たちは、人類進化の偉大な教師た
  ちではありますが、その教えの源泉と混同してはなり
  ません。

   菩薩たちは、この源泉から、人類に与えるべき内容
  を受け取るのです。

   いわば菩薩たちの間には、合議体制ができており、
  その中心に、菩薩たちの教えのための『生きた源泉』
  が立っているのです。

   そして、この『生きた源泉』こそ、私達の用語を使え
  ば、『キリスト』と呼ばれる存在に他ならないのです。
  (…中略…)
 
   菩薩は、菩薩である限り、キリストの教えに自らを
  捧げなければなりません。

   そして、既に述べたように、その菩薩が仏陀になり
  ますと、再び地上に受肉してくることはないのです。」

  (『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 pp116-117《筑摩書房(高橋巌 訳)》より抜粋転載)


 つまり、イエシュ・ベン・パンディラは、仏陀に引き続き、人類進
化を導く使命をもった菩薩として、2500年の間地上に転生を繰
り返している魂=『弥勒』
に当たる存在だと言うのです。

 そしてシュタイナー自身も、エーテル界への案内人としての使命
を持った菩薩の1人と自覚して、新しいエッセネ派である『神智学』
を根付かせるべく、残りの人生を捧げていたのでしょう。

 ところで、第164夜でA氏がシャンバラについて述べた、一見荒
唐無稽に見えた話も、そのいくつかは、上記の『菩薩』の人類教化
の話と照合
していると思える部分があります。

 例えば、中央白色大寺院には13名の高位の大師から成る
最高議会がある。』
という部分については、『菩薩たちの合議体
制』
のことと読み取ることができます。

 また、『進化過程に応じて、倉庫に蓄積された知識が、発明・
発見のインスピレーションとして与えられる。』
という部分も『菩
薩たちが人類に流し込むもの』
の具体例のようにも見えます。

 つまり、A氏の語る霊視ビジョンも、シュタイナーと同様の内容
を捉えている部分
もあるのですが、その意味づけの際、あまりに
現次元的な価値観を当てはめ『勇み足』に陥ってしまっている
感じがします。

 ★ メシアを名乗る勿れ

 ところで、シュタイナーは、我々の時代にこの世に転生して現
れる『メシア』
は、『イエス』ではなく『イエシュ・ベン・パンディラ』
の魂だと述べました。

 それ故、シュタイナー的に見れば『我こそは転生したイエスな
り』
と宣言する輩は、その言動だけで自ら『偽メシア』だと言ってい
ることになります。

 一方で、『イエシュ・ベン・パンディラ』の転生者は、いつの時
代にも居る
ことになりますが、ここでも同じく『メシア』だと名乗る
人者はまた『偽メシア』
だとしています。

 「 現代に甦っているイエシュ・ベン・パンディラを示す
  かな印
を、一つ挙げることができます。それは、この人
  物が自分をキリストであるとは名乗らないことです。

   現代において、何らかの仕方で、自分の中にはナザ
  レのイエスと同じ力が生きて働いていると示唆する人
は、
  
   全て、そう主張することで、キリストよりも1世紀前に
  生きた、あの先駆者の偽者であることを示しているの
  です。
  (…中略…)   

   キリストと何らかの関係にあるという主張そのものが、
  偽りの預言者がそこに登場していることを、何よりもは
  っきりと示しているのです。」

  (『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 pp258-259《筑摩書房(高橋巌 訳)》より抜粋転載)


 さて、こうした『メシア』に対する我々現代人の対応は、大きく2つ
の悪癖に
陥っているとシュタイナーはいいます。

 次回第168夜では、その2つの悪癖の話しをします。

( 追伸 )

 中曽根君、もちろん君の悪癖は『原子力崇拝』だ。

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トンデモ話は奥で繋がる(166) 24.7.22

トンデモ話は奥で繋がる 「第166夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪復活と再臨 ⑦≫
 
 ★ 本当の再臨

 さて、1899年から人類に起こっている新しい知覚能力について、
西川氏による『輪廻転生とカルマ』の訳をもう少し引用して見ましょ
う。
 
 「 人間はエーテル的霊視によって、エーテル体の中で
  キリストを見ることになるからです。この能力は、今、
  魂の中に存在しています。

   将来、その力は発達して、人間の運命は、ある意味
  において人間の手中にあると言うことが出来るように
  なります。

   この能力が現れた時、この能力は何を意味するのか
  を知ることが出来るようになります。今日のように唯物
  論に退歩することは不可能になります。

   この能力が現れた時、人々は、直ぐにはその能力に
  注意しません。それどころか、そのような能力を持って
  いる人は空想家で、病気だとみなされます

   ですから霊学は、このような能力を人々に理解させる
  準備をするという使命
を持っているのです。
  (…中略…)

   キリストは再来する時、肉体をまとうであろう、と考え
  るような、唯物論的な傾向が、神智学協会に侵入する
  可能性もあります。

   そう考えることによって、人類はこの2千年の間、全く
  進歩しなかった
言おうとするのです。
   (…中略…)

   神智学の唯物論的な方向を利用して、自分はキリス
  トである
と信じさせようとする冒険的な人々がいます。
   そのような人々を信じる人々がいます
  (…中略…)

   神智学を正しい方法で理解する者は、20世紀の贋
  救世主
に、

   『 あなた方は、物質界へのキリストの出現を告げ
    る。しかし、私達はキリストはエーテル的にしか
    出現しない
ことを知っている』
   
   と言います。
  (…中略…)

   キリストの再来の意味を地上で理解する能力を持た
  なかった者は、その理解を地上で得ることが出来るた
  めに、次の受肉を待たなければなりません。 」

  (ルドルフ・シュタイナー『輪廻転生とカルマ』
 pp159-161《水声社(西川隆範訳)》より抜粋転載)


 続けて、『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』から、同じ
キリストの再臨について記述している部分を抜粋してみます。

 「 つまり、パウロが『早産』して、既に1世紀に、ダマス
  コ郊外で体験できたのと同じ霊視体験を今、人々が
  持つようになるのです。

   かなりの数の人々が、まだ20世紀の終わる以前に、
  キリストを体験するのです。…その時のキリストは、
  エーテルの雲の中から現れてくるでしょう。
  (…中略…)

   西暦紀元の初めにイエス・キリストとして肉体の中
  に生きた存在が、エーテルの衣装をまとって、ダマス
  コ郊外でパウロに現れたように、


   今世紀の終わるまでに再臨することが、キリストの
  出来事の本質に属することを、今私達は是非とも人々
  に呼びかけねばならないのです。

   人々は、ますます高次の能力を獲得していき、それ
  によってキリスト本性の、全内実を知るようになるの
  です。

   しかし、もしもキリストが、もう一度肉身となって現れ
  なければならなくなったら、更なる進歩は期待できなく
  なります


   何故なら、その時には、西暦の初めにキリストがこ
  の世に現れたことが無駄になってしまうからです。

   そして、キリストの一度目の出現が、人間の高次の
  力を発達させられなかった
ことになります。

   キリスト出現の成果は、人間が高次の力を発達させ
  て、霊界から作用するキリストを、この新しい力で霊
  視するようになる
ことなのです。」   
  
  (『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 pp256-257《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載)
    
   
 ★ エーテル体の中のキリスト

 さて、『エーテル体の中でキリストを見る』とありますが、具体
的にどうなのかは説明がありません。無論、小生のような凡人に、
そんな能力はないので、推測するしかありません。

 この言葉を聞いて小生が思い浮かべるのは、『オーラの泉』等で
江原氏がよく言っていた、『オーラの中に光景が浮かんで見え
る』
という表現です。

 小生には『オーラ』『エーテル体』が完全に一致するのかどう
かはわかりませんが、少なくともかなりの部分で重なっていると思
われます。

 『オーラ』については、昨今では『普通(?)の人』でも、見ることの
できる人がかなり増えて
来ています。このことも、シュタイナーが
予言した能力の一つでしょう。

 この能力がもう一段進むと、ある種の霊能力者に見られるように、
その中に時空を超えたメッセージを見て取れるようになるようで
すが、それと同じ形でキリストを見るのではないかと思います。

 従って、仮に誰かのオーラの中にキリストの姿を見出したとし
ても、それはの人自身の持っている能力の一部なのであって、
眼で癒す怪人等の力では無いのです。

(最も、その人に、それがキリストかどうかを確かめる術があ
ればの話です。
 ましてやシュタイナーによれば、第152夜でお話ししたよう
に、肉体上のイエスと、実体としてのイエスは別物なのです。

 我々が絵画として知っているイエスは、単なる寄代であり、
イエスが必ずしもその姿で現れるとは限りません
 最も、他の低級霊が我々を騙そうとすれば、その姿を選ぶ
でしょうが
…。

 ましてや小生などは、それ以前に、絵画上のキリストの姿
を、他の外国人とはっきり区別できる自身さえありません

 また百歩譲って、普通の人がエーテル体の中のキリストの
姿を見る能力を引き出せるのであれば、何故そちらの力に重
点をおいて紹介しない
のか疑問です。)

 そして、それらの能力こそ、人類が次に獲得すべき高次の力
であり、決して病気でも単なる空想でも無いという事を、世間
一般に分らせること
こそ、神智学の使命なのだと言うのです。

 さらに言えば、第153夜でお話ししたように、キリストの本体と
はアフラ=マズダ
であり、生命体としての太陽神なのだとも語
られています。

 となれば、その真の実体が完全に人間の姿をしているかどう
かすらわかりません
。単なる『波動のようなもの』である可能性
さえあるのです。

 ★ 盲目より正直を 

 そして、もう一つの重要な『定め』として、もし肉体をまとったキ
リストを切望するような段階で留まった魂
は、本来地上で学ぶ
べき能力を得るため、再度受肉しなければならない言います。

(実は小生は、この『定め』の部分については、始め『予言』
し、次いで⇒
預言』『戒め』
と言葉の推敲を重ねました。

 しかし、シュタイナーにとっては、このことは人類の進化の
過程として、必然の法則として認識されていることです。

 彼は決して預言者ぶったり、脅しをかけているわけでは無く、
ここでは、それに気付いていない人々に向かって、彼等の運
命をありのままに述べた
のに過ぎないのだと思います。)

 過去の例を見ても、混乱の世には決まって『救世主』を名乗る人
物が現れ、『私を崇め、私の言うとおりにする者が救われる』と、
民衆を先導しようとします。

 しかし、彼が生身の人間としての限界を持つ限りは、決して
リストそのものでも、その生まれ変わりでもない
ということです。

 彼等は巧妙に隠すかも知れませんが、よく言動を見ていれば分
ることです。

 昨今では、一見『宗教』には見えないようなカリスマ的な霊能
が、キリストとは言わないまでも、『正しい教えを説くもの』として、
多くの『信者』を集めています

 現世で生きる上で最もつまらないのは、そのような権威者を、た
だ盲目的に信じる
ことです。しかし、彼等が飲み食いをし、排泄や
睡眠を必要とする以上は、ただの人間と変わりはありません。

 人間である以上、間違った判断をする可能性もあります。それ
故、彼等の言動に対しては、その全てに自分自身の価値判断を
下す必要
があるのです。

 よく、『高名な霊能者の言動に疑問を持つのは、霊格が低い
からだ』
という台詞が、金科玉条のように言われますが、仮にそうだ
としても、それは自分が現世において、そのレベルに達していな
からです。

 ならばなおさら、その疑問に眼をつぶってしまうので無く、それ
真に分るまで現世でとことん修行をしなければ、この世に生
れ落ちた意味
が無くなってしまいます。 

 現世で、そこに眼をつぶったところで、自分の心の奥底にある疑
は、第135夜で述べたとおり、霊界では全て四大霊となって再
び自分に問いかけてくるのです。

 疑問を感じながらも『分った振り』をして、霊界へたどり着き冷や
汗をかくより、『分らない』と素直に認めて、人より少し長めに輪廻
を繰り返す方が、本来の現世での目的にかなったものとなります。

 逆に『高名な霊能者の言動』が、本当は間違っていたとすれ
ば、それに疑問を持った自分自身は、霊的には一歩先に進め
る可能性
だってあるのです。

 ならば自分に正直である方が良いではありませんか。

 ところでシュタイナーは、今まで何度も現れた数々の『偽メシア』
についても言及していますが、その被対象者としては、『イエス・キ
リスト』では無く、
もう一人の別の人物を持ち出しています。

 次回第167夜では、その人物『イエシュ・ベン・パンディラ』の
話から始めます。

( 追伸 )

 中曽根君、もちろん君には『原子力教』の
日本開祖の資格があるよ。

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トンデモ話は奥で繋がる(165) 24.7.15

トンデモ話は奥で繋がる 「第165夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪復活と再臨 ⑥≫
 
 ★ 出だしは同じ

 実はこれから引用してゆく『シュタイナーコレクション4(照応
する宇宙)』
の高橋氏の解説の言葉もまた、その出だしにおいて
はほとんど変わらないと感じると思います。

 実際に、一度は神智学に歩み寄った事のあるシュタイナーで
すので、大雑把な眼で捉えてしまうと、彼も同じ穴のムジナ
ように感じてしまうと思います。

 それ故、善意の解説者の多くを、決定的に離反させてしまうの
ですが、ここまで小生の拙文に付き合ってくださった方は、少し
ずつその違いがわかってくるのでははないかと思います。

 それでは『シュタイナーの宇宙観』と題された、高橋氏の解説
の初めの部分を引用してみます。

 「 人智学という思想にとって、宇宙とは何なのでしょ
  うか。

   シュタイナ―はヨーロッパの文化の中で、キリスト
  教徒
としてキリスト教との関連でこの問題を考えて
  いましたので、

   この解説ではあえて、人智学の宇宙思想を仏教
  いう私達の文化伝統との関連で考えて見ようと思い
  ます。
 
   その場合、まず念頭に浮かぶのは、シャンバラ
  いう言葉です。

   シャンバラは『神智学』の理想郷のことですが、ロ
  シアの画家ニコライ・レーリヒが、ヒマラヤの中にシ
  ャンバラを求めて、50歳になってから遍歴の旅を続
  けたことでもよく知られています。

   1910年3月15日、ミュンヘンで、そのシャンバラ
  
について、シュタイナーはこんなことを言っていまし
  た。

  『 神智学とはシャンバラへの道のようなものだ。

     キリストはシャンバラにおけるいわば指導霊のよ
         うな存在で、それに向けて道をつけるのが神智学
         の役割である。』

   このことについてシュタイナーは、この頃、特に
  勒
との関係で語っていました。
  (…中略…)

  『 洗礼者ヨハネがキリストの先触れであった様に、
    神智学はシャンバラの先触れである。』

   この場合の『神智学』とは、ルドルフ・シュタイナー
  自身
のことです。シュタイナーは未来の
シャンバラ
  への道の案内人として、自分を位置づけ
ていたよう
  なのです。」

  (『シュタイナーコレクション4(照応する宇宙)』
 pp344-345《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載)


 キリストはシャンバラの指導霊だとか、自身がシャンバラへ
の道の案内人
だとか、この辺りの説明を見る限りでは、シュタイ
ナーも同じようなことを言っているように感じてしまいます。

 ★ 神智学の目的

 しかし、ここからが高橋氏による、シュタイナーの『科学的説明』
の始まりです。

 「 シャンバラとは、別な言葉で言うと、エーテル界
  ことです。シュタイナーは宇宙を大きく4つの次元に
  分けて考えています。

   第1の宇宙はこの世の現実の世界、物質界です。
  鉱物を土台とした、この眼に見える物質の世界がひ
  とつの宇宙をなしています。

   第2の宇宙は、今言いましたエーテル界=生命界
  
です。仏教の世界で言えば『虚空蔵』です。世界を
  海ととれば『空海』とも言えます。

   第3の宇宙アストラル界で、シュタイナーはよく
  アストラル界のことを『魂の世界』と呼んでいました。

   第4の宇宙はいわゆる神の世界、神霊の世界、霊
  界、精神界、デヴァハン界等々と言われている
  『叡智界』のことです。

   以上の4つに対して、シュタイナーは、それぞれの
  世界は、それぞれに対応する感覚を働かせる時に開
  示される
と考えていました。

   私達は、解剖学的に確認できるような身体に組み込
  まれた感覚器官で、第1の物質世界を見ることができ
  ます。

   同様に別の感覚で、エーテル界、アストラル界、神
  霊界をも見ることができる
というのです。

   シュタイナーがシャンバラとの関連で言おうとしたの
  は、第2のエーテル界を見る感覚を開くために神智学
  がある
と言うことでした。

   エーテル界を見る感覚を開く感覚が開かれれば、エ
  ーテル界が見えるようになり、

   エーテル界が見えるようになるということは、シャン
  バラへの道が開かれるということで、そのために神智
  学があるというのです。   

   そういう意味に取りますと、神智学の最も重要な課
  題は、エーテル界の扉を開くことだ、とも言えそうで
  す。
  (…中略…)

   あらかじめ申し上げて置けば、実は私達は、皆、シ
  ャンバラへの予感を持ち、シャンバラへの道を辿ろう
  としている
のです。」 
   
  (『シュタイナーコレクション4(照応する宇宙)』
 pp345-347《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載)


 まず、シャンバラはエーテル界であり、通常の感覚では捉え
られない
ものであるとしています。すると、第163夜でアメリカの
某探検が見たのがシャンバラかどうかは疑わしいことになりま
す。

 彼等が一時的にエーテル界を見る感覚を得たとしても、そこの住
人には物質的な『晩餐』は本来不必要です。意図的にキリストと
の関連を印象付けようとした演出である可能性も出てきます。

 シュタイナーは、神智学の目的はエーテル界を見る感覚を得
ること
と、はっきりと示しています。決してそれ以外の超人的な能
力を得ることでも、救済の教えを説くことでも無い
のです。

 シャンバラについても、そこが唯一の楽園という訳では無く、あ
くまでエーテル界の一部
であって、それを見る能力が開花すれば、
どこにいてもそれと場所を見出せるのかも知れません。

 ★ キリストの再臨

 そして、キリストは、そのエーテル界にいるというのです。ならば、
再臨の仕方も、限定されて来ると思われます。つまり、肉体を持っ
た形で目の前に現れるわけでは無い
と言う事です。

 今度は第157夜等で紹介した、西川氏の訳による『輪廻転生とカ
ルマ』
に書かれた、シュタイナー自身の言葉で示して見ましょう。

 「 その霊視状態は次第に消えてゆき、紀元前3101年
  から、バラモン教でいう小カリ・ユガ(暗黒時代)が始ま
  ります。
  (…中略…)

   以前は、人間の霊視によって、ある段階までは天界
  に近づくことができました。今や、人間は感覚を用いて
  キリスト自身の中に天界を見出さねばなりません。

   カリ・ユガの暗黒の時代に、人類が霊的世界との結
  びつき
を失わないように、キリストは地上に下らねば
  ならなかったのです。

   暗黒時代は五千年間続きます。
   紀元前3101年に始まった暗黒時代は、既に1899
  年に終わりました


   この時以来、人間の科学にはまだ知られていないあ
  る能力
が次第に発達し始めています。
  (…中略…)

   例えば、20世紀のうちに、人間のエーテル体を知覚
  する
ことが可能になるでしょう。

   もうひとつの能力は、人間が自分の内面を見た時、
  夢の中でのように、自分がこれから行う行為のモデル
  を見る能力
です。
  (…中略…)
 
   今日、秘儀参入の手段を用いて得られる能力が、
  将来、人類の普通の能力になります。この魂の状態
  は神秘学において『キリストの再来』と呼ばれます。

   キリストは肉体に再び受肉するのではありません
  キリストは、ダマスコの途上でパウロに現れた時と
  同じように、エーテル体の中に現れます。」
  
   (ルドルフ・シュタイナー『輪廻転生とカルマ』
  pp156-159《水声社(西川隆範訳)》より抜粋転載)


 つまりキリストは、再度肉体を持って現れるのではなく、我々が
エーテル体を知覚出来るようになった際、そのエーテル体の中
に姿を現す
というのです。

 また、エーテル体を知覚する能力は、決して特殊なものでは
なく、その時期が来れば、小生のような凡人であっても、普通に
持つことになる
とも言っています。 

 そして、人類がエーテル界のキリストの姿を知覚できるよう
になること
、これこそが『キリストの再来』の本当の意味だとシ
ュタイナーは言うのです。

 次回第166夜はこの辺りをもう少し掘り下げて見てゆこう
と思います。

( 追伸 )

 中曽根君、君のトンデモ無い時代も
この辺りで終わりにして欲しいね。

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トンデモ話は奥で繋がる(164) 24.7.4

トンデモ話は奥で繋がる 「第164夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪復活と再臨 ⑤≫
 
 ★ 宇宙大師

 まず、前夜でいきなり繰り広げられている、独自用語の理解(?)
が必要かと思いますので、同書の中でA氏が《魂の進化》について
述べている部分を少し抜書きして見ましょう。

 その説明の中で、イエス・キリストは、全宇宙の《魂の進化》を司る
《宇宙大使》の1人であり、地球の魂を救済するために降り立った
のだとされています。

 「 シャンバラに入るには、一般に魂が第1イルミネーシ
  ョン、すなわち、魂の最初の《大光輝状態》に達してい
  ることが必要になる。魂が肉体脱出で霊的9次元に上
   昇し、神の光を見る状態だ。

   魂がさらに進化を遂げて、神の光そのものになると、
  意識が地球大に拡がり、魂は最後の《大光輝状態》を
  味わう。これが第3イルミネーション、すなわち、最高
  の神我一体境になる。

   さそり座の主星アンタレスにある《宇宙聖白色同胞
  団》
の宇宙大師千人は、全員、第3の完全な最終大
  光輝を得ている。

   イエス・キリストは、宇宙聖白色同胞団の千人の宇
  宙大師の1人で、地球を救済するために到来した宇宙
  《救世主》
だった。

   彼等宇宙大師は、宇宙聖白色同胞団からそれぞれ
  異なる任務を授かり、様々な天体の聖白色同胞団で
  働くと言う。

   宇宙聖白色同胞団の本部、さそり座アンタレスには、
  宇宙大師の無限の創造力が創り出した様々な建物
  建ち並び、あらゆる星のあらゆる発明品・知識が蓄え
  られている。

   もし、ある星が何らかの進化過程に達すると、巨大
  な倉庫に蓄えられている知識が、その星に発明・発見
  のインスピレーション
として与えられる。
  (…中略…)

  (宇宙大使の)地球への出現は、必ずしも《誕生》とい
  う形を取る必要は無い
。瞬間的にその星に合った《体》
  を出現させることが可能だという。

   中央白色大寺院には、地球聖白色同胞団の144人
  の大師が集まる会議室の他、13名の高位の大師から
  成る最高議会がある。
 (…中略…)

   最高議会や大会議は、人類を霊的に向上させ、同時
  に科学を高度に進化させて、人類の福祉と平和の向上
  に資する政策を種々計画している。」

  (海野光彦『光シャンバラから誕生する超人類の謎』pp54-56
  《徳間書店・5次元文庫》より抜粋転載)
 

 ★ 宇宙聖白色同胞団   

 説明によれば《第1イルミネーション》とは《肉体》を脱した状態で、
《第3イルミネーション》では意識が地球大に拡がるのだと言います。

 イエス・キリストは、シャンバラに移った25歳で第3の状態に至った
と言いますが、この状態は、第148~149夜でお話しした、古代ア
トランティス人の見霊能力
に似ています。

 シュタイナーによれば、しかるべき秘儀の方法に従えば、地球上で
もこうした状態を経験することは可能であり、この説明だけで、《最高
の神我一体境》と言うには物足らない
気がします。

 なおかつ、キリストが人類に示そうとしたのは《肉体》を持ったまま、
自我が《宇宙の意識》と自在に繋がる
こととしていますので、この
部分ではシュタイナーのキリスト観とは異なっています。

 さて、そのイエス・キリストは宇宙聖白色同胞団に属する144人の
大師の1人であり、さらに13名の高位の大師からなる最高議会
あるとしています。

 彼等の名称について、誰が決めたのだかよくわかりませんが、この
組織の役割を見ると、以前第七十七夜でお話ししたプレアデス・メ
ッセージの8次元
の内容に近い感じがします。

 この8次元については、以前小生が告白したとおり、にわかに理解
することが出来ない
ので、取りあえず書いておいた『知性の会議の
場』
に当たるものです。

 また、宇宙聖白色同胞団の本部である《さそり座アンタレス》には、
発明や発見の蓄積場所としての建物があるとしていますが、これ
に似たものとして『アルシオネの図書館』があります。

 「 これから、アルシオネの図書館の中心にある円形の
  ガイア神殿をご紹介しましょう。我々(プレアデス人)
  が地球を研究している場所です。

   ガイアの神殿は大きな白い大理石のドームに覆われ、
  内部は金色の縞大理石を敷き詰めた巨大な円形の部
  屋で、周囲を水路が一巡りしています。
 (…中略…)

   これが、アルシオネの中核に永遠に存在する精妙な
  神殿であり、あなた方の太陽の中核とよく似ています。
  恒星の中核には様々な世界の概念が含まれています

   …このように想像してください。惑星や恒星の中核は
  宇宙で最も濃密な知性であり、どれにも記録図書館の
  全てが含まれています。 」
 
  (バーバラ・ハンド・クロウ『プレアデス 銀河の夜明け』
  pp331-332《太陽出版(高橋裕子・邦訳)》より転載)


 実は上記の部分については、プレアデス・メッセージの章中では、
あえて割愛していた部分でもあります。しかし、こうして読み比べて
見ると、かなり類似性が感じられます。

 ただし、以前に小生が掲載しなかったように、質的なものを超越
する次元の説明としては
、大理石のドームや水路など、まるで地球
上の平凡な施設に似た《即物的》なものに感じられるのです。
 
 また場所についても、こちらはフォトン・ベルトの回転軸の中心星
アルシオネ
の中にあるとしています。必ずしも同じものを指していると
は限りませんが、この食い違いも気になる所です。

 彼等の役割が《人類の福祉と平和の向上に資する政策の計画》
というのも、いかにも紋切り型な、当たり障りのない表現のように感じら
れます。

 また、そのために科学を高度に発展させるとしていますが、シュタ
イナーの説では、これらは一方で古代の見霊能力を衰退させるもの
でした。

 また、進歩の程度に合わせ科学的なインスピレーションを与える
と言いますが、原子力利用のようなものは福祉と平和に役立っている
とは思えません。

 この辺りの矛盾点について、もう少し説明が必要かと思いますし、全
体的に、自らの指導者的立場を示さんとする意図を感じてしまいま
す。

 この点では、以前第八十夜以降でお話しした『アトランティスから
のスピリチュアル・ヒーリング』
のような、様々な実験の一つと考え
た方がよいのではないかと感じます。

 ★ 行動の物足らなさ
 
 前夜でイエス・キリストの、宇宙聖白色同胞団から地上への誕生
や帰還
についても引用しましたが、その方法についても今ひとつ整
合性がありません。

 まず、瞬間的にその星に合った《体》を出現させられるのであれ
ば、何故わざわざ《肉体》を持った状態で地球に生まれ、僅か11
歳でまたそこから脱する
必要があったのでしょう。

 また、最終的にアストラル体を脱するのは、第136夜での話と
符合していますが、燃焼して物質体を残すのであれば、アストラル
体も肉体とそれ程かわらないように思えてしまいます。

 その間、磔刑の前はひたすら《修行》、その後はひたすら《教
えを説いた》
としていますが、その部分だけならばイエス・キリストも
仏陀を初めとする数々の伝道者と何ら変わりません

 ただ一点《復活》を遂げたことのみが違うわけですが、ここでの記
述は何かマジックショーでも見ているようで、その行為の重さが伝
わってきません。

 一方、以前の第129夜の話では、シャンバラはエーテル界にあっ
て、そこからレムリア人やアトランティス人を指導したとあり、この
辺りはほぼ一致しています。

 しかし、その後イエス・キリストは闇の勢力によって殺された
とになっています。つまり、ゴルゴダの刑死がイエスの意思によ
るものか否か
という差が生じています。

 以上、あれこれケチをつけてきましたが、これらは、その必然性に
ついて十分な説明がないまま
、ブラバッキー夫人の創設した神智
において、ほぼそのままの形で認められているものです。
 
 そして第137夜でお話ししたように、これらの非科学的な態度
そが、シュタイナーを神智学から決別させ、孤高の位置から新た
人智学を語り始めさせた違いでもあるのです。

 それではシュタイナーは、どのようにシャンバラとイエス・キ
リストをとらえているのか、次回第165夜から入っていきます。


( 追伸 )

 中曽根君、我々にも君の戯言の世界とは
決別する時が来ている。

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トンデモ話は奥で繋がる(163) 24.6.24

トンデモ話は奥で繋がる 「第163夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪復活と再臨 ④≫
 
 ★ 未来を語る危険

 さて、これから先のシュタイナーの話は、小生にとっても少し冒険的
な領域に入って行きます。何故なら、過去に起こった事の解説では
無く、現在そして将来に起こることに言及しているからです。

 エドガー・ケーシーを始め、過去の数々の有能な霊能力者が、批判
者の餌食とされる場合、決まって、未来に関する予言めいた話が、
その後の事実と食い違う点が拠り所の一つとされます。

 その点を考えれば、シュタイナー自身も、また、小生のように、彼を
紹介しようとする人も、敢えてその分野には足を踏み入れないのが、
賢明な判断かも知れません。

 しかし、シュタイナーの人智学の目的は、まさに未来の人類の目
指すべき目標
を示すことであり、その部分を避けて通る訳にはいか
なかったと言えます。

 それは取りも直さず、本来シュタイナーの思想を紹介しようとする
者としては、やはりその部分に言及することをためらってはなら
ない
ことを意味すると思うのです。

 と、あれこれ前置きを入れてしまいましたが、何せこれからお話し
してゆくキーワードは、知る人ぞ知る、トンデモ話ではお馴染みの
シャンバラ》なのです。

(全く、シュタイナーは、次々とトンデモないものを、彼の《科学
的説明
》の中に組み入れてくれますので、その都度、読者に
見放されるのでは無いかと心配になりますが、仕方の無いこ
とです。)

 第四十九夜でもお話しした通り、地球上には《異次元》と繋がる
い くつかのポイント
があって、地上の人間が迷い込んだり、そこか
別次元の住人が出入りするという、トンデモ話の定番があります。

 恐らくその一つに、地球内部に存在する異次元郷《シャンバラ》が
あり、ヒトラーがその入口を捜し求めたとか、地球は空洞で、両極
にそこに通ずる巨大な穴がある、という説とからんだりもします。

 そして、そんな諸説の中の一つに中に、復活後のイエスはシャン
バラに行った
いうものがあります。と言っても、あまりの唐突さに、
大方のこれらの説は《マユツバ》物とのレッテルを貼られています。

 と言うことで、今夜はあえてその《マユツバ物》の一つ、『光シャン
バラから誕生する超人類の謎』
(海野光彦著 徳間書店5次元文庫)
から入ってゆこうと思います。

(本来小生は、先入観を持たないよう話を進めてきましたが、こ
の書籍に関しては、敢えて《マユツバ物》という認識から出発して、
自分がどこまで許容できるか考える方が賢明と思います。)

 ★ 7つのシャンバラ
 
縮シャンバラ  この書は、筆者の海野氏が、古神道の家柄を継
ぐ一方、科学ジャーナリストとして身を立てる傍ら、
某大学の非常勤講師もしているという『A氏』から
伝えられた話を元に書かれたとされます。

 A氏によれば、世界には以下の7つの某地点に、
地下の大空間都市シャンバラが存在するとされ
ます。

 ○ チベット・シャンバラ…チベットの主都ラッサにあり、
    某大寺院の内部から真下に向かう反重力エレベータ
    ーがある。約4k㎡で『人工太陽』に照らされた
    『エデンの園』となっている。

 ○ カリフォルニア・シャスタ山…山頂付近に光線屈曲装
    置で視覚防御されたの寺院等があり、山頂の巨岩が
    くり抜かれ、その地下に長さ33㎞×幅34㎞×高さ3.2
    ㎞の地下都市がある。

 ○ 中米ユカタン半島…某山脈にトンネルがあり、かつて
    火口であった円形の谷間に光線湾曲機械に保護され
    た特殊金属の入口がある。

 ○ 北方シャンバラ…カナダ・磁北極付近にあり、太陽の
    特殊なエネルギーを、地球内部にあって重要なバラ
    ンス調整をしているエネルギーピラミッドへ送る通
    路となっている

 ○ ゴビ砂漠…かつて都市であった砂漠の中に、想念力で
    上下する1600㎡の四角い金属製の塔状のエレベータ
    ーが、半分埋まった形で存在する。

 ○ アフリカ・アトラス山脈…光線湾曲装置により、外界
    からは見えない。地球上のあらゆる古代記録・過去 
    の文明の発明・発見を集積保管している。

 ○ ドイツ・ハルツ山脈…地下に作られ、ヨーロッパの霊
    的指導を行うとともに、アトランティス、ドルイド、
    ギリシャに関する記録と発明・発見が保管される。

 そして、19世紀末に、その中の一つであるチベット・シャンバラの
『光の超生命体』に遭遇したという、アメリカの某探検に関する体
験記を見せられます。
 ………………………………………………………………………

 晩餐の席で、その生命体は、体の元素をバラバラの霧状に変化
させ、再び瞬間的に統合して元の肉体を創り出したり、一切れのパ
ンから、同じ大きさのパン
を次々と出現させたと言います。

 つまり、キリストの奇蹟と同じことを現実に見せたと言うのです。
また、また、皆が若々しい体を保ち、地上で数百年を生きた後、その
百年間もシャンバラと地上を行き来している者さえいます。

 ★ イエスの秘密の人生?

 また『A氏』は、20世紀初頭にアメリカの霊能者M・ドリール氏が
『イエスの秘密の人生』と称する論文を書いており、それに書かれ
たイエスの出来事を年譜にすると、次のようになると言います。

 ○ 紀元前6~7年頃 誕生

 ○ 11歳 第一イルミネーション(最初の魂の輝き)を得る

 ○ 13歳 父ヨセフ、母マリアと一緒にエジプト旅行、
       ギゼ-ピラミッドの内で最初の秘伝を体験
 ○ エジプトではアトランティス人の子孫の受戒聖者より、
   教えを授けられる

 ○ 16歳 イエスは単身でエジプトに残り、修行を積み重
       ねる
 ―◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆―
  ◆ エジプトの白魔術により、チベット・シャンバラにテ ◆
  ◆  レポートし、そこで大聖に学ぶ            ◆
  ◆ 20歳 第二イルミネーションに到達、その後、カシ  ◆
  ◆  ミール地方を遊行                    ◆
  ◆ 25歳 第三イルミネーションに到達           ◆
 ―◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆―

 ○ すぐにエジプトに帰り、1年間、ピラミッド内で研究を
   続ける

 ○ 26歳 ナザレに帰り、洗礼者ヨハネの弟子とコンタク
       トし、3年間さらに準備を重ねる

 ○ 29歳 キリストの教えの宣布を始める

 ○ 33歳 磔刑後、3日後に復活
 ………………………………………………………………………
 ○ その後11年間にわたり、グノーシスの秘儀を弟子に伝
   授する

 ○ ローマの秘院で6ヶ月、エジプトの秘院で2年間、秘儀
   の指導を行い、この後中国へ向かう

 ○ 中国北部のユダヤ人に1年間指導を行う。中国全土を
        旅行した後、チベットに向かう

 ○ チベットの某秘所で5ヶ月間滞在。超人が住む『エデン
   の園』
で、1日2回ずつ教えを説く
  ● ドリール氏は、2千年前の前世でイエスの銀鈴に似た
    声を聞いたとされる 
  
 ―◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆―
  ◆ この後、チベット・シャンバラに行き、4年半滞在し、◆
  ◆  人類の精神的向上を目指し、様々な試みを行っ ◆
  ◆  た後、シャンバラ144人の超人大師の首長となる
  ◆ この後、南太平洋地下のレムリア大陸へ行き、そ ◆
  ◆  こに幽閉されている暗黒霊魂を指導し、解放す  ◆
  ◆  る。                             ◆
  ◆ 次いで地球中心核に入り、同じく幽閉された最暗  ◆
  ◆  黒の霊魂を、3ヶ月間指導する。                    ◆ 
 ―◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆―
  
 ○ 地表に戻り、ギリシア、パレスチナ、スカンジナビアの
   秘院で教えを説いた後、南北アメリカ大陸に入り、9年
   間、各地で教えを説く

 ―◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆―  
  ◆ この後、北方シャンバラへ行き、35年間、地球第 ◆
  ◆  7黄金サイクルの秘密準備を行う           ◆
  ◆ 満100歳の日から10日目に、全世界の弟子の  ◆
  ◆  面前で、アストラル体脱出による最後の教えを  ◆
  ◆  を説く                          ◆
  ◆ その後、頭部から火炎冷火を発し、全身を燃焼し ◆
  ◆  尽くすと、大きな輝くダイヤモンドの塊のような  
  ◆  ようなものが残り
、これが北方シャンバラの塔  ◆
  ◆  今も保管されているとされる             ◆
  ◆ 地球離脱後、宇宙聖白色同砲団の大聖に復帰  ◆
 ―◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆――◆―

 これらの経歴のうち、◆で囲んだ時期、つまり33歳で磔刑を受け
る以前に1度、復活後は2度に渡って、イエスはシャンバラとの
間を行き来した
ということになっています。

 これらをそのまま、全て事実として受け止めようと言うもので
はありません
これらはあくまで、ドーリル氏自身の霊能力が感じ
取った内容に過ぎないからです。

 シャンバラについては以前にも、ブラヴァツキー夫人の創設した
神智学的な地球史観(第129夜として紹介しましたが、それと比
較 しても、完全に一致している訳ではありません。

 つまり、霊的なビジョンについては、たとえ同じものを霊視してい
たとしても、霊媒者の感応性と思考性向によって、如何様にも違
ったイエスの人生
が出来てしまうのだと、小生は思います。

 ただし、だからと言って全て《マユツバ》と決め付けてしまったので
は、現代の偏狭な科学の世界に閉じこもったままで、我々の持つ
共感の力を自ら捨ててしまうことになります。

 従って、それらの矛盾点を整理しつつ、共通する部分を一つひとつ
拾っていき、それが我々全ての深層意識に潜む《原型》に通ずる部
を確かめていくのです。

 それでは次回第164夜では、そんな作業に入って行きましょう。

( 追伸 )

 中曽根君、しかし、君の考えとは共通点を
探せそうも無いね

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トンデモ話は奥で繋がる(162) 24.6.17

トンデモ話は奥で繋がる 「第162夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪復活と再臨 ③≫
 
 ★ 肉体は《鏡》

 しかしそもそも、我々は《自我》さえあれば、死後も個々の意識を保つ
ことが出来るのですから、キリストは、それを直接理想の状態に導く
法をとってもよいのではないかという疑問もわきます。
 
 何故、我々は転生の度に消え去ってしまう《肉体》を、時間をかけてコ
ツコツと変性
させなければならないのでしょうか。高橋氏の解説の続きは、
まさにそんな疑問から始まります。

 「 例えば、仏教の考え方では、人体にこだわること自体、意
  味がありません。

   むしろそういう執着から離れて、人体などいくら滅んでも構
  わない、自分の関心はそんな所には無いと思った方が、もっ
  と人生の本質を見ることが出来ると教えます。
  (…中略…)

   大切なのは魂であり、人体のことなどはどうでもよいと言う
  のであれば、人体が復活しようがしまいが、大して意味の無
  いこと
になります。
 ……………………………………………………………………………
 
   シュタイナーがキリスト教の本質を復活論の中に見て、パ
  ウロ的なキリスト教を大切にしようとしたのは、人体の存在が
  本当に重要
だということを知っていたからです。
 (…中略…)

   もちろん人間の人格にとって本当に大事なのは、人体では
  無く、人体の中の自我です。けれどもその自我は、肉体がな
  いと発達しません

 (…中略…)

   その場合の人体とは、まず第一に《鏡》の機能を持つ道具
  
のことです。人体は《鏡》であるからこそ、自我にとって重要
  なのです。

   認識の鏡であるためには、人体は調和的に発達していなけ
  ればいけません

   シュタイナーの言う鏡とは、次のようなことです。

   私達が廊下を歩いているとします。真っ暗闇の中でです。
  歩いているという実感はあるのですが、…正面にある《鏡》の
  前まで来た時も、自分の姿はまだ映りません。

   しかし、そこに《照明》が当たり、自分の姿が映し出されると、
  その瞬間、眼の前の《鏡》に自分の姿が現れます。自分がこ
  こに居る事が、《鏡》を通じて分かる
のです。

   シュタイナーは、人体とはそのような鏡だと言うのです。…
  鏡が歪んでいたり、壊れていたりしたら、その前に立った私
  達は、自分を正しく見ることができません

   しかし、鏡が無くても、私はそこに存在しています。そうい
  う鏡が人体なのです。
   そして《照明》とは《意識の働き》のことです。
 (…中略…)

   《鏡》が眼の前のあるからこそ、自分が見えるのですけれ
  ども、《鏡》が壊れようが無くなろうが、自分は居るのです。
  ただ映し出されていないだけなのです。
 (…中略…)

   人間の自我は、肉体という鏡を通さないと、自分を見る事
  ができませんから、肉体は自我にとっては、自分を見せてく
  れる鏡
の存在として、何物にも代えがたい大切な道具なの
  です。

   自我にとって、その道具と自分の関係はあまりにも深く、
  一体感を持って体験されるので、

   道具である肉体が消えてしまったら、自分の意識も消え
  てしまい、いくら自分が存在し続けても意味が無いと思えた
  のです。」
   
  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
  pp408-410《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載)


 つまり肉体という《鏡》がなければ、自我は、五感が創りだす《現世》と
いう特殊な空間での対処方法
を無くしていまい、従ってキリストから送
られた3つの心を実践する機会を持つことが出来ないのです。

 それはすなわち、《光のかけら》の浄化が進まないことを意味します。

 さらに、その《肉体》も出来る限り《最良の状態》に近づけてゆかなけ
ればなりません。

 鏡である肉体が歪んだ状態、例えば利己的な欲望の光ばかりに反応
して自らを移す《鏡》
になってしまえば、その一方でキリストの3つの心を
実践する機会は減り、細胞から《霊の体》への創り変えは進みません
 
 ★ ファントムを歪ますもの

 前夜でお話ししたように、肉体という《鏡》の理想の設計図こそがファン
トム
です。しかし現代では、そのフォルムが次第に崩れて、どうしようもない
ところにまで来ているとされています。

 それでは《我々の自我はどのように働くべきなのか》ということについ
て、高橋氏は、自我の有り様を《ひたすら見つめるものに徹する》ことで
カルマを解消することであると述べています。

 カルマの働きとは、人間関係の中で、自分でもわからないうちに発生する、
《これがしたい、したくない》《これは好きだ、嫌いだ》《あの人が恋しい、
憎い》という想いの集合体
です。

 これは第133夜で述べたとおり、アストラル体の働きによるものです。
そして、肉体は実際の体験を《体感》し、エーテル体はその体験を《思
い出させて体験させる》
ことで、《働きかける側》として作用しています。

 一方我々は、前世でのカルマを解消するために転生しており、《自我》は
本来それを体験するための《主体》
です。たとえその体験が辛いもので
あっても、ひたすら《受容する側》にたつべき役割を負っています。

 ところが、我々の日常の自我は、それらの体験、記憶、カルマ的状況に
巻き込まれることで、しばしば自らの意思で変えていこうという、《働き
かける側》に立ってしまいます


 そのような場合、自己に有利な局面を見出そうとしがちになり、自ら
欲望の奉仕者になり、限りなく権威的に、限りなく利己的に、限りなく
嫉妬心を燃やすことになるわけです。

 高橋氏はこれに続く解説で、我々が睡眠状態にある間に、このような
自我の働きの結果が、
決定的な差となって、我々のファントムに跳ね
返ってくる
と説明しています。

 「 覚醒時の自我は、この世を生きるために、ひたすら見る者
  の立場に徹する
ことが出来れば、

   自己意識的な自我を確立し、自らの故郷である霊界の原
  則
に従って、真善美の観点を保ち続けることができるのです
  が、

   生活の誘惑に負けて、観察者に留まることを止め、日常生
  活における行為の主体になってしまいますと

   自分をアストラル体と同じようなものにしてしまい、アストラ
  ル体の奉仕者の役割を演じることに終始してしまうのです。 

   これに対して、睡眠時の自我は、覚醒時に観察した自らの
  アストラル体、エーテル体、肉体の行為の印象を、毎夜肉体
  に刻印づける
という役割を負っています。

   ですから、その印象が覚醒時に霊的な観点に立っていたこ
  との結果であったならば、毎夜ファントムに創造的な力を送
  り込むことができるのですが、

   そうでない場合は、自分が巻き込まれてしまったカルマや
  記憶や現実の、いやらしい感情形態や思考形態を刻印づけ
  る
のです。

   その結果、ファントムは、だんだん醜い、歪んだ、はかな
  い、もろいものに変えられていく
のです。
   これは、我々にとっては、非常に深刻な問題です。

   何か一つの体験を持つ度に、自我がじっとそれを見つめ、
  そして、夜眠っている時に、寝ている自分の肉体に、その
  印象を刻印づける
と言うのですから。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 pp408-410《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載)


 小生を含め、多くの人にとって《他人より恵まれた生活》を目指し、
次々と利己的な物質を生み出している現代
にあっては、ファントム
を歪ませない生き方
をすることは、相当難しいことでしょう。

 そして、その《いやらしい感情》が湧き起こる度、顔や肢体に刻ま
れてゆく
と考えると、キリストが我々に手本として示した、肉体の浄化
など《遥か遠くの夢》
の話に思えてきます。

 しかし、我々はそのために転生を繰り返しているのです。例え亀の
ような歩みしかできないとしても、毎日少しずつ完成に近づけてゆくより
他ありません。
 
 そのためには、第156夜でお話ししたように、自分の行動が、自分
でもそれと気付かぬうちに利己的になっていないかを
、常に反省し
ながら生きてゆくしかなさそうです。

 ★ シュタイナーの宇宙観

 以上がシュタイナーの説く、我々の復活の《科学的》な解説です。

 恐らく、話がここに至るに連れ、彼を理解しようとする解説者の多くが、
《何と血迷ったことを言うのか》という想いで彼から離れていったもの
と思われます。

 正直に言って、第147夜以降のシュタイナーの言葉を、何の前知識
なしにスンナリ理解できるという方は、シュタイナーの生まれ変わりか、
よほどの変人ではないかと思います。

 この書の解説者である高橋氏も、その想いを抱くことを当然のこと
とした上で、その『あとがき』を、以下のような書き出しで締めくくっていま
す。

 「 本書で展開される壮大な宇宙観、人間観は、途方も無い
  作り話
のようにも読み取ることができるが、

   今我々が限られた何十年かのために生まれて来たことの
  意味
、我々が《人間である》ということの意味を改めて思
  い巡らせてみると、

   本書のどの頁からも、生々しい現実の息吹が感じられ無
  くもない。
 (…中略…)

   本書の内容は、
  《 それを真実として受け容れることが出来ることができ
   るかどうか》

   ということよりも、
  《 それをイメージとして自分の中に再現することが出来
   るかどうか》

  を、読者に問いかけている。

   このイメージには不思議な力があって、一度作られたそ
  のイメージは、一種の《浄福感》のような余韻を、読者の
  心に残してくれる。

   ここで、そのイメージを大雑把にまとめてみると、

   (1)人類は大宇宙ともども進化を遂げていく

   (2)人間個性の数は初めから限られており、無限に生
     み出されるものでは無いので、この人類の進化の過
     程には、同一の個性が繰り返して参加している

   (3)その進化には人間だけでは無く、人間よりも高次
     の存在たちも関わり続けている

   (4)人間個性の秘密には、太陽と地球との宇宙的な関
     係が含まれている

  ということである。
   その、太陽の霊的=生命的な働きを代表するものを、シ
  ュタイナーは《キリスト》と呼んだ。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
pp415-416《筑摩書房(高橋巌 あとがき)》より抜粋転載)


 第160夜でお話ししたように、シュタイナーは、聖書に書かれたキリスト
秘跡の数々を《真実》では無く《事実》として捉える必要性を強調し
ました。

 例えればそれは、空海が最澄に伝授を拒んだ《密教》のようなもので、
頭の中で理論的に考えるものでは無く、そのとおりイメージできるか
どうかに関わるものかも知れません。

 イメージなどと言うと、一般には単なる空想のように捉えられがちです
が、今までお話ししてきたように、我々の《思考》そのものも、霊的には
生きた存在だ
とすればイメージすること自体が大切だとも言えます。

 そのイメージする力が強ければ強いほど、我々はその通りの浄化の
過程を着実に進むことができるのです。逆に《そんな馬鹿なこと》と思っ
てしまえば
、それはその通りの効果しか得られないのです。

 さて、シュタイナーは、未来のもうひとつの秘跡である、完成された《見
えない肉体》を持ったキリスト
が、どのような形で再度我々の前に現れ
のかについても言及しています。

 次回第163夜からは、その《再臨》についての話です。

( 追伸 )

 中曽根君、君はトンデモないものを
イメージして来たようだね。

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トンデモ話は奥で繋がる(161) 24.6.10

トンデモ話は奥で繋がる 「第161夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪復活と再臨 ②≫
 
 ★ 肉体の神秘

 さて、我々人間が4つの体で出来ているということは、再三再四お話
ししていますが、その中で我々が最も理解していないのが『肉体』
のだと、高橋氏の解説は次のように述べています。

 「 シュタイナーによれば、人間という存在は、自己同一
  性を保った単一の存在では無く
、異質な原理に基づく
     諸要素の複合体であり、
   (…中略…) 

   その4つの中で一番見えにくい一番実感として持
  ちにくいもの
は何かというと、それは自我でもアストラ
  ル体でもエーテル体でも無く、まさに肉体だと言うの
  です。

   人々が互いに認め合っている肉体は肉体では無く、
   肉体とエーテル体とアストラル体と自我が1つになっ
  て現れている
ものなのです。

   ですから目に見えるのですが、純粋な肉体形式は、
  眼に見えない
と言うのです。

   それが『コリント信徒への手紙』による《自然の命の
  体が霊の体となって復活する》と言うときの《霊の体》
  の意味です。

   シュタイナーの宇宙論をお読みになった方はご存知
  だと思いますが、肉体は、土星期、太陽期、月期とい
  う壮大な進化の初めには、既に現れていますから、

   人間の4つの構成体のうちで、一番長い進化を辿っ
  て来たのです。…その、一番発達している肉体が、本
  来、眼に見えない性質のものだと言うのです。

   見えているのは、その肉体に物質素材が入り込み、
  エーテル体、アストラル体、自我と結びついているか
  らで、純粋な肉体形式そのものは、可視的では無い
  
のです。

   眼に見えず、透明に輝いているのです。そういう肉
  体の形が、そもそも宇宙の発端から、神々によって
  与えられ、時代と共に進化発達して来たのです。」
  
  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 pp400-401《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載)


 『肉体は本来見えないものである』という、まさにコペルニクス的
転換とも言うべき説です。言い換えれば、『見えなくなったからとい
って、消滅したのでは無い』
ということにもなります。

 考えてみれば、見える・見えないの基準とは、我々の眼が認知
できるかどうか
の差でしかありません。たとえ存在していても、暗闇
では何も見えませんし、眩しすぎる光は見ることができません。

 従って、常に認知できない環境に存在しているものについては、
存在していても見えない
のです。《触ればわかる》と言っても、気体
のように触覚が効かないものもあります。

 しかし、同じものをネコやコウモリは暗闇で捕らえることができます
し、逆に《動くものしか見えない》眼を持つ動物や昆虫では、《動かな
いものは存在しない》と定義するでしょう。

 ★ 第3次元の怪人    

 しかも、その《肉体》には《物質素材は含まれない》とされていま
す。シュタイナーはそれに《ファントム》という呼称を与え、霊的な解
釈を加えています。

 シュタイナーによれば、物体は《素材》そのもの、それに働きか
けて、物体を構成させる意思をもった《形式》によって実在してい
るとされます。

 例えて言えば、「氷」は「水」と同じ水素と酸素を素材とした分子か
ら出来ていますが、結晶の形を取らせる《形式》によって、水とは
違った物体となっているのと同様なものです。

 この《形式》が、全ての《素材》に働いて、特有の物体を現出して
いるというのです。…これと似たことを、以前どこかでお話ししたの
ですが、覚えていらっしゃるでしょうか。

 実は、スピリチュアリズムの言う多次元の世界のうち、第七十六夜
でお話しした『第6次元』が『第3次元』に働きかけているものこそ、
この《形式》の概念に近いと思います。

小生は、その次元を『何次元』と呼ぼうが、我々の次元より高か
ろうと低かろうと、そんなことは本質とは関係の無いことだと思っ
ていますが、取りあえず以下『第6次元』と呼ぶことにします。)

 物質の本当の《実体》は、この『第6次元』に存在しており、我々が
『第3次元』で見ている物体とは、我々の世界にある《素材》を使って
《実体》のモデルを映し出している
のだという概念です。

 そして、『第3次元』でそのモデルを《組み立てる意思》に当たるも
のとして働いている力を、シュタイナーは《ファントム》と名づけたの
です。

 つまり、死後我々の肉体の《素材》は散逸してしまうものの、それ
を形どらせて来た《意思》の力は、別の次元からの力を受け続け
眼に見えない《新たな体》を保ち続けるのだと、小生は解釈します。 

 ★ 不滅の肉体への道  

 さて、高橋氏の解説の続きによれば、我々はキリストと違って、そ
ファントムが不完全なため、死後直ぐにその《新たな体》として
復活できない
のだと述べています。

 「 ファントムは人間の中のフォルムの力であり、理想的
  な人体形式であり、それを人間は皆担っているのです。

   けれども、その担っているフォルムが次第に崩れて、
  どうしようもないところにまで来てしまいました。
   だから今の我々は、死んでも復活できないのです。
  
   キリストは、

    自分が自分の霊的な力にかけて、ファントム復活
    のために人々に働きかける
から、

    1人ひとりは、それぞれ自分のフォルムを信じて、
    再び人体が復活できるように生きてもらいたい

   と願っているのです。そういうメッセージがキリスト
  教の宣教なのです。

   キリストがゴルゴダの丘で死んだからといって、何十
  億人の全てが、すぐに復活するわけでは無く

   1人ひとりの無数にある細胞の、ごく僅かな部分が霊
  の体に甦る
のです。

   無限の時間をかけて、何度生まれ変わってでも、その
  細胞一つひとつを霊の体に創り変え

   そして最終的に理想的な肉体に甦る時、人間は不滅の
  存在になります、

   今の私達の中には、一片の霊の体だけが存在している
  のですが、それだけではまだ復活への道を成就している
  のでは無く、その出発点が与えられただけなのです。

   出発点が与えられただけの肉体に、霊の体への甦りを
  促す力
のことを、シュタイナーは《キリスト衝動》と呼びま
  した。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
  pp406-407《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載)


 つまり、現在我々が《肉体を復活できない》のは、ファントムの理想
の形が崩れている
からであり、《キリスト衝動》はそれを取り戻すた
めの秘蹟
であったというわけです。

 逆に言えば、ここに第159夜で示した疑問の答えがあるのです。我々
完全なファントムを維持できるようになれば眼に見えない《本来
の肉体》については消滅することはない
のです。

 我々は、現世の生活の中で、《キリスト衝動》によってアフラ=マズダの
『光のかけら』を浄化し、自らも滅亡する地球の《素材》ではない、不滅
《本来の肉体》を得て、4つの体のまま存在するのです。

 そしてこれが、小生が第158夜で、我々はアフラ=マズダの《光のか
けら》自身ではなく、一人ひとりがそれを《持っている》
とした理由で
もあります。

 ただし、ファントムを理想の形に戻す作業は、かなりの転生を繰り
返さなければならないようです
。そしてその作業の過程は、個々の魂
の浄化度によってかなりの差があるものと思われます。

 それ故、小生は、それがたった一度のアセンションで一気に達成さ
れる
とはどうしても思えないのです。むしろ、そんな簡単な事ならば、
今までの転生の積み重ねが全く無意味なもの
思えてしまうのです。

 それどころか、我々が自身がファントムの崩れを是正するような生
を送らない限り、《新たな体》として復活することは難しいのです。
 次回第162夜は、その原因についての話です。

( 追伸 )

 中曽根君、君のファントムも相当な
崩れようだね


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トンデモ話は奥で繋がる(160) 24.6.3

トンデモ話は奥で繋がる 「第160夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪復活と再臨 ①≫
 
 ★ 遠藤周作氏へのメッセージ

 ここで『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』に添えられ
た高橋氏の解説は、当然のことのように『キリスト衝動』の節から
『復活』の節へと移っています。

 確かに、史実(とされている)の順序としては、ゴルゴダの秘跡の
後に『復活』があるのですが、これが『地球滅亡に際しての、我
々の行く末』
に直接結びつくと思える方は少ないでしょう。

 さて、高橋氏の話の続きに入ってゆく前に、一般人として『復活』
を考えてみましょう。

 現代では、よほど厳密な聖書の信奉者でない限り、キリストが
文字通り『墓から蘇生した』と考える人は少なく
、キリスト教徒
でさえ、その大半はお茶を濁したような解釈に留まっています。

 小生も、出だしの第四夜でお話ししたとおり、さすがにイエスの
肉体そのものが甦った
とは考えていませんが、弟子達は、かな
はっきりした霊体を見たのではないかと思っています。

 しかし数々の福音書には、はっきりと『復活した』と書かれており、
故に、あまたのキリスト教義者達が、万人を納得させる解釈を求
めてさまざまな書物を著しています。

 さて、そんな努力を続けてきた方の一人に『沈黙』を初め、一般
のキリスト教徒とは違った視点からイエスを捉えようとした作家、
遠藤周作氏がいます。

縮遠藤  氏はその著『イエスの生涯』の中で、
イエスの様々な奇蹟を、弟子達の人
間心理の面
から捉え直し、その中で、
我々が許容できるギリギリの奇蹟を描
きました。

 彼は、そうすることで『奇蹟』の物理
的な真偽
を徒に論じて、空虚な解釈
争いをする
事無く、その精神をその
まま受け入れよう
ではないかと呼び
かけました。

 小生は、遠藤氏については、既存の歪められたキリスト教に
捉われず、キリスト自身の伝えようとした精神のよき理解者
であると思っています。

 とりわけ遠藤氏が、キリストの教えの中に―それ故他のキリス
ト文学者からは白眼視されることになる―
仏教的な『慈悲の
心』
を見出していたことは、まさに慧眼であったと、第158夜をお
読みいただいた方には納得いただけることと思います。

 恐らくその点の認識では、『ルカ福音書講義~仏陀とキリスト
教』
の訳者西川氏も同じ思いであると思いますが、敢えて同書の
の『あとがき』に次のように記しています。

 「 《イエスの生涯》(1973年)の中で遠藤周作氏は、

  『 我々が、手にしている聖書は、必ずしも
   イエスの生涯を事実どおりに追っているわ
   けではない。

    …聖書に書かれたイエスの生涯は確かに
   一貫した真実を持っているが、一つひとつ
   の事実という点では、必ずしも正確に書か
   れていないのである
。』

  と述べているが、そうではなく、福音書には事実
  =真実が述べられている
のである。

   だから、シュタイナーはキリスト教を『神秘的
  真実』
とは言わず、『神秘的事実』と言ったので
  あった。」

  (ルドルフ・シュタイナー『ルカ福音書講義~仏陀とキリスト教』
 p247《イザラ書房(西川隆範 あとがき)》より抜粋転載)
 

 恐らく西川氏は、あとがきでこれを書かずにはおられなかっ
のでしょう。何故なら遠藤氏の解釈は、まさにこの書で西川氏
が訳出してきたことの、重要な一面を捉えていたからでしょう。

 つまり、数々の秘跡に対する遠藤氏の精神的な解釈は、イエス
に先行して降臨した仏陀が、我々に叡智として授けたものとし
ては、極めて的を射たもの
なのです。

 しかし、キリストはそれを肉体的に体現して見せたのであり、
それ故、肉体的に書かれたことは全て事実としてみるべきで、
その中の重要なものの一つとして『復活』があるということです。 

 ★ 古代ギリシア人の肉体愛

 さて、それではシュタイナーの説く『復活』の事実とは、一体ど
んな現象なのでしょうか。再び『シュタイナーコレクション5(イエス
を語る)』の高橋氏の解説に戻ります。
 
 始めに氏は、肉体を離れた状態で見霊能力を得ていた、古代
ギリシア人
の『肉体へのこだわり』をこのように説明しています。

 「 シュタイナーが言うには、ギリシア=ラテン期の
  人々は、『健全な精神は健全な肉体は宿る』という
  原則を当然のように受け容れていました。
 (…中略…)

   この世と深い関わりを持つための道具としての肉
  体を大切にし、その肉体を完全なものにすることに
  生きがいを感じていました。
 (…中略…)

   死とともに、自分達の分化の拠り所である肉体が
  滅びてしまうことに、何にも代えがたい悲しみと憤
  りを感じていました。

   これほど自分達が大切にしている肉体も、死によ
  って滅びてしまうのか。

   この美しい、これほど愛している肉体が滅びてし
  まうのだったら、たとえ魂が残ったとしても、そこ
  にどんな喜びがあるだろうか。


   だから死んで冥界の王になるよりは、まだこの世
  に残って乞食でいたい、そう思ったのです。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 pp398-399《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載)


 彼らは、我々と違って霊界を比較的身近に体験できたのです
が、それよりも―もしかするとそれ故に―肉体というもう一つの
世界の方が素晴らしい
と感じていたのです。

 こうした思いは古代ローマ時代でも同じでした。いや現代人にとっ
ても、この不完全に見える現世の方が、霊界よりは魅力的である
からこそ、転生を繰り返すのです。
   
 一部のスピリチュアリズム信奉者の中には、霊界の方がより高
次元で、理想的な世界である
ように考えている方もありますが、
双方を知った先人達は、迷わず現世を選んでいたのです。

 ★ 科学的復活論

 さて、こうした思いを持つ古代ローマ人の思に対して、パウロ
自らの宣教の中で『復活こそ、それに対する答えである』と説
いている、と高橋氏は述べています。

 「 それに対して、そうではない、君達が大事にして
  いる肉体は死とともに滅びはしない。肉体は復活
  すると、パウロは説いたのです。

   有名なキリストの復活について、パウロは『コリ
  ントの信徒への手紙1』の中ではっきりと述べて
  います。

   《 キリストが復活しなかったのなら、私達
    の宣教も、あなた方の信仰も空しい 》

   肉体の復活が信じられないのだったら、一切の
  キリスト教は空しい、というパウロの立場から、シ
  ュタイナーのキリスト理解は始まっています。
 (…中略…)

   それでは、もし肉体が死んで、再び復活するこ
  とが可能であるとしたら、それをどう理解したらよ
  いのでしょうか。

   ただ《そういう信仰がある》と言うのならともかく、
  
信者でない人達にも、それを納得させる道はある
  のでしょうか。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 pp399-400《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載)


 《復活は事実である》と断言することは、まさに、遠藤周作氏が
《キリストの精神》を伝えたいがために、あえて、理解の得られ
る《真実》に置き換えた
難問です。

 一方、シュタイナーはそれを《信仰》としてしまわずに、事実として
伝える道
を選びました。

 しかし、だからといって近代科学の見方を全く無視したわけでは
無く
、まだ我々に知られていない科学的事実として説明する道をと
っているのだと、高橋氏は次のように続けています。

 「 シュタイナーは、復活の思想は、近代思想の対極
  にある
ので、近代思想からは、復活を絶対に認める
  ことが出来ないと言っています。

   近代思想から言えば、肉体は物質から成立ってお
  り、その物質は死によって崩壊するのです。崩壊し
  た後、崩壊してしまった肉体がまた復活する可能性
  は、科学的にはありえません


   しかし、その復活が肯定できなければ、パウロが
  言ったように、キリスト教は全て空しいということ
  になりかねません。

   自然科学的な立場から復活論が肯定できる立場
  
がとれれば、キリスト教は現代にも生きられます。
   もしその立場がとれなければキリスト教空しいの
  です。

   シュタイナーは、そういう所まで自分を追い詰め
  ていって、改めて現代人にとっても理解可能な復活
  論
を唱えようとしたのです。」
   
 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 pp400-401《筑摩書房(高橋巌 解説)》より抜粋転載)


 次回第161夜では、その解釈についてお話しします。

( 追伸 )

 中曽根君、君だけは復活を遠慮して
くれたまえ。

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トンデモ話は奥で繋がる(159) 24.5.26

トンデモ話は奥で繋がる 「第159夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪キリスト衝動 ⑬≫
 
 ★ キリスト衝動である3つの心

 それでは、我々が受け取ったキリスト本性の具体的な中身とは何
なのでしょうか。シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』の高橋氏
の解説を見てみましょう。

 「 シュタイナーは《キリスト衝動》を人智学の根本に
  据えております。人智学とは、要するにこの世に《キ
  リスト衝動》をいかに生か
すかと言うことだと、彼は
  繰り返し語っていますが、
  (…中略…)
 
   その衝動は3つの本質を示しており、

   1つは《愛》《共感の心
   第2は《賛美する》態度、
   3番目は《良心》の感覚だと言うのです。

   賛美する気持ちと、愛あるいは共感する心と、良心
  とは、不思議なことに、紀元前6世紀から前5世紀に
  かけて、世界中に起こってきた
というのです。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 pp326-328《筑摩書房(高橋巌 あとがき)》より抜粋転載)


 この辺りまでの記述については、巷に溢れるスピリチュアリズムに
もお馴染みの、耳ざわりのよいお題目のように聞こえます。
 しかし、重要なのはこれが《3つの本質》だと言っている点です。

 ちなみに《賛美する》というのは信仰心のことですが、あくまでも
の神的存在に対するもの
であって、堕落したキリスト教の信者に
なれ
というわけではありません。

 なお、こうした心の起こってきた時期が紀元前6~5世紀と、イエス
の時代より先行しているのは、前夜で述べたように、まず仏陀が叡智
としてこの世に八正道として示していたからです。

 ★ キリスト衝動のゆくえ

 さて、問題はこれに続く部分です。ここで高橋氏は唐突にイエスの
肉体
について、下記のような、想像を絶するような解説を始めます。
 まずは、その部分をそのまま抜き出してみます。
 
 「 そしてシュタイナーが言うには、イエスにキリストが
  受肉したと言うのは間違いで、キリストは3年間イエ
  スの肉体に憑依しただけなのです。

   それでは、キリストの本当の身体はどこにあるのか
  というと、

   《賛美する心》《愛》《良心》という3つの働きが、
  地球という遊星がいつか滅びる時までに、人類の中
  で深められ、濃縮
された時、

   地球が滅びた後の地球という存在の証として、身体
  として、キリストがそれに受肉する
、と言うのです。

   キリストが地球の滅亡に際して、最終的に地球の証
  として出現する時のその身体は、濃縮された《良心》
  と《共感する心》と《賛美する心》とから成り立って
  いる
、と言うのです。

   シュタイナーによれば、現在の我々の良心(本書で
  いう《人の子》)とは、いつか生じるキリストの肉体の
  もとになるものなのです。

   そして我々の愛や共感する心は、いつか生じるキリ
  ストのエーテル体のもと
であり、

   我々の礼賛する心、賞賛する心は、キリストのアス
  トラル体のもと
なのです。」
   
  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 pp395-396《筑摩書房(高橋巌 あとがき)》より抜粋転載)


 要点だけを言えば、《キリストはその3つの心を、かつて地球が存
在した証として、自らの身体とする》
ということになります。…と言わ
れても、全く常人の理解を超えるところでしょう。

 この辺りの飛躍振りを見ると、コリン・ウィルソンを初め、シュタイナー
を理解しようとする者達を《とてもついてゆけない》と見切らせてしまう
のも、十分頷けるところです。

 ★ キリストの肉体

 実際小生も、ここの解釈については確信が持てない部分のひとつ
ですが、読者の方々にも考えていただくために、誤った認識である危
険性
を承知の上で私見を述べておこうと思います。
 
 始めの、我々がキリスト本性から受け取った3つの心、賛美する心》
《愛》《良心》
は、我々が輪廻転生する度に、現世の生活の中で濃縮さ
れてゆくというのは、これまでの話から理解できると思います。

 問題は、それらは最終的にはキリストの《肉体のもと》になるのだと
言う部分です。まず、3つの心がキリストの肉体のどの部分に対応
しているのか
について見てみましょう。

 その辺りの説明について、高橋氏は、それに続く解説で、3つの心の
ゆくえを儒教の仁義礼智と結びつけて次のように述べています。

(ここで儒教が出てくるのは唐突にも思えますが、高橋氏によれ
ば、儒教は、古代アトランティスの見霊意識を持ったシャマニズ
の生き方を、 社会思想の形で表したほとんど唯一のものだと
述べています。)

 「 シュタイナーが《良心》と言っている未来のキリ
  ストの肉体は、孔子の言葉で言えば『義』です。
  『義』とは、孟子によれば羞悪の心の事だそうです。

   悪いものを恥じる心なのです。恥じる時、私達は
  肉体で反応します。真っ赤になったり、冷や汗をか
  いたりします。

   『仁』というのはエーテル体の働きです。仁は愛
  であり、共感の心であり、惻隠の情なのです。

   例えば、小さい子が井戸に落ちそうになった時に、
  どんな悪人でも思わず駆けて行って、その子を助け
  ようとします。そこには打算も名誉心も働いていま
  せん。
  (…中略…)

   その『仁』は未来のキリストのエーテル体なので
  す。それは人と人、対象と対象との間を通じ合わせ
  る力であり、生命力の源です。

   そして、『礼』とは辞譲の心ですが、礼を尽くすと
  は礼賛することだとも言えます。何かを本当に素晴
  らしいと思える力です。

   その素晴らしいと思える心で、前に向かって進も
  うとする態度が、シュタイナーの言う未来のキリス
  トのアストラル体を為すものなのです。

   『仁義礼智』の『智』自我の働きに対応します。
  孟子は、智とは是非の心のことだ、正しい、正しくな
  いに敢えて踏み込む内的な力だ、と言っています。

   この仁義礼智の教えを通して、儒教が後世に伝え
  ようとしたことは、恐らくシャマニズムの精神の根幹
  
であると思います。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 pp396-397《筑摩書房(高橋巌 あとがき)》より抜粋転載)


 まとめると、
 『良心』   =『羞悪の心』= キリストの《肉体》
 『愛』     =『惻隠の情』= キリストの《エーテル体》 
 『賛美の心』=『辞譲の心』= キリストの《アストラル体》
 
だということになります。

 つまり、それぞれの3つの心が、我々の4つの体のうち《自我》
を除く各部分に相当するものに転化
するというのです。

 さて、ここで第153夜の話を思い出してください。そもそもキリス
トの本性とは、太陽=アフラ・マズダであり、さらに、我々が肉眼
で見て、科学的に知っているものとは別の実体でした。

 シュタイナーは、そこから、熱エーテル、光エーテル、音響エ
ーテル、生命エーテル
が放たれていると言います。それは我々
の感覚でなく、霊的にしか知覚できない、熱や光や音の本質的
なもの
を指しています。

 小生は、これらがキリスト衝動以後、私達の中に流れ込ん
ことによって、私達に自己中心的な心とは違った3つの心を発
させ、地上生活においてその体験を積み重ねさせているのだと
思います。

 そしてこれらは、私達の死とともに、第135夜以降でお話しした
《4大霊》のような存在となって霊界に持ち込まれ、次回の転生の
際にはまた引き継がれることになります。

 無論、一度の転生で浄化されるものでは無く、逆に劣化する場合
もあり得るでしょう。これが、私達一人ひとりの輪廻転生の度に繰り
返され、人類全体として徐々に浄化してゆくのではないかと思い
ます。

 ★ 地球の滅亡とともに… 

 さて、高橋氏は、この浄化の過程で我々の地球は滅びるのだと
言っています。これについては、第128夜でお話しした『東方ミト
ラ伝説』
で述べられているのと一致しています。

 ただし、この伝説では我々自身が、散り散りになったアフラ=マ
ズダの『光のかけら』
の一つひとつであり、一部の『闇』の勢力を除
き、その全てがそのコスモスから脱出することになっていました。

 しかし、高橋氏の解説では、浄化されていくのは太陽存在から
受け取った3つの心
の方で、我々は輪廻転生を繰り返して、それ
をキリストの最終的な肉体にまで高める役割を担うように見えます。

 すると、我々自身はどうなるのでしょうか。『東方ミトラ伝説』とは
違って、ここではシュタイナーは、我々自身が救われるとも、アフラ=
マズダと一体になるとも言っていません

 つまり、我々は単にキリスト本性の浄化の担い手であって、その
勤めを無事果たした折には、地球とともに滅亡する運命にあるの
だ、とも受け取れる書き振りになっています。

 もしそうならば、選ばれたものが救われるだの、アセンションで
高次元の存在になる
どころではありません。利己主義であろうが無
かろうが、時が来れば、皆そろって消え去る運命…なのでしょうか。

 実は、この答えとなるものが、キリストのもう一つの秘跡である『復
活』の本当の意味
にありそうです。
 それについては次回第160夜でお話しします。

( 追伸 )

 中曽根君、君は滅亡の前にアーリマンの
元に帰ってゆけそうだね。


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トンデモ話は奥で繋がる(158) 24.5.13

トンデモ話は奥で繋がる 「第158夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪キリスト衝動 ⑫≫
 
 ★ 血=自我

縮ルカ  さて、はじめにゴルゴダの丘でのキリストの磔刑
について、もう少し掘り下げて見てみます。

  本当にあちこちに飛んでしまって申し訳ないのです
が、ここでまた、次なる書を紹介しなければなりませ
ん。

 なにせ、シュタイナーの書は、ほとんどが『講義録』
ですので、全ての事柄を最適に書いているものは稀
です。ですから、できるだけ多くの文献から、より適切な講義録を探して
ゆくのがひと苦労なのです。

 この部分の説明のヒントとなると思われるのが、1909年9月に行わ
れた『ルカ福音書講義~仏陀とキリスト教』の連続講義の第十講
《西川氏訳・イザラ書房》です。

 しかしこのことについて、小生自身、完璧に理解している訳ではありま
せんので、あくまでも《推論》です。それでは、同書から、ゴルゴダの秘
跡について書かれた部分を見てみましょう。

 「 当時、ゴルゴダの丘で何が起こったのかを正しく理解
  するためには、今日一般の理解よりも深い理解が必要
  です。

   地球進化が始まった時に、人間の自我が物質化した
  のがです。血液は、人間の外的な表現なのです。

   キリストが出現しなかったなら、人間は自我をますま
  す強め、エゴイズムを発展させていたでしょう。

   ゴルゴダの丘の出来事によって、人間はエゴイズム
  に深く陥る事を免れたのです。
  (…中略…)

   その時流れ出た血は、エゴイズムの余剰として、人
  間の本性の中で犠牲にされなければならないものの
  しるしでした。
  (…中略…)

   ゴルゴダの丘で生じた事は、外的で知的な眼差しし
  か持たない化学者には見通すことができません


   誰かが、ゴルゴダの丘で流された血を検査しても、
  他の人間の血の中に見出されるのと同じものが見出
  されるでしょう。

   しかし、神秘主義的探求の手段を用いて調べる者
  は、その血が他の血と違うことを見出します。
  (…中略…)

   神秘学者は、いかに無限の愛が、ゴルゴダの丘で
  流された血を貫いているかを見出します。
  (…中略…)

   ゴルゴダの丘から、この愛の理想を表現する言葉
  が響いて来ます。最も悪い事をした者をも許す言葉
  です。
  (…中略…)

   人間は、ゴルゴダの丘の上の十字架から流れてく
  る愛に浸透されるなら、未来を見て、

  《 精神として、私の中に生きるものが、次第に
    物質的な地球存在を変容させていくように、
    地上での進化が行わなければならない 》
 
  と言うことができます。

    ルシファーの影響がまだ無かった頃、父原理が存
   在しました。私達は、受け入れた霊を、次第に父原
   理
に返してゆく
のです。
  (…中略…)   

   そして、人間は輪廻転生を重ねていき、身体の行為の
  中に、ゴルゴダの秘儀から父原理の中に注がれる霊
  流れ込み、外界はキリスト原理に浸透されるのです。」

   (ルドルフ・シュタイナー『ルカ福音書講義~仏陀とキリスト教』
  pp235-238《イザラ書房(西川隆範訳)》より抜粋転載)


 《血》とは《人間の自我が物質化したもの》だとシュタイナーは言い
ます。つまり、肉体に留まったままでの見霊能力を得たキリストの本
性が、血となって地上に流れ出たのです。

 無論、化学者達は《そんなことで、自我が伝わるはずが無い》と言
うでしょう。そこで、もう少し現代的な解釈をして見ましょう。

 我々の血は、我々自身が生み出しています。まず、その血の一滴
ごと、つまり現代的に言うなら、その中のDNA全てに、キリスト衝動と
いう《突然変異》
が引き起こされたと考えてみます。

 そしてその血は、聖杯に収められました。ここでさらに飛躍して、そのD
NAが、ウィルスのような自己複写機能を持っていたとしたら…感染す
ることで、その遺伝子が入っても不思議ではありません。

 この《ウィルス》に《感染する》ことで、聖地の兄弟団のメンバーは、キリ
ストの見霊能力
を得たり、或いは直接その能力を発現できないにしても、
その潜在能力を得たのかも知れません。

 ★ 父原理とは

 一方、後段部分の言葉にある、
 《 私達は、受け入れた霊を、次第に父原理に返してゆく 》
 の《父原理》とは一体何を指しているのでしょうか。

 一般にキリスト教では、父である神の精神性が《父性原理》、母なる
マリアの肉体性を《母性原理》としているようですが、《父原理》を《神
の精神》に置き換えて読むだけでは意味がつかめません


 正直言って小生も、この部分を正しく理解しているのかどうか自信は無
いのですが、間違いの可能性を覚悟の上で、私見を述べてみます。

 第127夜でお話ししたように、ミトラ神学によれば、我々の一人ひとり
は、アーリマンによって切り裂かれた、アフラ=マズダの《光のかけら》
持っています。

(ここで、ミトラ神学の言うように「それ自身」とはせず、あえて「持っ
ている」と する理由は、後程明らかにします。)

 そして、そのかれらは《忘却の霧と闇の枷》の中で、その本来の輝き
を失っている状態であり、我々が転生する目的は、地上での研鑽によっ
て自らを成長させ、その輝きを取り戻すことでした。

 従ってこの言葉は、我々は輪廻転生を繰り返すことによって、自らの
肉体に受け入れた《光のかけら》を純化させ、次第にもとのアフラ=
マズダに近づけてゆく
ことを述べているのではないでしょうか。

 つまり、この《父原理》とは、ズバリ《アフラ=マズダ》を指しているの
だと、小生は解しています。

 ★ キリストが現れなかったら…

 それではもし、キリストの自我が地上に浸透しなかったとしたら、ど
うだったのでしょうか。それでは再び『ルカ福音書講義~仏陀とキリス
ト教』
から、その部分について抜粋して見ましょう。

 「 キリスト・イエスが地上に到来しなかったとして見ま
  しょう。そうすれば、どえなっていたでしょうか。自我
  が完全に出現するように、人類は進化
したでしょう。

   しかし、自我が完全に出現した分だけ、以前から傑
  出していたアストラル体、エーテル体、物質体の能力
  が消え去った
ことでしょう。

   それが、進化の必然だからです。人間は自己意識
  的な自我存在
になったでしょうが、その自我は人間
  を利己主義に導き、地上から愛を消滅させたことで
  しょう。

   人間は自我を獲得はできたでしょうが、それは全く
  利己主義的な自我
になったことでしょう。
  (…中略…)

   この自我に内容を与えること、自我から愛の力が
  流れ出るように自我を発展させること、それがキリス
  トの地上での行為
でした。

   キリスト無しには、自我は空っぽの器のようになっ
  ていたことでしょう。キリストが現れたことで、自我は
  愛に満たされた
のです。
 ……………………………………………………………………
  
   思考において、叡智として、人類は最も完全な自我
  
を有します。…しかし、叡智及び思考と、生きて活動す
  る力とは違います。


   《自我はいかにあるべきかを知ること》《生きた力を
  自分の中に注ぎ込む》
のとは違います。…キリストが
  もたらしたのは生きた力であって、教えではありません。

   キリストは、自らを捧げたのです。単に人間のアスト
  ラル体にでは無く、自我の中に下ったので、自我は愛の
  実質を自分から注ぐ力
を得るのです。

   キリストがもたらしたのは、愛の生きた内容、実質
  あって、単に愛の叡智に満ちたものでは無いのです。」   
   
   (ルドルフ・シュタイナー『ルカ福音書講義~仏陀とキリスト教』
  pp195-204《イザラ書房(西川隆範訳)》より抜粋転載)
 

 つまり我々は、個々の意識をもったままの見霊能力を得るために、
《自我》を発達させてきたのですが、それだけでは《仏作って魂入れ
ず》
の状態であり、単なる《自己意識》の塊に過ぎないのです。

 ちなみに、後段で《叡智と思考》の話が出てきますが、実はイエスに
先行して、《自我はいかにあるべきか》を地上において説いたのが
であるとしており、これがこの書のテーマでもあります。

 彼によれば、仏陀は《慈悲と愛の教え》を八正道として説きました。
彼の弟子達の幾ばくかは、その教えだけで悟りの境地を開いたとさ
れています。

 しかし、その叡智だけに留まっていたのでは、新たな見霊能力を身
につけることはできません。それを生きたものとして、発現すること
必要であり、それを実現させたのがイエスだったということです。
 ……………………………………………………………………………………

 ついでに言えば、このことは、一部の超人的なスピリチュアリスト
招いて、その能力を堪能することに終始するような講演会について
も、よく考えるべき問題だと思います。

 例え、見つめるだけで愛を発するような怪人が、現実にその力を持
っているとしても、単にその力を受身的に浴びているだけでは、ただ
教えを聞いているのと大差はありません。

 我々が目指すべきとされているのは、愛を受身的に感じて満足する
こと
ではなく、イエスが実践して見せたように《愛の実質を自分から注
ぐ力を発現する》
ことなのです。

 神秘的体験だけを求めるような姿勢は、イエスに奇蹟だけを求め、
その本質を理解できなかった、かつてのユダヤ民衆の愚かさ
と、ほ
とんど変わらないのではないでしょうか。

 さて、次回第159夜では、我々が自我の中に受け取った《キリス
ト本性》の具体的な中身について、もう少し具体的にお話しします。

( 追伸 )

 中曽根君、君の自我はプルトニウムの愛に
満たされているようだね

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トンデモ話は奥で繋がる(157) 24.5.6

トンデモ話は奥で繋がる 「第157夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪キリスト衝動 ⑪≫
 
 ★ 既に完璧な肉体

 さて、ようやくこの章の本題となる『キリスト衝動』にたどり着くことが
できます。それは、キリスト自らが、人間の肉体を使って、人類の手本
として刻み付けたもの―いわば軌跡のようなもの―を指しています。
 
 「 キリストは、誘惑のこの3段階を、典型的な仕方で、
  しかも古代の秘儀の場の外で、人類に示してくれました。
   
   人間の3つの体の中に生きるキリスト本性の力を通し
  て、それが体験できた人には、ひとつの衝動が与えられ
  ます。

   マルフト(≒現世という国)の中で生きる人間が、自我を
  失わずに霊界に参入
できるようになるための衝動が与え
  られるのです。

   いつかは、2つの世界を隔てるものが無くなり、マルフト
  の中を生きる人間が、その自我を伴って霊界へ参入でき
  るようになるでしょう。

   『マタイの福音書』に記されているように、誘惑を克服で
  きたことによって、人類にそれが可能となったのです。

   マルフトのための自我が高次の世界へ上昇するのです。
   このことの手本が、地上に生きたキリスト本性となって
  現れたのです。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 p203《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 このように、シュタイナーの説く『高次の世界への参入』とは、我々が
個々の肉体の中で自我を保ちながら、霊界の中へ入ってゆくこと
指しています。

 加えてそのためには、我々は《現状の肉体》をできる限り最善の状
態に保つ
べきなのです。

 肉体は、通常の地上生活を営む限りは、素晴らしい再生力と免疫力
を備えた器官
です。本来、全ての病的変化は、それ以外の体の変調に
よって起こるのであり、それさえ取り除けば自然と快癒するといいます。

 それ故、我々は、それ以外の通常ではない外的要因を、出来る限り
肉体に与えない
よう、肉体をケアする必要があるのです。つまり、肉体
の機能を損なうものとはできる限り付き合うべきではない
のです。

 ましてや、一部のスピリチュアリズムが言っているような《放射能にも
耐えられるような超越的な肉体になる》
などと言うことは、シュタイナー
の人智学にはありません。

  今、表向きは被災地応援とされている放射能の危険性を全国各
地にバラ撒く行為
などは、まさしくこれに反する行為であり、スピリチュ
アリズムとは正反対の行為であると認識すべき
です。

 ★ 最も非力な偉業 

 さて、このキリストが体験した『衝動』を、我々人類の共通の経験
の源として刻み付けること
―それこそがキリストが地上に受肉した唯
一絶対の目的であったと、シュタイナーは言います。

 その目的に比べれば、水をブドウ酒に変えたり、水上を歩いたり、死人
を甦らせたり…と言うような超人的な奇蹟など、彼の記憶を印象付ける
ための、ほんの添え物のような出来事なのです。

 そして、その最も重要な行為こそ―それらの秘跡とは正反対の、
人の前で彼の《非力さ》を最も印象付けた出来事
―ゴルゴダの丘
での刑死であったとシュタイナーは説いています。

 こう言うと、《死に望んでも、罪深い我々に注がれた無上の愛》
そ、最も価値ある行為なのだという、敬虔な信者が声高々に説いて回る
ような説教臭い意味に捉えられるのが、一般的な解釈です。

 勿論それ自体、たとえ《死は生を終わらすものでは無く、一つの通
過点に過ぎない》
と承知しているにしても、それに臨むことが並々な
らぬ行為
であることには違いありません。

 しかし、オカルティスト・シュタイナーを見くびっては(?)なりません。
 ここで、その辺りの記述に詳しいもう一冊の書『輪廻転生とカルマ』
《水声社(西川隆範訳)》から抜粋して見ます。

 「 キリストは地上に下った最大の権化です。キリストが
  ナザレのイエスに下ったように、権化が存在の中に下る
  と、秘密に満ちた、非常に意味深いことが生じます。

   小麦を地に埋めると、芽が出、茎が成長し、穂が生り、
  多くの麦が出来ます。その多くの麦は、地に埋めた麦の
  模像を担っています。

   霊界についても同じです。…ゴルゴダの秘跡が成就さ
  れた時、ナザレのイエスのエーテル体とアストラル体
  何かが生じました。

   イエスの中に住むキリストの力によって、イエスのエ
  ーテル体とアストラル体は何倍にも複写されたのです。

   それ以来、霊界にナザレのイエスのエーテル体とアス
  トラル体の模像
がいくつも存在しました。これらの模像
  が作用を続けます。
  (…中略…)

   ゴルゴダの秘跡が成就された後、その人のカルマによ
  っては、ナザレのイエスのエーテル体かアストラル体の
  模像が織り込まれる
ことがあるのです。
  (…中略…)

   11、12、13、14世紀に、カルマを通して召され、成
  熟した人々に、ナザレのイエスのアストラル体の模像が
  織り込まれました。

   自分の中に、ナザレのイエスのアストラル体の模像を
  担った人物として、例えば、アッシジのフランチェスコ
  テューリンゲンのエリザベート等がいます。

   このことを知らなければ、アッシジのフランチェスコの
  生涯、テューリンゲンのエリザベートの生涯は理解でき
  ません。
  (…中略…) 

   アッシジのフランチェスコの驚くべき謙虚さ、献身、熱
  情は全て、彼のアストラル体の中にナザレのイエスの
  アストラル体の模像が織り込まれていた
ということに由
  来します。

   当時、その他の多くの人々に、このような模像が織り
  込まれていました。このことを知れば、彼等は私達の努
  力の模範となります。」 
   
  (ルドルフ・シュタイナー『輪廻転生とカルマ』pp69-72
  《水声社(西川隆範訳)》より抜粋転載)
 

 第141夜でお話ししたとおり、誕生する直前の魂は自分の周りに、
転生するための《アストラル実質》をかき集めるのですが、その中
に、キリストのアストラル体の《コピー》も多数バラ撒かれたと言う
のです。

 そして、キリストの経験を体現しようとする複数の魂が、自己の
アストラル体の一部にその《コピー》を取り込んで、地上に転生
ることが可能になった、ということです。

 無論、アストラル体が複製されるということについて、この世的な科
学で証明する術はありませんが、逆に3次元の物質ですら可能なこ
とならば、高次のレベルならもっと容易かも知れません。 

 ★ キリストの血と聖杯

 しかし《アストラル体》の複製だけであれば、何も磔刑にされなくて
も、もっと別の方法があったのではとも思われます。その点について、
シュタイナーは、もうひとつの遺産について述べています。
 
 「 しかし、後の時代のために、まだ別のものが残され
  ていました。ナザレのイエスの《自我》の無数の模像
  が保管されて、残されていたのです。
  (…中略…)

   自我の外的、物質的な表現は《血》です。これは
  きな秘密
です。

   しかし、この秘密を知り、ナザレのイエスの《自我》
  の写しが霊界に存在
するという事実を知っている人々
  は常に存在しました。

   ゴルゴダの秘跡以後、何世紀にも渡ってこのことを
  配慮する人々は常に存在しました。

   ナザレのイエスのエーテル体、アストラル体の写し
  を受け取った人々がいたように、イエス・キリストの
  自我を受け取れる人々
がいたのです。
  (…中略…)

   この秘密を守る秘儀参入者達の兄弟団が形成され
  ました。聖杯の兄弟団です。彼等がこの秘密を守護
  しました。この兄弟団は常に存在しました。

   キリスト・イエスが最後の晩餐に使った杯、十字架
  上の救世主の傷口から流れる血を受け取った杯を、
  彼等の祖先が受け取ったと言われています。
   
   その祖先は、自我の表現である血を聖杯の中に集
  めました。彼は救世主の血の入った杯と、キリスト・
  イエスの自我の写しの秘密を、聖地の兄弟団の中に
  保管しました。
  (…中略…)

   人々の心が霊的生活を通して成熟し、この偉大な
  秘儀を理解するまでに高まった今、この秘密を告げ
  てもいいようになったのです。
  (…中略…)

   人々がキリストの自我を受け入れる準備が出来れ
  ば出来る程、キリストの自我は人々の魂の中に注が
  れます。
  (…中略…)

   キリストの自我から霊感を受け、キリストの自我に
  浸透される未来のキリスト者は、さらに別のことを理
  解するでしょう。
  (…中略…)

   キリストは未来の霊化された火の中で、私達に現
  れる
でしょう。《彼は世の終わりまで、いつも私達の
  所にいる》のです。

   そして、ゴルゴダの秘跡を通して開悟した目を持つ
  者に、キリストは霊的な火の中に現れます。

   最初、人々はキリストを違う形姿で見ました。次い
  で、霊的な火の中で、キリストの真の形姿を見ること
  になります。」
   
  (ルドルフ・シュタイナー『輪廻転生とカルマ』pp72-75
  《水声社(西川隆範訳)》より抜粋転載)


 キリストの『聖杯』については、『ダヴィンチ・コード』でクローズ
アップされる以前から、その行方や正体について、数々の推理と
憶測がされて来ましたが、確かなことはわかっていません。

 一説には、イエスの遺体を引き取った『アリマタヤのヨセフ』が聖
杯も受け取り、紀元73年にイングランド南西部のグランストンベリー
に行き、その後ヨセフの子孫によって代々引き継がれたとも言われ
ます。

 『聖杯』自体についても必ずしも『杯』ではないという説もあり、
『知られざるイエスの教えを書いた文書』だという説もあります。

 中でも1982年に出版されたレンヌ=ル=シャートの謎~イエ
スの血脈と聖杯伝説』
では『杯』ではなくイエスとマグダラのマリア
『血脈』だとし『ダヴィンチ・コード』でもこの説を採っています。

 いずれにせよ『聖杯』については、単なる聖なる遺品では無く、イエ
スの意志そのものを伝える
《何物かの気配》を感じ取るような説が、
後世まで伝えられいいます。

 しかしシュタイナーの場合は、これをさらに上回る形で、まさにイエ
ス・キリストの《自我》
そのものが、その血を媒体として伝えられて
いるとするものです。

 昔から《血》については、民族の血とか、武士の血筋と言う言葉と共
に、先人の個性を伝えるものとして、感覚的に意識されてきていま
す。しかし、それは霊的に見れば実体を伴った伝承だということで
す。

 シュタイナーは、それこそが《血》に秘められた秘密であり、我々
が、その《血》に織り込まれた《キリストの自我》を霊的に取り込むこと
によって、高次の視力を持つに至ると述べています。

 ちなみに、そうすることによって《キリストの真の形姿を見る》とし
ていますが、それについては、もう少し後の夜話で述べることになる
と思います。

 それでは、次回第158夜で、そのキリストの自我に込められ
たものについて、もう少し具体的にお話しします。

( 追伸 )

 中曽根君、君の血には《アーリマン》の自我が
入っているのかね。

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トンデモ話は奥で繋がる(156) 24.4.29

トンデモ話は奥で繋がる 「第156夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪キリスト衝動 ⑩≫
 
 ★ ジコチューといふもの

 第3の誘惑の講釈に入る前に、前夜で述べた第2の誘惑につられて、
十分な準備無しにエーテル体と肉体へ沈潜した場合、どんな障害が現
れるのかについてのシュタイナーの説明を見ておきましょう。

 この部分について、小生は、現代のスピリチュアリストについても、
多分にこうした障害を抱えたまま、それに気付かずにスピリチュアル
・リーダーとして振舞っている
例も多いのではと思っています。

 「 準備をする事無く、自分の内面に沈潜してゆくと、…
   まず人間の中にあらゆる種類の利己主義が目覚めて、

  《 自分の中の全ての力、全ての情熱、情動は、
    自分のためにあり霊界などとは関係が無い
    だから、自分の利己的な内的要求に従って行動し、
    
生きがいが実感できればよい 
  
  と思ってしまいます。内面へ沈潜する時には、最高度
  に自己中心的になる危険
があるのです。

   今日でも、霊的能力を開発して自分の内面に沈潜し
  ようとする人は、繰り返して幻想に襲われます。

   そしてその結果、利己主義の中に陥ってしまうので
  すが、当人はそれが利己主義であるとは思っていない
  のです。それが利己主義だなんて、とんでもない、と
  思っています。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 pp181-182 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 この出だしの《利己主義》の独白の部分は、巷で流行のスピリチュ
アル・セッションによくある『自己の思うままに行動しなさい』
という
呼びかけと同じ響きがあります。

 しかし、この『思うまま』というのが曲者です。我々はそれぞれ課題
を持って現世に転生して来ました。その多くは、第139夜でお話しし
たように、前世で持ち越してきた障害を乗り越えることでした。

 我々はこの障害―前世で尻込みをして来た性癖―に対して、そ
れを克服したいと思う心の『思うまま』に行動するべきなのです。
決して『思うまま』に回避しろと言っているのではありません。

 また、138夜でお話ししたように、我々の現世での行動は、霊界か
ら眺めると、全て動物霊達に何かしらの苦しみを与えて成り立って
いたということをまざまざと思い知るのです。

 それ故、第142夜でお話ししたとおり、《喜びや楽しみや満足の
感情を、お前自身のために受け取ること
=利己主義的に振舞うこ
と=は許されない》のでした。

 考えてみれば、この地球上の生命界においては、人間という生物
に生まれたということだけで、既に自己中心的な地位を占めている
と言えます。

 例えば《蟻が生命界のトップとなった世界》を考えて見てください。
我々は《蟻》の許可なしに道路や家を建てることなどできなくなり
ますし、土の上すら自由に歩けなくなります。

 現に、インドのジャイナ教徒等は、厳密な不殺生の戒律を持ち、蟻
等の小動物を極力殺してしまわないよう、それに近い生活をしていま
す。 

 実際、ここまでの《非ジコチュー》を求められたなら、小生は勿論、
大多数の人間はギブアップしてしまうでしょう。でもご安心ください?
これはあくまで他の誘惑をクリアした人間に限られるのですから…。

 逆に、通常のレベルで現世に暮らしている人間は、この境地に入り
込む以前に『思うままにならない』現状
に囲まれてしまいますので、
、幸いなことに?その危険とは無縁でいられるのです。

 つまり、ある程度の修行を積んで、そこそこに悟りを得たと思い込
んでいる人間こそ、最も《ジコチュー》に晒される危険
を背負って
いるということです。

 ★ 高次の世界への壁

 それでは、シュタイナーの話を先に進めましょう

 「 高次の世界への道は、私達の時代においてさえ、
  己克服を必要とする道
なのです。
  
   高次の世界への道を辿ろうとするにも関わらず、自
  己克服を望まず、そもそも何がその道に導いてくれて
  いるのかを知ろうともしない人
は、現代でもよく見ら
  れます。

   人間本性の陰の部分を認めたがらず、さまざまな
  己主義の現れを無視して、高次の世界へ参入しようと
  する
のです。

   最も大きな、最も手に負えない利己主義は、当然生
  じる事柄に満足しないことです。そういう人は、自分
  の利己主義の暴力を抑えようとしません。

   誰でも利己主義に陥る、と何百回繰り返し説明して
  も、そのことを真剣に受け止めようとしません。

   そういう人は、自分についてひどい幻想、錯覚に陥
  っている
のです。更に付け加えるなら、現代人は、そ
  の上、あまりにも安易に流れています。

   日常生活では許される安易さを、高次の世界への道
  の途中でも失いたくない
と思っているのです。
 
   しかし、いつもの生活の中では好ましいこの安易さ
  も、霊界への途上では、決してあってはならないもの
  なのです。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 p182 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 なんとシュタイナーは、第一次大戦よりも前の時代(1910年)に、
に『高次への道』≒『アセンションへの道』への心構え
を説いていた
のです!

 それは決して『自力のみ』で成し遂げられるものでは無く、『その
道に導いてくれる存在』
があり、自己優先の心を完全に克服してい
なければならない、とシュタイナーは戒めています。

 さらに、高次への道については、決して「安易に」達せられるもので
はない
としています。つまり《利己主義を脱したつもり》になっただけ
では、
第3の誘惑は克服できないのです。

 ★ ジコチューで無い自我感情

 ただしそれは、動物のように、全く自我感情を持たないこととは違う
のです。つまり『自我』を持っていながら、かつ《自己のためにするの
ではない》という意識
を持たねばなりません。

 第149夜でお話ししたように、古代の秘儀参入においては、一種の
睡眠状態のような、自我を抑制した状態でエーテル体と肉体の内面に
降りてゆく体験をしました。

 しかし、ここでキリストが示そうとしたのは、自我を保ったまま、自分
の内面に沈潜してゆく体験であるとして、シュタイナーは次のように述べ
ています。

 「 動物が人間のように自分の内面を見たとしたら、そ
  こに個別な自我では無く、集合的自我、《類》の自我
  を見出したでしょうし、自分を群れ全体に属している
  と感じたでしょう。
  (…中略…)

   人を外界から切り離そうとする利己主義は、常に
  我感情
と結びついています。利己主義によって情熱
  や情緒を一定の強さまで持っていなかったら、自我
  感情は抑圧されたままだったでしょう。

   ですから、古代の秘儀において、霊界へ参入する
  時には、夢意識の中の自我感情ほどにまで曖昧に
  なるのでは無いにしても、自我感情を大幅に抑制す
  る必要
があったのです。

   けれども、時代が経つに連れて、目覚めてから眠
  るまでの覚醒意識が担っている自我を、十分に保っ
  たまま、霊界に参入
しようと努めなければならなくな
  りました。
 (…中略…)

   人類意識の進化のためには、ゆっくりではあって
  も、高次の世界に参入する人の自我感情を、高度に
  保ち続けることが必要
となったのです。
 (…中略…)

   日常のごく身近な場合でも、睡眠時、霊界にいる時
  は、自我感情が働いていません

   現代人の場合にも、キリストが地上で働いていた当
  時の人の場合にも、同様です。

   現在の地球紀の人間の場合、自我が別の世界に目
  覚めることは、通常の状態ではありえません


   ところが、キリストの霊界参入では、自我が外界に
  おいて目覚めているように、高次の世界においても目
  覚め続けるべき
なのです。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 pp183-185 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)

    
 まさにこの初めての体験こそ、キリストが、人類意識の進化の究極
の目標
として、我々と同じ人間の肉体をまとった状態で、示そうとした
ことなのだと、シュタイナーは述べているのです。

 ★ 第3の誘惑

 一般に第3の誘惑とは、悪魔がイエスを非常に高い山に連れて行き、
この世の全ての国々とその栄華を見せ、『もしあなたが、ひれ伏して
私を拝むなら、この全てをあげよう』と言ったことを指しています。

 つまり、悪魔と契約すればこの世の富・権力・栄華が手に入り、
の世の王
になれますよ…という、巷でよく聞くキャッチセールスまがい
の取引をしてきたわけです。

 シュタイナーはこれを、前の二つの誘惑を超えた後の、エーテル体と
肉体へ沈潜行時の誘惑
としているわけですが、それでは、前述のポイ
ントをおさえた上で、読んでみてください。

 「 次に肉体の下降に際しての第3の誘惑が現れます。

   それは秘儀参入に際して、エーテル体と肉体への沈
  潜の段階に達したなら誰でも受けなければならない誘
  惑なのですが、

   その時、いわば自分を内から見るのです
   しかし、初めは、自分自身の幻想世界が現れます

   肉体の莢を突き抜けて、霊的な存在達にまで高まる
  ので無ければ、内的な真実をまだ見ていないのです。

   霊的な存在達自身は、もはや肉体の中にはおらず、
  ただ肉体に働きかけているだけです。

   私達が自我性から離れていなかったら、誘惑者であ
  るルツィフェル、ディアボロスは、私達に自己幻想を抱
  かせ続けるでしょう。

   そして私達自身のマーヤー(幻影)の産物に過ぎな
  いものを全て与えると約束するでしょう。

   この自我性の霊が私達を解放してくれない限り、私
  達は錯覚と虚偽の世界を、世界の全てだと思い続け
  ます。この霊は、私達にこの世界を約束します。

   しかし、それを真実の世界だと思ってはなりません
  初めに私達はこの世界に来たのですが、そこから再
  び出ていかなければ
、私達はマーヤーの中に留まり
  続けるのです。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
 pp202-203 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)
 

 ちなみに、自分を《内から見る》と言うのは、第134夜でお話しした
通り、死後において、今まで自分が属していた世界が、実は自分が心
の中で描いていた幻想の姿
であると自覚して、自ら眺めることを意
味していると思われます。

 つまり、まさに死後の霊界の世界を、生きた肉体のまま体験する
という秘儀を達成することを意味します。しかし、それを体験する前の
段階では、まず、自我に縛られた自分自身の幻想世界が現れてくる
のです。

 この体験は、死後の世界でよく言われる《自縛霊》の彷徨いのような
状態
でしょう。現世で自我の欲していたものが、その欲するままに、
限なく現れてくる
のだと思います。

 そして、ここで自我感情から離れられなければ、そのまま自らの幻想
の世界に囚われたまま
となるのです。

 以上が、福音書に述べられた《荒野の試練》の真の内容であると、シ
ュタイナーは言います。

 つまり、これらの3つの試練を乗り越えることで、キリストは、我々が死
後の霊界で体験することを、人間の肉体を持ったまま、我々に先駆
けて体験し、克服して見せた
ということなのです。

 それでは、キリストのこの行為が、我々に何をもたらすことになる
のかを、次回第157夜以降でお話しします。

( 追伸 )

 中曽根君、君が《自我感情》から抜け出るのは
相当な困難がありそうだね。


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トンデモ話は奥で繋がる(155) 24.4.21

トンデモ話は奥で繋がる 「第155夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪キリスト衝動 ⑨≫
 
 ★ 神を試すなかれ

 次にイエスは、聖なる都に連れてゆかれ、その宮の頂上に立たされてこう
試されます。

 『 もしお前が神の子であるなら、ここから飛び降りて見よ。
   その時神は、石に打ちつけられる前に、
   使いの手を持って支えるだろう』  
と。

 一般的な解釈では、悪魔はイエスに対し、

 《 自身が神の子であり、磔刑から復活する証のために、
   ここで神の加護の有無を試してはどうか》
 
と誘惑し、

 イエスは、そのようなことで《神の加護》を試してはならないと言った
ことを示していると言われます。

 しかし、シュタイナーはこの場面について、全く違った解釈を述べます。

 「 アストラル体の中に沈潜して、実際に不条理な利己主義者
  
としての情念、情熱の前に立たされた人は、

   それを克服することも、それから身を護ることも無く、エーテ
  ル体と肉体の中に落ち込みたくなる
ので、実際それは《奈落
  への転落》
とも言うべき状態です。
  (…中略…)
   
   それは、その時まではあまり損なうことの無かったエーテル
  体と肉体への転落の物語なのです。けれども、情熱や情念を
  を克服する以前に、この誘惑にさらられてはなりません


   キリストはそのことをよく知っており、自分の前に立ちはだか
  るものを克服して、こう言い返します。
   《お前自身の神を、試みるつもりなのか》。」
   
 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p202  
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 正直に言って、小生はこの《第2の誘惑》の場面の解釈については、正
しく理解しているかどうか自信がありません。特に最後の言葉については、
いろいろな解釈が出来るような気がします。

 まず、この部分について、巻末の高橋氏の解説を見てみると、次のよう
に書かれています。

 「 第8講(この講演がされた1910年9月8日)はミクロコスモス
  への道の途中で出会う3つの誘惑について語っている。

   地上の物質界に依存しないで生きたいという修行僧の願いは、
  石をパンに変えたいという願いにすぐ転化される。

   そのことに気付かない人は、好んで奈落に落下して、最後には
  この世の栄光の中に包まれて生きたいと思うようになる。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p422
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 つまり、前夜でお話しした第1の誘惑―この世の環境から独立して生
きたいという願望》
を克服しないまま、マクロコスモスへの中へ入って
ゆくことを、キリストにけしかけている場面ということです。
 
 第150夜にも述べた通り、不用意に自分の内面に沈潜すると、自分の自
我の中に全く組み込まれ、自分の中の悪しき願望、欲望の赴くままとな
ってしまうのでした。これはその転落への誘惑を示すものだと言うのです。

 ここまでは《高い場所から飛び降りさせる》という比喩と合致しており、
問題はなさそうです。

 しかし、キリストの言葉である《お前自身の神を試す》とは、何を示してい
るのでしょうか。

 ★ 3つの解釈

 まず《お前自身の神》について考えた上で、それを《試す》とは何かを考
えて見ましょう。

 ひとつには、第153夜でも述べた通り、子であるキリストと神は同一
のだと考えると、神は、誘惑している《悪魔》さえ創りだした、全ての創造
であり、まさに《お前自身の神》でもあると言えます。

 そして、その悪魔に向かって、

 《 お前自身を創り出した神である、この自分を試すなどという行為
  は、無駄であり、不遜な態度だ》

と言っているという解釈ができます。

 この考え方もあるとは思いますが、ちょっとキリストの権威的態度を感じ
てしまいます。さらに、これが《自分が神である》というダメ押し的言葉なら、
さらに次の誘惑が続くのも不自然な感じもします。
…………………………………………………………………………………

 次に、《三位一体》とは言え、《肉体》をまとった以上キリストも生身の
と同じ境遇にあると考えると、この場面のキリストは《神》とは切り離
された《自我》を持っている
と考えることも出来ます。

 つまりこの《お前自身の神》とは、生身のキリストを含めた我々全てに
とっての神
であり、まさにキリストは、我々の代表としてこの体験を受け、
そこから学ぶべきことを、我々対する戒めの言葉として残したと言えます。

 そうなると《お前自身の神を試す》とは、

 《 最後には神が救ってくれるのだという思いを持って、利己主義の
  情念を抱えたままで、《自我》を欲望に任せるままにする 》

ことを指すものと思われます。このことは、

 《 キリストの本性は、我々の手本を示すすために、
   あえて人間と同じ肉体に降り立ち、
   我々が新しい見霊意識を獲得するための道を創った 》

というシュタイナーの講釈にも合致していることになります。

 話の筋としては、これでよいのですが、あえて《お前自身》と言っているこ
との解釈が、スンナリとは理解できません。悪魔との会話からいきなり人
間への訓戒
をしたとするのは、ひねり過ぎているように思えるのです。

 ★ 3つ目の解釈 

 そこで、小生は敢えてもう一つ突っ込んだ解釈をしたいと思います。同じく
第153夜で述べたとおり、キリストの本性とは《太陽の本性=アフラ・
マズダ》
であるということを考えてみましょう。

 第126夜で述べたとおり、ミトラ神話ではアフラ・マズダアーリマン
(サタン)
とともに、至高であり永遠時間であるズルワンが、『ミトラ』と『生命
の母』に創造させた使でした。

 この神話は、ほぼ同じ形で神智学のベースにもなっています。シュタイ
ナーは、基本的には神智学の説く歴史観については肯定的ですので、こ
の部分についても肯定しているものと思います。

 とすれば、ここでアフラ・マズダであるキリスト《お前自身の神》と呼
んでいる存在は、誘惑者であるアーリマンにとっても創造主である、ズル
ワン
のことではないかと思うのです。

 つまり、ここでは使であるアフラ・マズダアーリマンが、
自分達の神であるズルワン至高の意思に対する態度をめぐって、対
峙していると考えてはどうかと思うのです。

 そのように考えれば、2対の存在がほぼ対等の問答をしている理由も、
誘惑者を前にして《お前自身の神》と呼んでいる点も、使
ズルワンと の関係からスンナリと納得がゆきます。

 また《試す》という言葉の内容も、単に2人の熾天使の存在の対立点で
ある、
 
 《 ズルワンの意思に従って、自我の利己主義を克服するまで
  エーテル体と肉体に沈潜しない事を選ぶかどうかを疑う 》

ということを指していると考えればスンナリ納得できます。

 つまり悪魔は、ここでイエス

 《 利己主義の情念を抱えたままで、
   肉体とエーテル体の奥深く落ち込んでゆけば、
   他の人間同様に、自我の欲望の中に沈んでしまい、
   それを神も助けないこと 》

を承知の上で誘惑していると解釈してはどうでしょうか。

 従って、ここでイエスは

 《 ズルワンの戒めを疑って、
   このまま落ちて行きた誘惑に負けてはいけない 》

という意味で《神を試すなかれ》と言ったのだと小生は思います。
…………………………………………………………………………………

 蛇足ながら、このように考えると、小生は、冒頭に示した一般的な解
釈には、少々疑問
を感じてしまいます。

 悪魔が《神の加護を試してみよ》と言ったことについては間違いない
のですが、それにすんなり続けて書いてしまうと、イエスも同じように
《神の加護を試すなかれ》
と言ったように解釈
されてしまいます。

 この解釈の方が正しい可能性も否定できませんが、それではこの重
要なシーンに対して、何となく子供の喧嘩のような《俗っぽい幼稚さ》を
感じてしまうのです。

 そうではなく、キリストは、神がこうすべきだとした言葉を《疑って試す
なかれ》
と言ったのだした方が、キリストの神への信頼感がずっと重く
なるような気がするのですが、いかがでしょうか。

 さて、第3の誘惑については次回第156夜でお話しします。
( 追伸 )

 中曽根君、悪魔が君には
《放射能を日本へ持ち込んでみよ》
と囁いたのかね。


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トンデモ話は奥で繋がる(154) 24.4.15

トンデモ話は奥で繋がる 「第154夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪キリスト衝動 ⑧≫
 
 ★ 荒野の試練

 さて、至高の人間存在に降臨したキリストですが、我々と同じ環境に置かれたた
め、ミクロ・マクロの両コスモスへの自在性を発揮するや否や、たちまち悪しき霊
性からの第一の誘惑が始まります。

 それを示すシュタイナーの導入部の言葉は、そのまま、現在の私達がスピリチュ
アリズム
に傾倒してゆく時に、陥りやすい落とし穴に通ずるものとなっていますの
で、少々長くなりますが、ここに引用しておきます。

 「 キリストは、人間がアストラル体、エーテル体に沈潜してゆく時に
  出会う全ての誘惑
に打ち克ったのです。このことがはっきりと
(福音
  書に)
記されているのです。
 
   その際、全ての利己主義的な傾向が記されていますから、私達
  はいたる所で利己主義の究極のあり方に注意を促されるのです。

   現在の私達が霊的に進歩しようと努力する時に必ず生ずる障害
  は、自分の内面に沈潜することによって《自己愛に耽る》という悪癖
  
です。

   実際―他の誰よりも―まさに霊界へ参入しようと願う人に当ては
  まるのは、自分の人格について語る事を何よりも好み、自分の人格
  を何よりも愛し


   どんな時にも《この愛すべき人格》に眼を向け、その全てを仔細に
  観察しようとすることなのです。

   通常の人ならば、迷わずに目標に向かって生きていくのに、霊的
  な修行を始めると、進歩に向かって努めるだけでは済まなくなりま
  す。

   神智学徒であろうとするだけでも、自分の自我の事ばかり考え始
  めます
。そしてどんな時にも幻想に耽るのです。日常生活において
  は、人生の厳しさが、そんな所に留まらせはしないのですけれども。

   どうしてそうなってしまうのでしょうか。

   何故なら、自分自身の内部から立ち現れてくる衝動に自分の本性
  が衝き動かされる時、どうしたらよいか分らなくなるからです。

   どうしたらよいか分らなくなる程に、自分自身のことがちっとも分っ
  ていない
のです。以前であれば、注意深く生きていたので、外界で
  の経験が、容易に自分を取り戻させてくれました。

   今はもっと不注意になり、もっと自分の中に沈潜しますから、自分
  の中の諸々の感情が表面に現れて来る
のです。
   どうしてなのでしょうか。

   ひたすら《自我》でありたいと願い、外界から全く独立していたいと
  願う
からなのです。…妨害が最高度に大きくなるのは、何にも依存し
  たくないと思う自分の自我性に没頭
する時なのです。

   けれども私達は、自分の自我性に従おうとする時も―全くだらしの
  無い話なのですが―身体が環境から離れられずにいます。誰でも
  物を食べなければ、生きていけないからです。
  (…中略…)

   ですから自我の要求が最高度に高まりますと、次のような願いに
  変化するのです。

   《 環境から独立できたらいいのに。
     今、私を環境に依存させている必要不可欠なものを、
     自分自身の魔力で産み出すことが出来たらいいのに 》
  (…中略…)

   人は誰でもこういう願いを、目立たぬ位に僅かながら、持ってい
  るのに、そのことに気付いていない
のです。

   もちろん、人は外的な習慣に囚われていますから、誰も(このよ
  うな幻想に)耽ったりはしないでしょう。

   しかし人によっては、次のようなことを信じているかも知れませ
  ん。

  
 《 いつか私のアストラル体と自我が、
     思う通りに生きられる所まで達したなら、
     もはや環境世界を必要としなくなるであろう。 》

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp199-201  
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)
 

 ★ スピリチュアリズムの自己愛    

 自分自身を環境に依存させているもの―食べ物を、自分自身の魔力で生み
出せる力を得たい
、この誘惑こそ、かの有名な《石をパンに変えてみよ》という
キリストへの第一の誘惑の意味だと、シュタイナーは述べています。

 小生は、ここに書かれた自我への自己愛こそ、一部巷で囁かれる、

  《 アセンションによってこの現世の制約から逃れることができ、
    何物にも縛られない自我が手に入れられる 》

 という謳い文句そのもののような気がします。小生は―極端な一方に偏らない
信条から―
これを真っ向から否定するつもりもありませんが、もし仮にそうなったと
したら、その方達は、この地上で何を目的に生きるのでしょうか

 第八十夜以降でお話しした通り、レムリア人アトランティス人は、それに近
い形で地上での生活を始めました。確かに当初、それは理想に近いものでしたが、
彼等はメリハリのないその生活に、やがて倦怠感をいだいてゆくのです。

 考えてみてください。仮に我々一人ひとりの思っていることが、以心伝心で全
ての人に伝わる世界
に変わったとしても、もし、我々に肉体が存在せず、従っ
てそれを媒体とした、あらゆる喜びも悲しみも伝えられないとしたらどうでし
ょう。

 恐らく、我々の全員が、一斉に《正しい思考》に従って、《喜びの波動》に浸
ことだけになります。それそのものは正しいことなのでしょうが、それだけで永
遠の時間を過
ごすことが、我々に出来るのでしょうか。 

 結局、彼等の倦怠感の行き着いた所は、理想とはかけ離れた、黒魔術を用い
支配欲の渦巻く世界でした。そして、現世のこの《肉体》を持った世界は、そ
反省を基に創られたものだと「ツォルキン」は言っています。

 我々は、一人ひとり違った肉体を持つことで、それぞれの人生を体験すること
ができます。そして《肉体》の様々な制約と苦しみを乗り超えながら生きてゆく
ことを強いられます。

 我々は、肉体という制約があるからこそ、それを維持できなくなった時の苦し
を知り、反対に有り難味も知ります。同時に、そうでない人の悲しみも理解し、
他の人が肉体を維持するために協力する感情が生まれます。

 仮に、生まれつき、現世で何の制約もなく生きていけるようになったとしたら
これらの感情を理解することも出来なくなり、それは逆の意味での制約になっ
てしまうのではないでしょうか。

 無論、全ての人が、その人の本当の辛さや痛みを感じるわけではないでし
ょう。逆に、無理解のまま一方的に傷つける人達も存在します。

 しかし、それ故、たとえ一握りの人達でも、それを限りなく近い形で理解してく
れる人達に出会うこと
が、限りなく価値あることになるのです。そしてそれは、
同じ肉体を持っているからこそ出来ることなのです。 

 従って、イエスは《人は、パンのみに生きるにあらず》と言いました。無論、誘
惑を跳ねのける言葉ですが、さりとて《パンのために生きる》ことを無価値だと
言っているわけでは無い
のです。 

 さて、続きは次回第155夜でお話しします。

( 追伸 )

   中曽根君、君は《放射能をパンに変えてみよ》
と言う魔物だったね。

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トンデモ話は奥で繋がる(153) 24.4.8

トンデモ話は奥で繋がる 「第153夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪キリスト衝動 ⑦≫
 
 ★ もし星が神ならば

縮もし星が  まず、一冊のSF小説の話から始めようと思います。この『もし星
が神ならば』
は、小生が若かりし頃、第128夜でお話しした『幼年
期の終わり』
に端を発したSF小説のマイブームのさ中に読んだ本
のひとつです。

 ちょうどその頃は『ソラリスの陽のもとに』スタニスワフ・レム
の一連の作品に見られるテーマ~宇宙には、地球上の生物の型に
囚われることなく、無機質的な金属や惑星そのものに意思が存在す
る可能性だってあるのだ
~的な小説にはまっていた頃でした。

 そしてその頃の小生にとっては、このSFはまさにキャッチーなタイトルだったと言えま
す。ただし、6部構成となっている前356頁のうち、本タイトルのエッセンスを示すのは
第2部の76頁のみで、それ以降は主人公レナルズの、第2部の体験後の宇宙探検話
が主体となっています。

(ちなみに当該作品は、1974年に『第2部/月』の部分が、G・ベンフォードG・エク
ランド
との共作により、独立した中篇として発表されたもので、同年のネビュラ賞を受賞
しており、その後他の部分を追加して本作品となったものです。)
 
 従って、当時の小生が期待したような《未知との遭遇》的要素はほとんど無く、大き
な印象を残す事無く、いつしか忘れ去ってしまった類のSF小説でした。しかし、今こうし
キリスト衝動について書き進めてゆく中で、俄然違った輝きを放ちつつあります。

 ★ 太陽の慈悲深さ 

 最初に、こんなSF小説など聞いたことも無い方がほんんどでしょうから、第2部の簡
単なあらすじをお話ししておきます。

 2017年に、突如として月に降り立った巨大な恒星間宇宙船上の異星人は《太陽に
ついての情報が知りたい》
とのメッセージを発し、天文学者であり、火星探索でも勇
名をはせたレナルズは、引き換えに宇宙旅行のテクノロジーを得る任務を負って月へ
向かいます。

 一見キリンに似た外観を持つ異星人ジョナサンは、レナルズに《我々の主星と違っ
て、同じ兄弟星である太陽系の主星―太陽は非常に力強く、慈悲深い。我々が直
接太陽と話す前に、 あなた方地球人が、太陽とどんな関係を築いているのかかを
知りたい》と言います。

 ジョナサンの話では、彼等の惑星は、主星を巡る極端な楕円軌道上にあり、またし
ばしば地軸の傾きさえ変えるため、種族全体で頻繁な大移動を余儀なくされる苛酷
な環境にあり、恒久的な技術はほとんど所有していないといいます。

 また、彼等の乗ってきた宇宙船は、かつて別の生命体の訪問を受け、贈ってもらっ
たものであり、ただ自分達の叡智を高める目的のためだけに使用している。無論、彼
等自身にはそのメカニズムがわからないため、それを伝授することもできないと言い
ます。

 そして、彼等の主星の性格について、ジョナサンはこのように述べます。

 「 最も強烈な交感がある時期には、彼―彼女?―はその叡智を過つこ
  とがありません


   時には―あなた方の主星と違って―怒りを発することもあります。
   しかし、それは滅多に無い事です。
   あったとしても、ほんの僅かの間しか続きません。

   その怒りの時期に、彼は、2度に渡って私達の文明の絶滅を予告
  
しましたが、その予言を実行に移すようなことは一度もありませんで
  した。彼には、怒り以上に思いやりが、暴力以上に優しさがあるのだ
  と思います。

   我々を、真実、心から愛していてくださる、私はそう信じます。宇宙
  に数ある星の中では、大した位置を占めている訳では無いでしょうが、
  故郷の星である以上、私達は彼に仕えなければならないのです。

   もちろん、現にそうしているのですが。」

  (『もし星が神ならば』pp65-66《ハヤカワ文庫(宮脇孝雄訳)》より抜粋転載)  

 レナルズは、当初、ジョナサンの質問に当惑します。太陽について現に人類の知
っている事といえば、無機質な天文学的知識のみでした。無論、地上の科学者や政治
家にこれらの話が真面目に受け取られる筈もなく、かれは次第に孤立します。

 しかし、レナルズ自身は次第に彼等の真摯な思いに共感を覚えるようになり、彼自身
《太陽と話がしたい》と思い始めます。そして何度かの訪問の時、ジョナサンとは
の異星人
を紹介をされます。彼は既に太陽と話をしており、彼の手助けができるとい
います。

 2人きりの空間で、その異星人はを歌い始め、その響きと音階は他の全ての知
覚を締め出し
てゆき、遠い深みへと旅立たせます。レナルズも、気がつかぬ間に
に歌い
、やがて2つの歌声が溶け合う頃、彼は《太陽》を感じます

 強く、偉大で賢い、熱とエネルギーの球体としての神との邂逅に、本能的な恐怖を
感じたレナルズは、地球のある場所を探しますが、その異星人に引き戻され、やがて
陽に隠された、不可侵の闇
に行き当たります。


 「 果たしてこれは邪悪なものだろうか? 思考には意味が無かった。
  何も考えることなく、その代わり、知覚し、感じることで、彼はこの存
  在―ひとつの恒星―太陽―の全体性を体験し、それが邪悪でない
  とを悟った。

   ぽっかり口を開けた虚無を、隅から隅まで、まるごと感じ取った。
    寒さ以上の寒さ、憎悪より恐ろしく恐怖よりも惨めで、悪よりもよ
   こしまなもの。

   その広大な内部の、無であり、全てでもある全体。もうたくさんだ!」

  (『もし星が神ならば』p107《ハヤカワ文庫(宮脇孝雄訳)》より抜粋転載)

 気がつくと、レナルズは宇宙船の床に横たわっており、やがて現れたジョナサン
彼にこう語ります。

 「 (これで)私達の探求の目的もおわかりでしょう。何世紀もの間、我
  々の主星は優しく親切でした。それが、今では―あなた方の星のよう
  に
変わってしまったのです。(それで新しい故郷を探しているのです。)
 (…中略…)

   結局、どこへ行っても同じことです。私達は9つの恒星を見て、その
  全てを訪ねてみました。いずれも役に立ちません。
 (…中略…)
  
   私達は、今度こそ成功したと思っていました。あなたに会った時、そう
  思ったのです。あなたは、この主星とはちっとも似ていなかったもので
  すから。

   あなたや、あなたの種族を生み出せるのなら、きっと慈悲があるはず
  だと感じたのです。ところが、その慈悲は、もう無くなっていました
   私達が行き当たったのは暗黒だけです。

   さらに深い核まで到達しようと、我々は努力しました。そして、失敗した
  のです。」   

  (『もし星が神ならば』pp108-109《ハヤカワ文庫(宮脇孝雄訳)》より抜粋転載)

 この《慈悲を失った太陽》の虚無を知る、レナルズや異星人の悲しみのシーンが
第2部のクライマックスとなっています。この後、地上の科学者や政治家の思惑をよ
そに、ジョナサンらは次の目標に向けて旅立っていきます。

 ★ どちらが患者なのか 

 さて、この小説が書かれた1970年代当初と言えば、第七十二夜でお話ししたよう
に、プレアデスとのコンタクトは始まったばかりですし、ドランヴァロがトトからの
初めての交信を受け始めた
のも、ようやく1971年になってからの事です。

 つまり、アセンションに関しての情報はもちろん、スピリチュアリズムという言葉さ
え、まだマイナーの域にも達していません。そんな中で、《太陽の兄弟星》、《地軸
の変動》、
ひいては《恒星の波動》等々、まるでその方面のインスピレーションを受
けたかのような小説になっています。

 そして、最大のテーマが《太陽の慈悲》です。正直言って、この頃の小生は《惑星
ソラリス》
の類のように、《そのような性質を持った恒星があってもよい》とは思っ
ていましたが、我々の《太陽》がその類であるなどとは考えもせぬまま、本を閉じ
てしまいました。

 しかし、第四十七夜でお話ししたように、《精神分裂病》と診断される患者の中には、
現に太陽を生命あるものと感じる人もおり、ユングはそれを、人類が共通に持つ
原始的な心象
の表れかも知れないとし、「元型」と名づけたのです。

 むしろ逆に、そのような「元型」が見える患者こそ、我々の古来の力を持って、太陽
の《本性》
を見出しているのかも知れません。その意味では、それが見えない我々
そが、知覚器官に損傷を負った患者なのかも知れないのです。

 ★ 三位一体とは 

 第138夜でお話ししたように、シュタイナーによれば、動物や植物のみならず、鉱物
にも神界に《自我》が存在します
。ならば、エネルギー体である《太陽》自身にも《意
思》 があってもおかしくはありません。

 さらにそれらの《自我》は、我々とは違って《集合的な自我》であり、それぞれの個
体で同じ《意思》を共有
することになります。つまり、同じ《意思》を持った個体を分
させることができるはずです。

 ところで、以前、第五夜でお話ししたように、キリスト教の最大の教義にして、その解
釈により諸派が分裂してしまった程の謎のひとつが《三位一体》の教義です。
 簡単に言えば、

 『父なる、子なるイエス・キリスト聖霊の三者は、等質で不可分』

 ということで、この三つは別の存在ではあるが、同じ「実体」を持つということで、う
「聖霊」とは「復活」後に使徒たちの前に現れた「実体」のことを言います。

(ちなみにウィキペディアによれば、もともと《三位一体》とは教父のテルトゥリアヌスに
よる造語で、『ヨハネによる福音書』の以下の一説の解釈を示すものとされています。

 「 神であるが神であることば(=)を遣わし、見えざる父を子が顕わし、
  子は天の父のもとへ帰るが、父のもとから子の名によって「助け主」なる
  霊
を遣わす」)

 しかしここで、前夜でゾロアスターが弟子達に示した言葉―《太陽》の本性は《アフ
ラ・マズダ=キリスト》
を文字通り捉えれば、この難解な《三位一体》の本当の意味が
現れては来ないでしょうか。以下、小生なりの解釈を述べてみます。

 《神である父》とは我々の太陽の本性であり、天界にある集合的な自我です。
 《聖霊》は時に応じて太陽から分化して、地上に降り立つ自我です。
 《》はその自我が受肉し、目に見える肉体にある時の姿です。


 まさにこれらは別々のものを表してはいますが、同じ《集合的な自我》から生じた
もの
であり、同一のものです。
 《三位一体》の意味だけを考えるのであれば、ここまでで『ヨハネによる福音書』の
件は《証明終わり》
とすべきです。

 キリスト教が問題としたのは、この存在が《神》なのかどうかで、その解釈をめぐっ
てアリウス派とアナスタシウス派が分裂したわけですが、小生の考えからすると、こん
なことは全く不毛の議論のように思えるのです。

 まず、《三位一体》の主体が《太陽の本性=アフラ・マズダ》である以上は、唯一
の至高存在と思われる《神》とは別の存在
ではあります。

 ただし、第140夜でお話ししたように、全ての存在はアフラ・マズダも含め、至高存
が自らを知るために、そして恐らく自らの孤独感から逃れるために、自身を分化
せて創り上げたものなのだと小生は思っています。

 つまりアフラ・マズダ唯一絶対神そのものではないがそれが分化したもの
ということです。それがもとの《神》と等しいかどうかなど、《西の空》は《東の空》と
同じか否か
といっているようなものだと小生は思います。
 ……………………………………………………………………………………………

 ちなみに、『もし星が神ならば』の第2部の終わりの会話の部分で、ジョナサンは、
レ ナルズの考えていることを察知して話します。不思議に思っている彼に対して、
ョナサン
は次のように答えます。

 「 星の話に耳を傾けるのです。星は生きており、私達にはその本来の姿
  
を見ることが許されています。あなた方は違います。あなた方はまだ若い。

   あなた方の元を訪れる時、星はあなた方にも見えるような仮の姿を取り
  ます。 そういう風にして、この宇宙での時を過ごすのです。星の姿は戸口
  のような物
だと思ってください。」

   (『もし星が神ならば』p127《ハヤカワ文庫(宮脇孝雄訳)》より抜粋転載)

 そして、レナルズを含め一般の地球人は、その《戸口》を通れないのだと言います。
作者が何を意図して《戸口》としたのかは不明ですが、その前の部分については《太陽
が我々を訪れた時、キリストの姿を取ったのだ》
と読めないこともありません。

 ウィキペディアによれば、作者の一人であるG・ベンフォードは《無神論者》だとして
あります。この台詞の発案者がG・ベンフォードなのか、G・エクランドなのかがわからな
いので何とも言えませんが、少なくとも2人の納得の上の言葉でしょう。

 とすれば作者のうち、少なくとも一人は、既存の《神》の捉え方に不満足ではあるけれ
ど、何かしら超越的な意思の存在は認めているのではないか、場合によっては、
シュタイナーの説に共感していた可能性さえ感じてしまいます。

 さてしかし、我々の体はキリストにとっても、誘惑を受けないわけではありませんでした。
 次回第154夜は、その辺りの話から始めます。
 
( 追伸 )

 中曽根君、君に関しては《神》と違うかも?
と思ってしまうのだが…。

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トンデモ話は奥で繋がる(152) 24.4.1

トンデモ話は奥で繋がる 「第152夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪キリスト衝動 ⑥≫
 
 ★ ナタン系イエス

 『ルカによる福音書』の示す、ゾロアスターのアストラル体を受け継いできた
ナタン系イエスについて、シュタイナーは、まずこのように記しています。

 「 ナタン系イエスは、豊かな内面生活を育てていきます。少し不器
  用で、外的な智慧や知識を身につけることは下手でしたが、心情は
  限りなく純粋な内面性と愛情の力を持っていました。

   人がまだ地上に受肉せず、まだ神的な生き方をしていた時代から
  流れてくる力が、そのままこのイエスのエーテル体の中に生きてい
  たのです。神的な生き方が、無制限の愛の力となって生きていまし
  た。
  (…中略…)

   人が外的生活を通して身につける内面性を、この少年は初めから
  身につけており、誕生直後から人々に理解できる言葉を語ったので
  す。

   人類の諸世代が、地上で身につけなければならない外的適応力
  について言えば、全く不器用
でしたが、内面性に関しては、限りなく
  偉大
だったのです。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p152  
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 つまりナタン系イエスは、最初からゾロアスターの完成したアストラル体
受け継いでいましたから、第146夜でお話ししたように、本来は第三・7年期か
ら育ってくる、客観的な判断能力を持っていたということです。

 その代わり、地上生活については、古代アトランティス的な能力に近いもの
であったため、現世にたいする適用力については、むしろ劣っているように
周りの人々には感じられたということでしょう。

 ★ 2人がひとりに

 こうして同時代に、別々のゾロアスターの体を受け継いだ2人のイエスがこの
世に生を受けました。そしてさらに、この2人のイエスの間に、トンデモない事が
起こります。 シュタイナーの言葉を続けましょう。

 「 かくして、実にすばらしい出来事が生じるのですが、このことを理解
  しなければ、イエス・キリストの偉大な秘儀を把握することは出来ない
  のです。

   ゾロアスターの個性は、『マタイによる福音書』のイエスの肉体とエ
  ーテル体の中で、12歳までの時を過ごしました。

   実際、この個性の場合、風土のせいもあって、現在の私達の14、5
  歳に相当する時期がやや早く生じます。

   12歳までに、ソロモン系の肉体とエーテル体を用いて成し遂げるべ
  きも のは、全て成し遂げられ、

   そして12歳の時、ゾロアスターの個性は『マタイによる福音書』に述
  べられている肉体とエーテル体から離れ去って、『ルカによる福音書』
  のイエスに移った
のです。
  (…中略…)

   ルカが述べている、神殿での12歳のイエスの物語は、次の事を意
  味しています。

   『ルカによる福音書』の少年イエスは、突然両親の前に現れると、両
  親はそれが自分の息子であることに気がつきません。

   彼は全く別の存在になっており、彼の内部にゾロアスターの個性が
  入っていたのです。この個性は、その時までは、ソロモン系イエスの
  肉体とエーテル体の中で成長した
のです
  (…中略…)

   12歳のイエスは、神殿で学者達の間に座り、非常に注目すべき言
  葉を語ります。ナタン系のイエスは、どうしてそうできたのでしょうか。
   何故ならその瞬間に、ゾロアスターの個性が彼の中に《入り込んだ》
  
からです。

   ですから、性格を一変させて学者達の間に座っていた我が子を、両
  親はそれと認めることが出来なかったのです。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp151-152  
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 まさに《合体ヒーローの世界?》です。或いは宇宙人を扱った超常現象では《ウ
ォーク・イン》
と呼ばれている現象に近いでしょう。さすがに聴講者の理解の範囲を
超えると思ったのか、シュタイナー自身も、このように付け加えています。

 「 今日の唯物論的な考え方では信じ難い事でしょうけれども、人生には
  このような事があるのです。
   個性が、或る身体から別の身体へと移行するのです。

   ゾロアスターの個性もまた、それまでの身体を離れ、特にアストラル
  体と自我の担い手を用意した『ルカによる福音書』のイエスの中へ移っ
  たのです。」
 
  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p152  
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 我々は《1個の肉体という単位》でしか人間を捉えていません。従って、例えその
時代に実在した人々が、それを超越した事実を目撃したとしても、後世に語り継が
れる歴史は、その《常識》に照らしたものとなってしまいます。

 しかし《常識》とは、我々が《通常の意識》で受け止めることのできる事象の集ま
りに過ぎません。それどころか、他の方法で現実の現象と解っていることでさえ、我々
視覚や聴覚では、受け取ることの出来る範囲は限られているのです。

 これまでに述べてきたように、我々を構成している4つの体のうち、肉体を除いては、
それぞれ単独で存在することが出来ます。そうであるならば、それぞれがある肉体
から別の肉体へと移ることにも、何の支障もないわけです。

 ★ 太陽智

 ところで、ゾロアスターの個性の移った後の『マタイによる福音書』のイエスのそ
の後
については、シュタイナーは次のように解説しています。

 「 個性が去って、肉体とエーテル体とアストラル体だけが後に残った人
  
も、一定期間は生き続けることができます。しかし、ソロモン系イエスの、
  後に残された3つの身体は、やがて衰弱し、死を迎えました。

   『マタイによる福音書』冒頭の数章に出てくるイエスは、12歳で死んだ
  のです
。こうして初めは1人のイエスがいたのですが、12歳の時に2人
  が1人になったのです。
  (…中略…)

   ゾロアスターは、後にキリストと呼ばれるあの本性を受容するために、
  肉体、エーテル体、アストラル体という3つの身体を、一定の高みにおい
  て、供犠に捧げることができるまでに成長させたのです。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp156-157  
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 なんと、『自我』を失った方のイエスも、その後もしばらくは生きていたのです。し
かし、その状態は、第138夜でお話ししたように『自我』を持たない『動物』と同じ
ような状態
だったでしょう。
 まさにその使命のみを持って生まれた存在と言えます。

 一方、ナタン系イエスの方へ移ったゾロアスターの『自我』は、30歳になるまで育
った後
、今度は完成した自らの肉体を、キリストに捧げることになります。
 そして、その瞬間こそが『ヨハネの洗礼』であったとシュタイナーは言います。

 「 ヨハネの洗礼の瞬間に、キリストの本性がゾロアスターの準備した体
  の中に入ります。肉体、エーテル体、アストラル体という3つの体がキリ
  ストの本質に浸透された
ことで、この3つの体が再生するのです。

   ヨハネの洗礼は、ゾロアスターに育てられた体の再生なのです。これ
  が地上におけるキリストの誕生です。今やキリストは、人体の中に、3つ
  の体の中に生きます。

   特別に用意された人体の中にです。その人体は、たとえもっと不完全
  な体であるにしても、他の人々も持っている体と同じ種類の人体なので
  す。

   地上に生きうる至高の個性であるキリストは、今、人体の中で生き、そ
  して秘儀の完全な規範を、すなわち肉体とエーテル体への下降と、マク
  ロコスモスへの上昇という、秘儀の2つの側面の究極の型を人々に示す
  
のです。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp174-175 
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 この時、キリストの秘儀の準備が整ったわけです。ところでこのキリストの本性
はどのような存在なのでしょうか。これについてシュタイナーは、別の箇所で次のよう
に述べています。

 「 ナタン系イエスの中には、地上との関係では無く、天上との関係が現れ
  ています。『ルカによる福音書』は、イエスのアストラル体と自我を貫いて
  働いている、神霊的本性
のことを記しています。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp142-143  
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 恐らく、何の前知識も無くこの部分だけを読んでみても、ごく《常識的》な感覚の持ち
主には、幾多の聖人的伝記の常として、イエスの神聖さを抽象的な言葉で表現し
ている
と受け取るにとどまることと思います。

 しかし、オカルティストであるシュタイナーがこのように述べる時には、まさに文字通
りの意味
を指しています。それは、《2人のイエスがいた》という驚きさえブッ飛んでしま
う程のトンデモ話なのです。

 先に第149夜で、ゾロアスターが《アフラ・マズダーの本性が、後にキリストとな
って地上に降臨する
》ことを、人々に示したと述べました。その本性こそ、ナタン系イ
エスの中に降り立って、彼のアストラル体と自我に働きかけていた、ということなの
です。

 つまり、ナタン系イエスもただの受容体であって《キリスト自身》では無く、キリ
ストとはあくまでも《神霊的本性》そのものを指すものであるということなのです。
 無論、この世を去った『マタイによる福音書』のイエスもまた、キリストそのもの
では無い
のです。

 それではこの《神霊的本性》とは何なのか。シュタイナーの説く所によれば、それは
ゾロアスターが《太陽智=太陽の背後に存在する叡智》と呼んだ存在であると言い
ます。彼はゾロアスターが弟子達に伝えた教えのエッセンスを、こう述べています。

 「 太陽を見るがよい。熱と光の恵みが大地に送られてくるのがわかるであ
  ろう。しかし、おまえ達が高次の器官を発達させ、霊的な知覚を持つこと
  ができれば、目に見える太陽の背後にまします太陽の本性を知ることが
  できよう。

   その時には更に、音響の作用を知覚し、音響の作用の中に生命の意味
  を知覚するであろう。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p76  
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 《キリストは太陽だった。》などと言うことは、各方面のキリスト教研究者からのバッ
シングは元より、一般大衆や、彼を理解しようとする者からさえ、変人としてそっぽを向
かれる見解だと思います。

 しかし、今日のスピリチュアリズム的な見解を総合的に考えてみると、これがキリスト
の本性であるという可能性も、あながち信憑性の低いことではないように思われます。  
 次回第153夜はその辺りについてお話しします。
( 追伸 )

 中曽根君、君の場合は
プルト君の背後に存在する黒幕だ。

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トンデモ話は奥で繋がる(151) 23.3.25

トンデモ話は奥で繋がる 「第151夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪キリスト衝動 ⑤≫
 
 ★ ヘブライ民族の使命

 ユダヤ人厚顔無恥なよそ者であるアシュケナージ系の支配層ではない
ブライ民族
は、一般にはキリストを磔刑に処した民として、キリスト教徒からは敵対視
される存在ですが、そのキリストの秘儀を達成するためには、不可欠な民族であ
ったるとシュタイナーは言います。

 それも《磔刑に追い込むことが彼等の使命であった》というような逆説的な役割
などでは無く、彼らこそキリストの秘儀を可能にするため、アブラハムに生じた形質を
代々受け継ぎ《肉体を完成させた》民族であるとしています。

 「 一個の存在が3つの体を犠牲にすることになったのは、人類の進化の
     ためだったのです。

   ゾロアスターはヘルメスのために自分のアストラル体を、モーセのため
      に自分のエーテル体を犠牲にした後、なおやらなければならなかったの
  は、自分の肉体をも犠牲に供することでした。

   そのためには、特別の経過が必要でした。まず、ゾロアスターの肉体が
  特別な仕方で用意されねばなりませんでした。…ヘブライ民族の独特な生
  き方
を通して、この第3の供犠のために、数世代に渡ってゾロアスターの肉
  体が用意されたのです。

   そのためにヘブライ民族は、ツラン系諸民族のもとで停滞していたアスト
  ル的霊視
を、つまり外的な霊的知覚の全てを、内的な力に変えなければ
  なりませんでした。これがヘブライ民族の秘密です。

   ツラン系諸民族の場合、太古からの遺産である能力が外的な見霊器官
  
を用意するために用いられましたが、ヘブライ民族の場合、その能力が、
  内なる身体を組織化するために、内に向けられました。
 
   ですから、ヘブライ民族は、個々の感覚的事物の背後で、感覚的空間
  を超えて拡がっているものを、アトランティス期におけるように直感したの
  ではなく、内的に感得したのです。
  (…中略…)

   実際、アブラハムは、それまで外へ向けられていた見霊能力を内に向
  け、新たに、内なる神意識を発達させた最初の人物だったのです。
  (…中略…)

   かつての神観念は、秘儀の学堂で、神的叡智として受け止められまし
  た。人々はこの観念を秘儀を通して後世に伝えました。

   それを受け取ることが出来た人は、身体器官無しにも、エーテル体の
  中で、知覚体験を持つことが出来た人
でした。

   しかし、身体器官を他の人に伝えるには、身体組織を遺伝させるという
  手段しかありません。

   ですから、アブラハムにとって最も重要で本質的だった身体器官を地
  上に存続させるためには、世代から世代への遺伝の中でそれを受け継
  ぐしかありません。

   だからこそ、ヘブライ民族の場合、民族の遺伝が、つまり血縁によって
  身体上の素質を世代から世代へ伝えていくことが、非常に重要だったの
  です。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp81-86 
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 モーセの出エジプトに始まり、苦難の末カナンの地へ辿り着いた後も幾度となく祖
国を追われたヘブライ民族は、流浪の民となりながらもその信仰を曲げることなく、ま
同族間での血統の深さを保ってきた、類まれなる民族です。

 それは単に、彼等が閉ざされた民族社会の殻の中に、かたくなに閉じこもって来たと
いう表面上の行動以上に、彼等が受け継いだ身体上の形質を薄めることなく、民族
の中に保持
し、向上させてゆくという、彼等の使命でもあったわけです。

 ちなみにツラン系諸民族とは、アトランティス没後、北アジアへ向かった民族で、高
度なアトランティス的見霊能力を持っていたため、現世での文化には関心を持たず、
専ら霊的な世界に生きていた人々
です。

 彼等はシャマンを中心とした共同生活を営み、シャマンから下される神々や霊的な
お告げ
を重要視し、時には黒魔術さえ利用しました。一方ヘブライ民族は、この対極
に位置した民族であり、人間の精神力で環境を変えてゆく物質文明の推進者となって
いきます。
 
 そして、そのどちらが優れているということではなく、人類の霊的な進化のためには、
どちらの民族も必要であったのです。

 ★ 善も悪もなく

 さて、小生は以前アブラハムについて、第九十夜あたりからバーバラのリーディン
グによる彼の役割についてお話ししましたが、その際には、どちらかと言えばアヌンナ
キ寄り
のネガティブな存在として捉えていました。

 しかしシュタイナーによれば、彼がいなければ《キリストの秘蹟》は完成しなかっ
ことになります。そうであるならば、少なくともアブラハムその人自身は、人類の進化
にとっては必要不可欠であったことになります。  

 また、サティアの話の中には、アヌンナキが、アブラハムにウラニウムをアヌンナキ
の神殿に配置させたのは、我々の感情体をコントロールするためだったこともお話し
しました。しかし、これにも別の意味での貢献があった可能性もあります。

 アヌンナキの神殿と言えば、『神』とされていた彼等が、人間の女性達―アヌが言う所
によれば全ての女性達―と交わり持った場所です。そしてその際ウラニウムが、生ま
れてくる子息の身体の遺伝子に、何らかの変異をもたらして来たのかも知れません。

( ただし、誤解の無いように付け加えますが、あくまでも天然のウランによる、
ゆるやかな作用であり、原発原爆に使用する濃縮されたもの、ましてやプル
トニウム
の作用を肯定している訳ではありません。)

 これも見方を変えれば、良くも悪くも、我々の世話役であったアヌンナキが、我々の
身体上の形質を向上を促進させた可能性
もあります。そう考えると、アブラハムに
せよアヌンナキにせよ、人類にとって、つまづきの石なのか、協力者なのかわからなく
なります。

 この点について小生が考える所、彼等は人類の魂の進化という大きな流れのなか
で、その真の目的もわからないまま、彼等の本当に意図した事とは無関係に、ただ
単に彼等の役割 を演じさせられていただけなのではでないかと思っています。

 つまり、彼等は善でも悪でもなく、《宇宙真理的な意志》だけが意図しているものの
完成に向かって、自らはそれとは知らぬまま、それが自分の意志であると思い込ん
だことを実行
して来ただけなのではないでしょうか。

 その意味では、プレアデス系のチャネリングを一方的に肯定して、アヌンナキ
が絶対的な悪だと決めてしまうべきではない
と思います。
 ルシファーについても同じ事で、彼もまた、自分の意志であると思い込んだまま、
役割としての魂の誘惑を請け負っているのだと思います。

 ★ もう一人のイエス

 さて、アブラハムから受け継がれた肉体的な継承は、ヨセフまで41世代、そして
42世代目のイエスにおいて完成したとされます。キリスト教の正史からすれば、これ
でめでたく救世主の誕生ということになります。

 (ちなみに、シュタイナーの説に拠れば、42世代とは《遺伝によって内面に生
じた不純な要素から自由になるために必要な期間》
とされていますが、ここでは
深く取り上げずにおきます。詳しくは同書をご覧ください。)

 とすると、一方でトトが受け継いだ《アストラル体》は全く関係無くなってしまうので
しょうか。それに関して、シュタイナーは『マタイの福音書』の中にある、不可思議な記
述を取り上げています。

 実は、同福音書は《血がアブラハムからヨセフまで続いてきた》と述べながら、一
方で、 《ただしこの血はナザレのイエスの血とは全く関係ない》と言っているので
す。 表向きには、いわゆる《処女懐胎》の裏づけともなる記述です。

 しかし考えてみれば、自民族の救世主ならば、何故あえてアブラハムからの血
統では無い
などと、不利な事実を強調せねばならないのでしょう。懐胎の神性はとも
かくとして、何らかの形で関係があったとするか、書かずにすますのが普通では無い
でしょうか。

 前夜にも述べたとおり、モーセの系統は主としてゾロアスターの《エーテル体》
受け継ぎ、さらに新しい見霊能力を受け止めるに足る《肉体》を進化させてきたもの
です。無論《アストラル体》もそれなりの進化はしていました。

 しかし、前夜で述べたとおり、いきなり完成されたエーテル体の中に、エジプト古来
の見霊能力のあるアストラル体
を結びつけることは、自我をルシファーの誘惑から
逃れさせておく
ことが非常に難しいのです。

 シュタイナーは、それを完成させる担い手として、ここにもう一人のイエスを登場させ
ます。彼によれば、実は『ルカの福音書』に述べられているイエスは、生まれの違う別
の人格であったと言うのです。

 「 しかしキリスト本性を担う人間の中には、肉体とエーテル体だけでは
  なく、アストラル体と自我も存在しています。

   ですから、肉体とエーテル体の成熟に必要な全てが遂行されただけ
  では無く、アストラル体と自我の成熟に必要な全ても生じなければなり
  ませんでした。

   これ程大きな行為を実現するには、一人の人格では不可能ですので、
  二人の人格が働かなくてはなりませんでした。

   肉体とエーテル体は、『マタイの福音書』の物語る人格の中で創られ
  ました。
   そしてアストラル体と自我は『ルカの福音書』に述べられているナタン
  系のイエス
の中で創られました。

   このイエスは、初めの数年間は別の人格なのです。『マタイの福音
  書』のイエスが、ふさわしい肉体とエーテル体を得る一方で、『ルカの
  福音書』のイエスは、ふさわしいアストラル体と自我の担い手を得たの
  です。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』p128
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 よく、イエスの復活の秘密に際して《実はイエスには、うり二つの弟がいて、彼が
身代わりとなって磔刑を受けた》
と言うトンデモ話が出てきますが、これなどはシュ
タイナーの話からすれば、実にたわいも無い話に見えてきます。

 それでは次回第152夜はそのナタン系のイエスについてお話しします。

( 追伸 )

 中曽根君、真実を語るもう一人の中曽根君はいない
ものかね。

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トンデモ話は奥で繋がる(150) 24.3.18

トンデモ話は奥で繋がる 「第150夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪キリスト衝動 ④≫
 
 ★ ゾロアスターの個性の伝承

 以後、『イエスを語る』には、ゾロアスター以後、人類が見霊能力についての新
しい道
を得る―つまりキリストによる秘儀が行われるまでの過程が、約150頁に
渡って詳しく口述されています。

 その中には、小生の力量ではとても説明できない部分が多々ありますが、理解不
足を恐れずに、その概略を示しておこうと思います。

 (納得のいかない部分等につきましては、是非同書をお読みいただくことを
お勧めします。)

 まず、一言で言ってしまえば、

 ゾロアスターは自らが知覚した《新しい道》
 人間の肉体で実現させるため、
 自らの個性を来るべき時に転生させるべく、
 2つの血統を通じて、
 42世代に渡る77段階の肉体的進化
を遂げていったということです。

 つまりゾロアスターの個性が、まさにキリストとして42世代後に、この世に出現
して、自らその秘蹟を行ったということです。ただし、単なる《生まれ変わり》では
無く、その進化には分離された2つ過程が必要だったと言います。

 ゾロアスターの見霊能力は、偉大な2人の弟子達から順に継承されることとなり
ます。 ただし、それは世俗的な、単なる師弟的な伝承ではありません。時間も物
質も超えた
、まさにオカルト的な伝承です。

 ★ アストラル体の継承者トト

 ゾロアスターのアストラル体の能力については、聖なる秘儀によってエジプトの
トト(=ヘルメス)に受け継がれました。彼は既にお馴染みの、ドランヴァロ・メルキ
ゼデクのチャネリングの主でもあります。

 彼がゾロアスターの直接の弟子なのか、幾世代か後の弟子なのかははっきりし
ませんが、彼は、ゾロアスターの見霊能力の伝承者となり、エジプトの文化の創
始者
となります。

 ここで注意していただきたいのは、彼が単なる《教え》の伝承者では無く、ゾロ
アスターの死後、いったん霊界に戻っていったアストラル体の伝承者―つまり、
《アストラル体》に関してはゾロアスターそのもの―だということです。
 ……………………………………………………………………………………………

 余談ですが、このことを仏教の日本への伝承を例にとって、小生なりの解釈をし
て見ます。

 平安時代に中国から最澄の《顕教》空海の《密教》2つの仏教が日本にもた
らされます。うち《顕教》は《教え》に当たり、経典に書かれたものです。

 しかし《密教》については、経典よりも業そのものが重視され、その教えを知り
たいとした最澄の申し出を、空海は《単に教えのみで達成されるものでは無い》
として、断ったとされています。

 《密教》の真髄は、恵果和尚から空海ただ一人に直伝されたものです。しかし、
こう書かれているだけでは、恵果和尚が後継者を一人に絞るために、それと見込ん
空海のみを特別扱いしただけのことのように感じてしまいます。

 しかし小生は、《密教》に限らず、このような直伝については、実際に《アストラル
体》のような見えない体
が、そのまま受け継がれていく場合があるのではないか
と考えています。

 そして、複製ではない《アストラル体》が伝承される場合は、継承者はどうしても
ただ一人に絞られることになります。つまり、決して師匠が一人の弟子をエコヒイキ
している訳ではなく
それ以外には方法が無いのです。

 チベットのダライ・ラマの生まれ変わりについてもまた、同様な例だと思います。
いくら《政府の許可なくして転生することを認めない》という馬鹿げた法律を定め
ようと、それを引き継ぐべき者は、本人認める者に限られるのです。

 こうした伝承を《非科学的だ》と退けてしまう人は、例えば映像や音声が、小さな
メモリーチップの中に保存され、幾世代も後の世代に再生されることを、小さな子
どもが納得するように説明できるでしょうか。

 メモリーチップは、外形こそ目に見える・見えないの違いこそあれ、それ以外の
点では、アストラル体の保存移転とほとんど変わりはありません。何せ中国政府
でさえ、それを肯定した禁止法を制定しているのですから。
  
 ゾロアスターの場合も、人類の進化のため、自己の《アストラル体》をそのまま
引き継がせる
必要があったのだと思います。そしてそれを担ったのが、エジプトの
トトだったということです。
  ……………………………………………………………………………………………

 しかし、代々自己の《アストラル体》の継承者を見つけてゆくだけでは、《密教》同
様、自己の古代の見霊能力、つまり睡眠生活でのみ霊界と繋がる方法を、代々絶
やさないことにしかならず、新しい見霊能力の扉を開くことはできません。

 そこでゾロアスターは、その目的の達成のために、もう一つの体《エーテル体》の伝
承を別の弟子に託します。それは直接の弟子から数世代の後、モーセと呼ばれる弟
子に引き継がれることとなります。

 ★ マクロ・ミクロの両コスモス

 ここで、人間にとってのアストラル体エーテル体を別の角度から見てみます。
ストラル体
は以前にもお話しした通り、自我が大宇宙(=マクロコスモス)と一体と
なる橋渡しをする体
です。

 一方エーテル体は、地上で自我が生きるための肉体(=ミクロコスモス)を生かし
続けるための体
です。そして現代の我々は、両者が揃うことによって、2つのコスモス
を体験することができます。

 無論、マクロコスモスについては、現世で誰もが自在に体験できているわけではあ
りませんが、少なくとも霊界での体験まで含めれば、万人が体験することですし、ス
ピリチュアリズム的には、訓練によって日常的にも可能になるとされています。

 しかしゾロアスターの時代の見霊能力では、マクロコスモス的体験睡眠生活
中でしか体験できませんでした。マクロコスモスは自我とアストラル体の知覚領域、
ミクロコスモスは肉体とエーテル体の知覚領域と分離していたからです。

 そのため、覚醒状態のままで魂がマクロコスモスへ上昇していったり、またミクロコ
スモスへ戻ってゆくことができなかったのです。このため、ゾロアスターのエーテル
もまた、さらなる進化への基礎として後世代へ引き継がれたのです。

 ★ アストラル体の悪霊

 ここで読者の中には、ある疑問を持つ方があると思います。ゾロアスターは何故、

 アストラル体とエーテル体をセットでトトに引き継がずに、
 あえて別々の弟子に引き継がせた

のでしょうか。

 実は、これについてはシュタイナーは明確には述べておらず、当初は小生も疑問に
思っていました。しかし、それ以後の話を読み進めていくと、小生なりの推測が浮か
んで来ます。以下、誤見解かも知れませんが私見を述べてみようと思います。
 ……………………………………………………………………………………………
 
 第144夜でお話ししたように、我々のミクロコスモスである肉体は、地上にいる間、
ルシファーの誘惑により、不完全な魂のまま霊界に参入しよういう衝動を起こさせぬ
ようにするでもありました。

 つまり、古代人が肉体を離れて睡眠生活に入り、マクロコスモスである霊界と繋がる
場合にも、常に同様の誘惑を受ける危険性があったのです。トトの生きた古代エジ
プトでの参入秘儀
について、シュタイナーは次のように述べています。

 「 人間は、自分の内面に沈潜すると、いわば自分の自我の中に全く
  組み込まれ、自分の願望、欲望だけを満足させ、人間の中の悪しき
  働きが自分の自我を捉える
ままにさせられるのです。

   これが内面へ向かう時の支配的な気分です。…不用意に自分の
  肉体とエーテル体の中へ沈潜すると、意識が自我の中に押し込め
  られます。
  (…中略…)

   エジプト人の秘儀参入は、…眼を内部に向け、没頭と沈潜を通し
  て、自分自身の中の神性に近づく秘儀参入だったのです。

   個人の自立にまで到っていなかった古代人の秘儀の場合、マク
  ロコスモスに拡がる時も、ミクロコスモスに沈潜する時も、まだ全く
  個人の自主性は重んじられていませんでした。

   エジプトの秘儀は、参入者をその肉体とエーテル体の力に導きま
  した。参入者は意識を保ったまま、自らの肉体とエーテル体の動き
  を体験した
のですが、

   その時、いわばあらゆる側面から、アストラル体の恐るべき情念、
  情熱
が流れて来ました。悪霊の世界が人間の中から立ち現れまし
  た。

   ですから、エジプトの秘儀の導師は、立ち現れるものを受け止め、
  自分の本性を通して他へ誘導する助手達を必要としていました。導
  師は、出現する悪霊達を受け止める助手を12人必要としました。

   このように、古代の秘儀においては、個人は決して自由な存在で
  はありませんでした。個人が肉体とエーテル体へ沈潜するには、ど
  うしても12人の助手が、悪霊達を受け容れ、鎮める必要があった
  からです。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp168-170 
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)
 

 このような自立が不完全な状態で、仮にマクロコスモスとミクロコスモスへの往来
が自由なアストラル体とエーテル体
を、誕生と同時に2つとも得たとしたらどうな
るでしょうか。

 恐らく、自我の欲望に捉えられ、転生の目的を果たせぬまま霊界に逆戻りしてし
まうことになるのだと思います。これでは、いつになってもさらなる発展はできなくなって
しまいます。

 そのため、アストラル体とエーテル体は、人間が自主的に2つのコスモスへの移動
が可能になる瞬間まで、別々に維持
される必要があったのです。そして、それが可能
となる時まで、エーテル体は完成の時まで別に継承されたのだと思います。 

 次回第151夜はその過程についてお話しします。

( 追伸 )

 中曽根君、君にも《暴走を止める助手》が必要だった
 のだが…。

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トンデモ話は奥で繋がる(149) 24.3.13

トンデモ話は奥で繋がる 「第149夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪キリスト衝動 ③≫
 
 ★ 古代の秘儀

 アトランティスの大多数の人々の見霊能力が衰える中、秘儀によって霊界と
の繋がりを維持することが出来た者も少数はいました。しかし彼らもまた、現在
のような繋がり方とは
違っていたのです。

 「 今日の魂は、自分の内部に留まり続けながら、全く自由に、自
  分自身の基準に従って、霊的直感を持つことが出来るのですが、

   キリスト以前の古代人の魂は、本質的にそうなることが出来ず、
  秘儀の聖域で受け取った基準に従わなければなりませんでした。
  (…中略…)

   秘儀参入を志す者の魂は、祭祀達による外的な手続きによっ
  て、身体から解放されました。その時、秘儀参入を志す者は、一
  定の時間、眠りに似た状態に置かれたのです。

   しかし、その状態は睡眠状態だったのではありません。霊的に
  見ると、睡眠中、人間の外的な身体はベッドに横たわり、本来の
  霊的=魂的な本性は身体から離れています。

   しかしその時、霊的=魂敵な本性の内的な核心部分は、集中
  力を失って、無意識状態になっています。ですから霊的=魂的
  な核心の周りには、闇が拡がっているのです。

   古代の秘儀の場で、人間の魂に対して行う手続きは、既に秘
  儀に参入した、別の進歩した人物達によって、この魂を一種の
  睡眠状態に置くことにあったのですが、

   しかし、同時にこの魂の内的な力、内的な働きは研ぎ澄まさ
  れ、強化されていました。身体は死に似た睡眠状態に置かれま
  したが、その間、魂は霊界を観ていたのです。

   そして意識的に睡眠生活を営む中で、自分は霊界の市民であ
  る、と確信できたのです。

   こうして、しばらくしてから再び通常の人間状態に戻されますと、
  その魂は、身体の外で知覚したことを思い出します。この魂は
  言する霊
となって、民衆の前に立ち、霊界の存在と、人間の永遠
  の存続とを証言するのです。

   この魂は、こうして霊界での生活に関与することが出来たので
  す。秘儀の中では、長い人生において遵守すべき規則が与えら
  れましたが、このことが古代の秘儀の場での導師達による最後
  の行為だったのです。

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp354-355  
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)
 

 つまり現代人は、自我を体内に留めたまま、覚醒した状態で見霊能力を働
かせることが出来るのに対して、古代の人類は《死に似た睡眠状態》、魂と肉
体が離れた状態
でしか、その能力を得られなかったということです。

 そして、後に詳しく述べることになりますが、冒頭の文が示しているとおり、
《キリストの秘儀》こそ、その分岐点となった出来事ということになります。

 秘儀がどのように行われたのかは示されていませんが、古代文明、とりわけ魂
の不滅の思想を色濃く残しているエジプト文明では、実際そのような秘儀が日
常的に行われ、数々の預言がなされていたのでしょう。

 古代人のこのような交霊について、《睡眠生活》という、矛盾をはらんだような
言葉も出てきますが、これ等はエドガー・ケイシーの交霊法を思い出させます。
彼こそ、古代的な見霊能力をそのまま得ていたのでは無いでしょうか。 

 ★ ヨーガこそ太陽生命の知覚

 それでは、いったんアトランティス時代の記述に戻ります。前夜でお話ししたよ
うに、時代が後期に進むに連れ、太陽からのエーテル元素を知覚する能力は、
特定の者しか維持することが出来なくなっていきます。

 しかし同時に、我々が精神文化を発達させるためには、この過程が必要でもあ
ったのです。この2つの矛盾した叡智は、それぞれ別の担い手達によって、代々
伝承されてゆくことになります。

 「 古い見霊能力の喪失とともに、この(=太陽からの宇宙ハーモニー
  と生命エーテル)知覚への門
は閉じられました。そして、それと共に、
  次第に別の能力が生じました。

   それは《知の内的な力》であり、《認識の内的な力》です。この力に
  よって、人々は内省し、思索にふけることを学びました。

   現在の私達が、覚醒時の生活の中で、物質界の諸事情について考
  え
を巡らし、本来の内的生活を発達させることが出来るのは、古い見
  霊能力を喪失した結果なのです。

   現在の人間の内面生活は、感情、感覚、思考、想像力によって、私
  達の文化を創造することが出来ましたが、そのような創造力は、アト
  ランティス初期にはまだ無かったのです。
  (…中略…)

   人が自分を、自我存在であると感じるようになるに連れて、宇宙を
  貫き流れる神的な生命エーテルを知覚することが出来なくなりました
  
   地上の存在となった人間は、直接太陽から射してくる《生命》をも
  はや知覚出来ず、生命を自分の中にしか生き生きと感じられなくなり
  ました。
  (…中略…)

   太陽の霊的な作用が、人間の中に働きかけられなくなると、その代
  わりに人間の内面生活は、ますます花を開かせました。
  …………………………………………………………………………………

   《ヨーガ》によって、太陽の作用を直接知覚出来るまでに、人間が
  いわば通常の生活形態に反して、霊的な能力を発達させることが出
  来たのは、聖なる秘儀の参入者だけでした。

   アトランティス時代の後半期になると、《神託地》にふさわしい場所
  が、アトランティス大陸内の各地に現れました。

   音響エーテルと生命エーテルの直接の作用を、もはや知覚出来な
  くなっていた人々の中から、聖なる叡智を学ぶ者達が選ばれ、

   単なる感覚的な知覚を制禦することによって、音響エーテルと生命
  エーテルの啓示を知ることを学びました。そして、この能力は、後ア
  トランティス時代にも維持され続けました。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp72-75
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 《ヨーガ》と言えば、スピリチュアリズムを白眼視する人でさえ、健康法の一つと
見做すほど、すっかり市民権を得た感じがありますが、驚くことに本来は、《オカ
ルト的能力》を後世に伝える手段
として始まったものなのです。

 ★ アフラ・マズダーとは

 その後のアトランティスの叡智のゆくえについては、以前にもバーバラのリーデ
ィング
の内容として、第八十五夜以降でお話ししましたが、シュタイナーも同じよう
な伝承について口述しています。

 もっともシュタイナーの場合は、現代に繋がる見霊能力が、どのような経緯で
受け継がれて来たか
に視点があり、その意味では、第130夜でお話しした、ミト
ラ神学とほぼ一致した経緯を示しています。

 ただし、シュタイナーの場合は、単なる古代宗教の伝承話としてではなく、今まで
にお話しして来た人間の4つの体―肉体、エーテル体、アストラル体そして自我
との関わり方
が常に論じられて来ます。
……………………………………………………………………………………………
 古アトランティス人の見霊能力―太陽からの霊的な作用である音響エーテル
と生命エーテルの啓示を知覚する力
は、まずイラン民族の祭司ゾロアスター
受け継がれます。

 ちなみに《ゾロアスター》については、私達が歴史の授業で教えられているゾロア
スター教の創始者
ダレイオス王の時代のゾロアスターとは全く違う存在であり、
古代ギリシア人がトロイア戦争の5千年前に想定していた人物とされます。

 「 ゾロアスターは太古の時代(アトランティス大陸の没落直後)に、
  秘儀の聖域から持ち出してきた財宝でイラン民族を育てました。

   外的文化を人間の精神力によって生み出そうとする衝動を持っ
  た民族に育てたのです。
  (…中略…)

   ゾロアスターは、外なる太陽の光体が、高次の霊的存在の外な
  る可視体であることを、人々が洞察できる道を開いたのです。

   彼はこの高次の霊的存在を、人間の小さなオーラとは反対の、
  《大きなオーラ(=アフラ・マズダー)》と呼びました。

   ゾロアスターがこの言葉で示唆しようとしたのは、

   《今はまだ遥か遠くに存在するこのアフラ・マズダーが、い
    つかは地上に降臨して、人類の進化のために自分の実体
    を大地と結びつけ
、人類に作用を及ぼし続けるであろう》

  ということでした。こうしてゾロアスターは、後にキリストとな
  って地上に生きた《本性》
を、この人々に示したのです。

   ゾロアスターは、これによって非常に重大な行為を達成しま
  した。後アトランティス期の新しい《神を失った人類》が霊的な
  ものに昇っていけるようにしたのです

 
   物質界に降りてきた人間が、精神力で霊的なものに到る
  とが出来るようにしたのです。

   古代インド人ヨーガを修行することで《古い霊性》を再び獲
  得しました。しかし《新しい道》はゾロアスターによって、人々に
  示されたのです。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp32-33
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 アフラ・マズダーと言えば、小生も昔、高校の倫理社会の時間にアーリマン
と対抗するものとして、漠然と教えられた記憶がありますが、実は《キリストの
本性》
なのです。(何故《本性》なのかは後に説明します。)

 今ではゾロアスター教と言えば、一般には《特異な神を持つ拝火教》のよう
に思われていますが、これも歴史上のゾロアスターによって、歪められた歴
の一つであり、そもそもキリストの霊性を示す教えだったのです。

 そして我々は、《ヨーガ》を極めることによって霊性に到る《古い道》の他に、
将来キリストが示すであろう、精神力によって到る《新しい道》があることを知る
ことになるのです。

 しかし、そのキリストが一般の《肉体》に受肉するこては、それ程たやすい
ことではなかったのだと、シュタイナーの話は続いてゆきます。

 次回第150夜からはそこに到るまでについてお話しします。

( 追伸 )

 中曽根君、君にも《過ちを認める》という
新しい道があるはずなのだが…。

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トンデモ話は奥で繋がる(148) 24.3.4

トンデモ話は奥で繋がる 「第148夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪キリスト衝動 ②≫
 
 ★ アトランティス期の見霊能力

 さて、《キリストの出現とその秘蹟》が特別な意味を持つということは、裏を返
せば、スピリチュアルな意味で、それ以前の時代には無かったことを実現させた
ということになります。

 それにはまず、キリストの出現以前の人類が、どのような形で霊界と関わって
いたのかを知る必要があり、シュタイナーは、その歴史を既知の古代文明以前
の太古まで遡らせています。

 その内容は神智学の説く独特の歴史観から出発していますが、アトランティス
期以降の人類においては、第八十夜以降でお話ししたバ-バラドランブァロ
のチャネリングの内容を補足するものとなっています。

 「 後アトランティス初期の頃の魂の有り様は、後の場合―特
  に今日の場合―とは異なり、これらの民族の全てにおいて、
  環境をもっと見霊的に知覚する能力が備わっていました。

   当時の人々は、霊的な事象をまだ見ることができました。
  今日の人が、物質として見ているものもまた、より霊的な仕
  方で見ていたのです。

   ですから当時は、見霊的な態度で生活していたのです。
   とは言え、後アトランティス初期のこの《見霊能力》は、例
  えばアトランティス盛期の見霊能力とは異なっていました。
  …………………………………………………………………………
   アトランティス盛期の見霊能力は、霊界を純粋に見ていま
  したから、霊界の啓示が、人間の魂の中で《善なる働き》と
  なっていました。
 
   更に言えば、霊界をよりよく見ることの出来た人は、このア
  トランティス盛期においては、善へのより強い衝動を持ち、見
  霊能力において劣っていた人は、善への衝動をそれ程には持
  っていませんでした

  …………………………………………………………………………
   既にアトランティス期の最後の3分の1に至った頃になって
  からは、古い見霊能力の善き側面が次第に消えていきました。
   秘儀の場で特別の修行を積んだ人だけが、アトランティス期
  の善き側面を保持し続けました。

   これに反して、自然のままにアトランティス期の見霊能力を
  残していた所では、時の経過と共に、悪しき傾向が現れて来ま
  した。人を悪に誘う力を見るようになったのです。

   次第に人間の見霊能力は、善き力を見るのに十分な力を持つ
  ことが出来なくなりました
。しかもその一方で、悪しき働きを見
  る力は残っていました
ので、その悪しき働きが人々を誘惑した
  のです。
  …………………………………………………………………………
   古い見霊能力が衰えるのと並行して、今日の人類にとっては
  正常な、外的な感覚的知覚が発達していきました。

   後アトランティス初期の人々が肉眼で見た事物―現在の人間
  も見ている事物―は、その当時はまだ、全く誘惑的ではありま
  せんでした。
   物質は人の心を惑わす力をまだ持っていませんでした

   これに反して、古い見霊能力の遺産は、その人々の心を掻き
  乱したのです。霊界の善き側面は、ほとんど見えなくなり、
  ツィフェル的、アーリマン的
なものが強力に働きかけたからで
  す。

   遺伝によって伝えられた見霊能力で、誘惑者であり、幻惑者
  であるツィフェルとアーリマンの力が見えたのです。

   秘儀によって人類を導く使命を授けられていた、人類進化の
  指導者達は、このような状態にあって、人々が善なる心、透明
  な心を保ち
得るように、準備を始めたのです。」   

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp23-24 
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)
   

 これらは第八十五夜でお話しした、バーバラのチャネリングによるツォルキン
語っている内容を、人類の霊界を感じる能力の面から捉え直したものと言えるでし
ょう。

 アトランティス最盛期の頃の人類は、霊界の事象も、物質界の事象も、同じよ
うな存在のレベルで見えていた
わけです。

 そして、現代の科学霊的な世界を幻想(マーヤー)として捉えるのとは真逆
に、物質界を常態のない幻想であると認識できていたわけです。幻想であるが故
に、それに執着するということも起こりませんでした

 また、自らが与えたものを自らが受け取るという、カルマの法則がわかっている
とすれば、あえて悪を為そうという意志が湧き起こらないのも、もっともな話です。

 しかし、外的な感覚的知覚が発達するのと引き換えに、見霊能力は次第に弱ま
っていき、意識的な《秘儀》を行う者でなければ、それを保つことができなくなっていっ
たのです。

 そこにつけ込んで来たのが、ルツィフェルとアーリマンであり、彼等は物質的な
ものを現実的に見て
、それをより多く支配し、他のものより優位に立つことに価値
観を持つような意識を植え付けていったのです。

 ★ 太古の見霊能力

 さらにシュタイナーは、後アトランティス初期の人々は、霊界の事象を見る際、今と
違った形で見ていたといいます。そして、ここにも人間の4つの体が関わってき
ます。

 「 かつて、後アトランティス時代に至るまで、人間は直接的な見
  霊能力
を持っていました。

   人間はこの力によって、今日のような知覚能力で感覚世界を
  見るだけでなく、感覚存在の霊的背景をも見ることができまし
  た。 

   それでは人間は、何によってそう出来たのでしょうか。それは
  太古の時代の人々にとって、中間状態が存在したからです。
   それは今日の覚醒意識と睡眠状態の中間状態でした。

   覚醒時の人間は、物質的、感覚的な事物を知覚します。今日
  の睡眠時の人間―又は現在の人間の大多数―は、何も知覚せ
  ず
、 ただ生きているだけです。

   もちろん、睡眠時の人間のこの生活を、見霊的に探求したな
  ら、不思議な発見をしたでしょう。しかし《不思議だ》と思うのは、
  世界を外から見ている人だけなのです。

   ご存知のように、睡眠時のアストラル体と自我は、肉体とエ
  ーテル体の外
にいます(第134夜参照)。
 
   とは言え、夜間、肉体とエーテル体の外に居るアストラル体
  と自我は、ただ雲のように肉体の周りを漂っているわけではあ
  りません。

   低次のアストラル的見霊能力で見ることの出来る、雲霧のよ
  うなものを、我々はアストラル体と呼んでおりますが、これは
  睡眠中の人間の、最も粗雑な末端部分に過ぎません。
  (…中略…)

   睡眠中の人間のアストラル体は、もっと遥かに拡がっていま
  す。眠りに入る瞬間、アストラル体と自我の内なる力は、太陽
  全体にまで拡がり
始めます。

   そして、太陽全体の部分になります。睡眠中の人間は、到る
  所から、自分のアストラル体と自我の中に力を吸収していま
  す。

   そして目覚めると、この力を再び自分の体内に取り入れて、
  この世を生きる力にしますが、この力は太陽系内の全ての所
  から吸収
してきた力なのです。

   ですから、中世のオカルティストは、人間のこの霊体をアス
  トラル体(星の体)
と呼びました。つまり、星の世界と結びつい
  ており、星の世界から力を吸収していることを示唆したのです。
  (…中略…)
  
   肉体の外に居るアストラル体は、宇宙ハーモニーに浸透さ
  れているのです。…宇宙ハーモニーは夜間のアストラル体に
  振動と脈動を生じさせて、昼間、外界を感覚的に知覚する時
  に乱れたアストラル体を、再び秩序づけるのです。

   生命エーテルの働きも、睡眠中のアストラル体に浸透して
  いるのですが、肉体とエーテル体から分離している時の私達
  は、自分のアストラル体のこの内的な活動を知覚していませ
  ん

  (…中略…)
  
   アトランティス期には、この知覚能力が正常な仕方で、覚醒
  と睡眠の中間状態に働いていました。当時の人は、この状態に
  おいて、宇宙ハーモニー生命エーテルの営みを、共に体験す
  
ことができました。」  

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp70-72 
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)
 

 まさにシュタイナーの、オカルティスト的な論説全開といった感じですが、そもそも
アストラル体という名称は、我々がそれを通じて星々と繋がっていることを意味
したものなのです。

 それ故、スピリチュアリズムに多用される瞑想グラウンディングも、形式的な
イメージトレーニング等では無く、全てこの力を目覚めさせることを目的として
いるものなのです。

 そして後アトランティス時代までの人類は、覚醒と睡眠の中間状態を自由に創
り出す
ことで、その意識に入りこむことが出来たと、シュタイナーは述べています。

 ちなみに宇宙ハーモニー」は、「音響エーテル」とも呼ばれており、「生命エー
テル」
と共に、太陽から発せられる、通常では知覚できない、霊化した元素の一つ
とされています。

 地上には、他のもう一つの「光エーテル」を加えた、3つのエーテル元素がある
と述べています。これ以上の説明はないのですが、恐らく《》のようなものではな
いかと、小生は思っています。

 無論、現在の科学で実証できるものではありません。しかし、考えてみてください。
電波や放射線も、太古から存在していたにも関わらず、つい最近までは、そんな
ものは「非科学的」な空想だったのです。

 (さらに地上には、この他に「熱」「ガス」「水」「固体」の4つの物質的元素を
加えた、7つの元素があるといいます。物理学的な元素では無く、《状態》に
よって区別されています。)

 ただし、後アトランティス初期の人々は、このような形での見霊能力を持つ一方で、
通常の知覚能力の感度については、我々より低いレベルにあり、そのため知的
な力を増進することは出来なかったのです。

 「 当時の人間は、目覚めと眠りの中間状態の中で、霊界に依存
      して生き
、そして感覚界を、霧の中に居る時の様に、ぼんやりと
      知覚
しました。

         いずれにせよ、感覚界は理解の対象外であり、外的生活を心
      の中に映し出すことはできませんでした。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp73
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)
  

 つまり、我々が知的な進化を望むのであれば、見霊能力をこのままの形で維
持することは困難
だったのです。そして、我々は、この能力を捨て、が別の方向へ
進む
ことになります。

 続きは次回第149夜でお話しします。

( 追伸 )

 中曽根君、君にはもう一つ
「プルトニウム・エーテル」まで知覚できるようだね。

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トンデモ話は奥で繋がる(147) 24.2.26

トンデモ話は奥で繋がる 「第147夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪キリスト衝動 ①≫
 
 ★ 始めてしまう前に

 さて、これからお話しするシュタイナーのキリスト観については、小生自
身もほとんど理解できておらず、とてつもない誤解をしでかしているかも知
れないことを、始めにお断りしておかなければなりません。

 そして恐らくこの分野は、シュタイナーを一般にわかるレベルで紹介しよう
としてきた、有名・無名のあらゆる批評家の前に、壁となって立ち塞がってき
た難題であろうと思います。

 特に、西平氏を始め、学会でそれなりの地位を占めている専門家や研究者
にとっては、あまり深入りすることは、自らの職歴に《オカルト的》と書かれ
かどうかの選択を迫られることを意味しています。

 幸い小生のような、傷つくような経歴など一つも無い凡人であれば、どのよ
うに書いてもよいのですが、さりとて変人扱いされることは覚悟せねばなり
ません。 (といっても、小生は既にその類に属していますが…)

 しかし、やはりこの部分を無難に見過ごしてしまうことはできません。既
に延々と続けてきたこの奇文―それは小生自身の思考の遍歴でもあります
―に登場してきた、数々のトンデモ話の焦点は、まさにここにあると思うから
です。

 ★ オカルト過ぎるキリスト?

 思うに近代において、およそシュタイナー程、オカルト的な批判を恐れずに真
正面から人間の真にあるべき姿を語っている人物はいないと思うのですが、
それがために、2つの極端な取り上げられ方をしているように思います。

 一方には、彼のオカルト的な面には全く触れずに、教育論だけを取り上げ
て、その功罪を述べている人達がいます。

 しかし、彼の教育論は、前夜までに述べてきた4つの体の周期的な発育とセ
ットで考えなければほとんど意味を持ちません。

 そしてもう一方が、オカルト的な面だけに焦点を当てて、アーリマンやルシ
ファーのことばかり述べ立てている人達です。

 特に、ツイッター等ではオカルト的な書き込みは頻繁に目にしますが、キリス
トとの秘蹟と関連
付けて話を述べているものにはなかなか遭遇しません。

 一つには、キリストの名を出すことが、古臭い宗教色を連想され、野暮った
い感じを持たれることを嫌ってのことかと思います。しかし、以前にも述べたとお
り、キリストの言動と正統的キリスト教とは全くの別物です。

 そして、もう一つの主たる理由は、シュタイナーのキリスト観が十分過ぎる程
オカルト感を持ちながら、そのまま伝えるにはあまりにも難解で、あれこれと自
分の想像力で補って解釈しなければ、意見としてまとまらないからではないか
と思っています。

 つまり、《知ったかぶりをするにも、うかつにはツブヤケない》のです。
そのため、常に攻撃のスキを与えたくない人達には、およそ近づかぬ方がよい
話題
なのだと思います。

 しかし、キリストの秘蹟の意味を考えることなしに、スピリチュアリズムを
語ることはできない
と、小生は考えています。シュタイナー自身、これ以前とそ
の後では、人間の霊界との関わり方が大きく変わったとしているからです。

 ★ キリスト衝動

 仏陀、心の道場、エドガー・ケイシー、濱田政彦、プレストン・ニコルズ、
ゼカリア・シッチン、バーバラ・ハンド・クロウ、ドランヴァロ・メルキゼデク、
東條真人
…彼等が共通に説いているものがあるとすれば、それは一見不条理
な現世の意味
ではないかと思います。

 恐らくそのキーポイントとなるのが、キリストの秘蹟の持つ本当の意味であ
り、イエスは単なる宗教上の聖人にとどまらず、人類にとって特別な意味を
もった存在
だったのではないかと思います。

 そして、それを最も大胆神秘的ながら、最も緻密な整合性を持ち、かつ、
今までのトンデモ話を全て包容するような形で示しているのが、これからお話
ししようとしている《キリスト衝動》ではないかと、小生は感じています。

 詳しくは後述してゆきますが、シュタイナーの説く《キリスト衝動》とは、ゴル
ゴダの丘でイエスが死んだことで、我々の体の一部に生じた《霊の体への甦り
を促す力》
をのことを言います。

 ただし、冒頭にもお話ししたように、とても小生のような凡人が、全てを見通せ
るような話ではありません。それどころか、人智学協会の高橋氏は、シュタイ
ナーの講義の翻訳書の解説の中でこんなことを言っています。

 「 シュタイナーは、そもそも《キリスト衝動》は、今日の霊学を
  持ってしても、ごく僅かな部分しか理解できない
、と言ってい
  るくらいです。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』
  p407《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 つまり、人智学の最先端でキリストの秘蹟の意味を説いていたシュタイナー本
人でさえ、その全体像は見えていなかった
わけです。それならば、小生ごとき
が間違えるのは当然のことと、逆に開き直れるというものです。

 それでは、そんなスタンスをご承知いただき、次回第148夜から具体的な
話へと入って行きましょう。

( 追伸 )

 中曽根君、君も《単なる政治上の悪人》にはとどま
らぬ存在だね。

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トンデモ話は奥で繋がる(146) 24.2.19

トンデモ話は奥で繋がる 「第146夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪輪廻転生 ⑯≫
 
 ★ 記憶の第二・7年期

 「第二・7年期」の7~15・6歳になると、ようやく「エーテル体」が《莢》から抜
け出て
来ます。エーテル体の成長には、単なる模倣ではなく、子どもにとって英
雄的な「価値ある具体的な手本」が必要とされます。

 何故なら、この時期にはまだ「アストラル体」は《莢》の中にあり、正義とか道徳と
いった抽象的な概念で行動する能力は、まだ発現されておらず、具体的な行動
でそれを体現する人物に「権威」を感じて付き従うからです。

縮輪廻 

   
    ( 西平直『シュタイナー入門』p129《講談社現代新書》より転載)

 また「エーテル体」の発育に伴い、その時期の子ども達は、特定の気質や習
を持つようになります。仮にそれが誤っている場合、単に警告を発しても「アス
トラル体」の発現されていない体は受け止めることが出来ません。

 そうした場合には、物語や比喩を用いて、そのような考え方や行動を持った人
物が、現実にどんな目に遭うのか、具体的に示してやることが必要だと言いま
す。

 「 思考の本来の姿である、抽象概念による内的作業は、第二・
  7年期の子どもには、まだ控えておかなければならない。それ
  は、外から影響されてでは無く、いわば自ずから生じるのでな
  ければならない。

   7歳から思春期に至る時期の魂は、人生や神秘な自然を、
  比喩と形象を通して受け入れる。この時期の思考は、思考以外
  の魂の諸体験の中で、次第に成長していかなければならない。

   そのようにして判断力を次第に成熟させ、思春期を過ぎた頃
  になって、生きることと認識することとに関して、完全に独立
  した自分の意見が持てる様にならなければならない。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクションⅠ(子どもの教育)』p61 
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)

 そして、この時期に何よりも優先して育てられるべきものは「記憶力」です。
そしてこの時期には、例えその段階では「知的に理解できないもの」であっ
ても、「記憶」を優先させる
べきものがいくつかあると言います。

 例えば、詩的な文章などは、たとえその全体が理解できなくとも、その語彙
の持つ響きやアクセント
として記憶に刻み、また掛け算の九九のようなもの
は、考える事より先に暗記すべき時期なのです。

 「 子どもは文法規則を知的に理解しないでも、言語を自由に話
  すことができる。

   同様に、子どもは、後にならなければ、概念的に理解できな
  いような事柄をも、記憶力を働かせて予め学んでおく必要があ
  る。

   それどころか、純粋に記憶だけで身につけておいたものこそ、
  後になって最上の仕方で、概念的に把握することができるので
  ある。

   …理解できない内容を記憶させるのは良くないという批難は、
  唯物論的な偏見に過ぎない。…後になって、概念によって把握
  できるように、予め記憶に刻印づけておく事が、子どもにとっ
  ては大切なのである。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクションⅠ(子どもの教育)』pp54-55  
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)
   
 ★ 真の意味での成・人・式
 
 そして思春期を迎える「第三・7年期」、「アストラル体」が《莢》から抜け
出て
来ます。この時期になって初めて、人間はこれまで学んで来た事柄につい
て、自分で判断を下せるようになります。

 「 あまりに早い時期から、自主的な判断をさせようとするくらい、
  人間に悪い影響を与えるものは無い。

   自分自身の中に、まず判断や比較のための材料を十分に貯
  えた時、初めて人間は判断を下すことができる。

   それ以前に自主的な判断をしようとしても、そのための基礎
  が欠けているのである。
  (…中略…)

   それ故、思春期以前の子どもは、事物についてのどんな理
  論からも守られていなければならない。

   そして、日々の諸体験を魂の中に受け入れることに、主要な
  価値が置かれなければならない。
  …………………………………………………………………………

   模倣する存在だった時の人間は、体の中に、魂に必要な力を
  貯えました。その力によって、第二・7年期になると、道徳感情、
  共感、反感の力
が育ってきました。
 
   そして、第三・7年期に、子どもはのびのびと個性を生かしな
  がら、つまり自分の知性で道徳的な判断を下せるようになるの
  です。ちょうど太陽の光に応じて植物が花を開き、実を結ぶよ
  うにです。

   第一・7年期の《体》第二・7年期の《心》の中で、道徳
  のために用意されたものが、ちょうど植物の実が稔るように、
  自由に人生を生きるために目覚めるのです。」

     (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクションⅠ(子どもの教育)』
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 こうして、3つの体を生育させた私達は、20歳前後にして《自我》を脱皮させ、
文字通り《成人》するのです。現代の《成人式》はシュタイナーから見れば、まさ
しく理にかなった儀式となるでしょう。

 ここまででようやく、西平氏のサイクル最深部に達します。つまりここから
の年月こそ、4つの体が全て機能した本来の人間としての人生を歩み始める
ことになるのです。

 無論、それまでに若くして夭折した魂もあります。しかし、それらの魂は、成
人後に死の門をくぐった魂よりも、それぞれの体が霊界でより多くの霊的な力
へと変換され、来世で大きな仕事を成し遂げる者が多いとも述べています。

 ★ 老化と4つの体

 さて、サイクル図が示すように、人生の後半に差し掛かると、再び4つの体が、
順に成長とは逆の変化を始めるのだといいます。ただし、この部分については、
シュタイナーは多くを語っていないと西平氏は言います。

 「 ところが、その時期が過ぎた頃から、シュタイナーの話では、
  《発達》の視点がぼやけてきて、成人期・老年期に当たる時期
  の説明がない。
 
   ごくわずか、
  《人生の後半生は、前半生を遡るようにたどり直す》
  とか、

   或いは、
  《前半とは逆の順序で、アストラル体がエーテル体から養分を
   とり
始め、次いでエーテル体が物質体から養分を取るように
   なり、それが、老年期における物質体の衰えと関連する》
  という程度である。

   それは、例えば、幼年期の詳しい説明と比べて見れば、物足
  らないものである。何故シュタイナーは、人生後半について十
  分論じなかったのか。

   彼がもう少し長生きしていれば、いずれは論じたことなのか。
   それとも、その理論の枠組みからして、展開しにくい領域だ
  ったのか。或いは、本当は老いや衰えの内に、前半とは異なる
  独自の価値を見ていたのか
。」

span style="color: #9900ff"> (西平直『シュタイナー入門』p131《講談社現代新書》より転載)


 西平氏の図にもあるように、成人期以降の4つの体について、僅かに述べ
られているのは、まず《アストラル体》が《エーテル体》の養分を奪い、その
《エーテル体》が《物質体》の養分を奪うということぐらいです。

 しかし、これだけでも、人間の《老化》について、随分興味深いことが語られ
ているように感じますので、以下、小生の独断による考察を加えてみようと思
います。

 まず、第二・7年期に《アストラル体》が《エーテル体》に与えた成長力
取り返すように書かれています。

 小生は、この力こそ、第136夜でお話しした《意志する感情》の元になる
力ではないかと思います。つまり、死の門をくぐった後の、霊界での生活の
ための準備
を始めるのです。

 そして、その代償として《エーテル体》の能力が奪われます。その主た
るものは、《新しい環境への適応力》《新しい事柄の記憶力》でしょう。
まさに精神活動の《老化》の始まりを示すものです。

 次いで、第一・7年期に《肉体》の成長をサポートしてきた《エーテル体》が、
《肉体》に与えた成長力
を、同じように取り返すと書かれています。

 これが、第135夜でお話しした《過去の記憶=思い出のタブロー》にな
るべき力と《身体的な活力》ではないかと小生は思います。この時点で肉体
的な《老化》と、過去の記憶の喪失
が始まるわけです。

 こうして、それぞれの体は、誕生以前にそれぞれ独立していた状態に還
ってゆくべく、死の門をくぐる準備を始めてゆくのだと、小生は思います。まさ
に見事な《4つの体のサイクル》がこうして完成するのです。

 さて、次回第147夜からは、シュタイナーのキリスト観へと話を進
める予定です。

( 追伸 )

 中曽根君、君には是非「本当のことをしゃべって
しまう」老化が訪れて欲しいものだね。

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トンデモ話は奥で繋がる(145) 24.2.12

トンデモ話は奥で繋がる 「第145夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪輪廻転生 ⑮≫
 
 ★ 未完成四重奏曲

 さて、第141夜では、シュタイナーが転生に向けてのハードウェアについて
述べている部分を引用しましたが、その最後で、シュタイナーは次のように述べ
ていました。

 「 高次の構成要素が、最初から完全に胎児に結びついている、
  と思ってはならない
。…生まれてからあとは、様々に段階的
  進化していく。教育にとって、もっとも大事なのは7歳から14
  歳
の間の時期である。」

   (ルドルフ・シュタイナー『神智学の門前にて』p67
   《イザラ書房(西川隆範訳)》より抜粋転載)


 つまり、誕生の瞬間には4つの体が全て結び付くものの、それらのハードウェ
アがいきなり全開モードになって四重奏を奏でる訳ではないのです。いわば
それぞれの楽器を持っただけの素人の集まりなのです。

 …というと、
 《子供はだんだん成長してゆくものだなんて、当たり前の事だ》
 と言う声が聞こえてきそうですが、その成長の仕方が独特なものなのです。

 一言で言えば、4つの体は、それぞれ成長する時期が異なり、ある体が成長
する時期には、それだけを集中して完成させなければならない、いわばマンツ
ーマンで、一人ずつプロに仕立てるレッスンが必用だと言うのです。

 そして、それぞれの4つのパートを、その成長時期に合わせて一つひとつ成長
させてゆく指揮者に当たる教育法…それこそが、シュタイナーの教育法と呼ば
れているものに他ならないのです。 

 ★ 西平氏の永遠のサイクル図

 さて、その4つの体の成長の過程を見事な形で図示してくれたのが、前述の
西平氏です。それでは再度、141夜の図表に登場願いましょう。

縮輪廻 

   
   (西平直『シュタイナー入門』p129《講談社現代新書》より転載)

 我々が地上界での「一生」としているのは、図の左半分に当たる「物質体の誕
生」
から「物質体の死」までの間です。そして地上界においては、転生の過程と
は逆に、物質体―エーテル体―アストラル体の順に成長すると言います。

 そしてシュタイナーは、それぞれの成長が完成するまでの期間を、7年毎の時
、1~7歳まで、7~15、6歳(女性の方が幾分早い)、15~20歳前後まで、及
びそれ以降に区切っています。

 「物質体」の成長は文字通り、基本的な身体能力の源ですが、「エーテル体」
の成長は「記憶、気質、性向、恒常的な情熱」
を、「アストラル体」の成長は
「人格形成に必要な他者との人間関係、概念的判断、批評的態度」
の源と
なります。

 ★ 模倣の第一・7年期

 さて、「第一・7年期」つまり7歳までの幼児は、「物質体」の感覚器を通じて、
周りの「物質環境」をひたすら模倣する時期に当たり、「模倣と手本」というキー
ワードを用いて、次のように説明しています。

 「 幼児は物質環境の中の中の出来事を模倣する。そして、その
  模倣の中で、身体器官が特定の形態をとるまでに成長すると、
  その形態が一生保たれるのである。

   物質環境という言葉は、できるだけ広い意味に受け取る必要
  がある。

   幼児の周囲で、物質的に働きかけてくるものだけでは無く、幼
  児の感覚が知覚できるもの、物質空間から幼児の心に働きかけ
  て来るもの
、そういう周囲の一切の営みがこれに属する。

   幼児が見ることの出来る道徳的不道徳的な行為の全て、
  れた
、そして愚かしい行為の全てもこれに属する。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクションⅠ(子どもの教育)』p36  
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 ★ 莢入りのエーテル体・アストラル体

 そして、この時期の「エーテル体」と「アストラル体」は、ちょうど誕生前の胎
児の体が《母体》という《莢》に包まれているように、目に見えない《莢》をまとっ
ており、まだ外界から働きかけることはできないとされます。

 例えば幼児期には、時として驚異的な「記憶」を示す子どももいますが、それ
は歯で言えば乳歯に当たる「エーテル体」の《莢》の部分の支える記憶力
あり、それを無理に引き延ばしてはならないといいます。

 「 《 けれども、子どもは歯の生え変わる前でも、記憶その他を
    持っている…ではないか 
》、
   そう言って批難を加えようとする人は、ここに述べていること
  を十分に理解していないと思われる。

   エーテル体もアストラル体も、生まれた時から存在している。
  ただここで述べたような保護する莢の中で存在している。そし
  て、まさにこの莢が、歯の生え変わる前のエーテル体に、記憶
  力を発揮させているのである。

   しかし、胎児は肉眼を、その保護する母体の中でも既に所有
  している。この保護された眼に、外からの物質的な太陽光線が
  働きかけてはならない。
 
   それと同じ意味で、教育者は歯の生え変わる以前の子どもの
  記憶力を育成しようとしてはならな
いのである。

   この時期の記憶力は、養分を与えられるだけで、まだ外から
  手を加えられずにいるなら
それ自身の力によって自由に伸び
  ていく
のである。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクションⅠ(子どもの教育)』
  pp31-32 《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)
 

 同じことが、アストラル体についても言えます。この時期の幼児は、目に見え
るもの、感じるものを、善悪の区別無くそのまま模倣する時期なのです。

 そのため、周りの大人たちは「道徳や善悪」を教え込むのではなく、ひたすら
手本となる行動や言動を、子ども達に真似させる形で教育が行われる必要が
あると言います。

 「 愛情に包まれて、健全な手本を模倣することが出来る時、子
  どもは正しい世界の中にいる。子どもに模倣させられないよう
  な事柄
を、子どもの環境の中に生じさせないように、出来る限
  りの努力を払わねばならない。
   
   《そんなことをしてはいけないよ》と子どもに言わなければな
  らないようなことを、我々自身が子どもの前でしてにならない

   子どもがどれ程、模倣に徹しようとしているかを知るには、例
  えば文字を理解するずっと以前に、既に文字を真似して書いて
  
いるところを観察すればいい。

   子どもはまず文字を真似して書き、その後になってその意味
  が理解
できるようになるが、このような模倣は、肉体が発達す
  る7歳までの時期にとって非常に必要な態度なのである。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクションⅠ(子どもの教育)』
  pp42-43《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 ★ ただ体作りに専念すべし

 そして、シュタイナーは、この時期の人間にとっての課題は、「物質体」である
体を健全に発育させることのみに集中
することのみであると、次のよいうに言
い切っています。

 「 歯の生え変わる7歳までに、人間はひとつの課題を遂行しな
  ければならない。その課題は、人生の他の諸時期の課題とは
  本質的に異なっている。

   すなわち、身体の諸器官を7歳までのこの時期に、特定の形
  態までに発達
させなければならない。それらの器官の組織構
  造に、特定の方向付けを与えなければならない。

   成長はその後も続いていくが、その後の成長は全て、7歳ま
  でに作り上げられた形態に基づいて
行われる。形態は正しく作
  り出された時、正しい仕方で成長し続ける。歪んだ形態が作り
  だされた時は、歪んだまま成長していく
。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーコレクションⅠ(子どもの教育)』p35  
  《筑摩書房(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 さて、次回第146夜は、第二・7年期以降についてお話しします。

( 追伸 )

 中曽根君、せめて幼児の前では悪行をしないで
くれたまえ。

目次のペーシへはこちらから

トンデモ話は奥で繋がる(144) 24.2.5

トンデモ話は奥で繋がる 「第144夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪輪廻転生 ⑭≫
 
 ★ 成長の限界点

 前夜までにお話ししたように、我々が再び転生への道を選択する理由のひ
とつには、現世で他の人達に与えてしまった負荷について、清算せずにはお
られない衝動がありました。

 しかし、シュタイナーによれば、転生への道を選択する理由には、もう一つ
の側面
があります。そしてそれは、主として前世で得がたい修練を積んだ魂
に起こることのように思われます。

 このような魂が死の門をくぐった場合には、霊界で高次の霊的存在から、
我々が理想とし、目指すべき姿を教えられることで、その成長のレベルは、
最高潮
に達しています。

 しかし、我々が前世の間で学んだことには限りがあります。従って我々が
そこから受け取れる叡智にもまた限界があるのです。その時、我々の中に
次のような思いが起こります。

 「 神々の力がお前に働きかけた。それはお前の魂の内的な力
      となって、今お前の中に生きて働いている。

   しかしお前は、この力を持ってしては、もはや先へ進めない
  所まで達した。

   何故なら、さらに前進しようと思うなら、お前は今までよりも
  はるかに完全
でなければならないからだ。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーの死者の書』p112 
  《ちくま文芸文庫(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 この内なる声の導くままに、転生の過程へと進んでゆけば、我々は又次の
成長に向けての経験を積むことができます。しかし、ここに誘惑の罠を仕掛
ける存在があると、シュタイナーは言います。

 ★ その囁きは神か悪魔か

 その存在こそ、スピリチュアリズムの中でも、功罪様々に取り上げられる存
在であるルシファーです。彼は、今回獲得できる最高点にまで高められた我
々の力について、こう囁くのです。

 《 そうだ。お前は今なら神々の後についていける。お前は神々
  が与えてくれた力と一つになれる。お前は霊界の中へもっと
  もっと深く参入していけるのだ。》

 《 この機会を失うな。お前は今なら霊界に留まり続けることが
  できる。お前は十分進化を遂げてきた。その成果の全てを、
  今なら霊の力に移し変えることができる。》 

      (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーの死者の書』p112・113 
  《ちくま文芸文庫(高橋巌訳)》より抜粋転載)
 

 どうでしょう。現世で辛酸を舐め、その成果を受け取った魂に対して、或
いは昨今はやりの《アセンション》を夢見ている多くの魂にとっても、最強
の誘惑
ではないでしょうか。

 そして、このルシファーの言葉も、全くのデタラメではなく、ある意味では
真実
なのです。転生か霊界にとどまるか―この究極の2者択一の意味を、
シュタイナーはこう語ります。

 「 自分が全く霊的な存在になれるという展望が、私達の前に拡
  がっているのです。

   しかし、私達がそうなるのは、私達が偉大な人間理想へ向か
  う道を踏み外した時
なのです。つまり、私達が全ての《不完全
  なもの》を担ったまま
、霊界への道を進む時なのです。

   確かにその《不完全なもの》は、そこで《完全なもの》に変
  化
していくでしょう。実際、そうなっていくでしょう

   私達は神的な力を内に取り込んでいますので、不完全なが
  ら霊界に参入し、不完全ながら霊的存在になれるでしょう。

   しかし、その時には、これまでの道の上でまだ育成できなか
  った素質、偉大な人間理想へ向かう素質を断念しなければな
  らないでしょう。

   私達は地上に受肉しようとする度ごとに、霊界に留まり、霊
  となり、既にあるものだけで神と化してしまおうという誘惑
  やって来ます。」  

     (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーの死者の書』pp112-113 
  《ちくま文芸文庫(高橋巌訳)》より抜粋転載)
 
   
 つまり、ルシファーの《輪廻転生の道から逃れて霊的な存在になれる》
という言葉に嘘はないのです。そして、日頃《輪廻からの解脱》のみが唯一
の目的のように思っている人達にとっては《神の声》に聞こえます。

 しかし、その道を選んでしまうと、もはやそれ以上の進化はありません。
無論、それで十分だと思う人もあるでしょう。ルシファーは、その人達にと
っては《真実を教えてくれる存在》です。

 ただし、ひとつ覚悟しなければならないのは、前世までに他の人達に与え
てしまった負荷を清算する機会は、それで失われることになります。そして
負荷を与えてしまった物を見る度、その過ちにさいなまれるのです。

 また、全く負荷を清算しきった場合でも、その成果として受け取った力を、
地上界で役立てることも出来なくなります

 しかし、小生の私見的には、何よりも《耐え難い》と思われるのは、我々は
《唯一存在》の分身のひとつに過ぎなく、本当は全く孤独な存在であること
を、永遠に感じなければならない
ことではないか思います。

 そして、万一全ての《分身》達が、《輪廻からの解脱》を選んでしまえば、
《唯一存在》は、もはや孤独感に打ち勝つ方法を無くしてしまうことになる
のではないかと思うのです。

 ★ 肉体の究極的な役割

 実際、シュタイナーは、この段階で、我々が全く一人でルシファーの誘惑
に立ち向かうとしたら、それに屈してしまうだろうと語っています。そして、
それに打ち勝つためのものこそ《肉体》であると言うのです。

 「 現在の人類の進化段階では、この時のルツィフェルの誘惑 
  に耐える事は―もしルツィフェルの敵である霊達が人間を助
  けてくれなければ―出来なかったでしょう。

   『神々の宗教』を通して人間を理想に導く神々と、ルツィフ
  ェル
との間で、人間の魂をめぐる戦いが今生じるのです。

   そしてこの戦いの結果、将来地上で生活する人間の原像
  が時間界から空間界へ投げ入れられ、空間界に吸い込まれ
  ます


   それは、人間が空間界へ移って、空間界との親和性を獲得
  する瞬間であり、両親による磁力的な吸引力が生じる瞬間な
  のです。

   その時には、霊界に留まろうとする誘惑の力が全て、人間
  の周りから覆い隠されます。そしてその《覆い》《身体》なの
  です。

   人間は、体内に組み込まれましたので、ルツィフェルが人間
  の眼前に示そうとしたもの
を、見ずにすませられたのです。

   この体的な《覆い》に包まれた人間が、身体器官による感覚
  と悟性の働きだけで世界を見る時には、誘惑者に誘われて
  界の中に留まろうと願ったことを知らず
にいられます。

   そして霊的世界を専ら外側から、感覚と、頭の働きである
  性との示すままに見る
のです。そして人間の指導霊たちが、
  人間の進化の責任を負うのです。」 

    (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーの死者の書』p113 
  《ちくま文芸文庫(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 つまり、我々の《進化を遂げる神々》は、我々からルシファーの誘惑を
遮断
するため、肉体を纏わせて霊界から引き離し、霊界を我々の眼前か
ら覆い隠す
のです。

 このために我々は、地上界にいる間は(シュタイナーの言葉を借りれば、)
《ちょうどよいと思える程度》にしか霊界を知ることができないのです。

 逆に、もし遮断されぬままに地上界に降り立てば、我々は一歩進むごと
に、ルシファーの誘惑にさらされ、いつも不完全な魂のまま霊界に参入しよ
ういう衝動
に駆り立てられてしまうとシュタイナーは言っています。

 ★ 常に百%信ずることなかれ 

 さて昨今、一部のリーディングマスター達が、アセンションによる意識の変
により、一部、或いは全ての人類が、通常の輪廻転生から抜けられる
いう説を唱えています。

 しかし、シュタイナーが説く輪廻転生によれば、我々はちょっとやそっとで、
そのサイクルから離脱できるほどの魂の進化は得られないということにな
ります。

 小生は、十中八九、シュタイナーの説が正しいような気がします。

 が、しかしです。人智学協会や、彼の信奉者の方には怒られるかもしれま
せんが、百%足を突っ込むのではなく、足首ひとつは外に出すべきでは
ないかとも思っています。

 当初の第十夜でお話ししたように、小生は、これこそ「絶対の真理」だと悟
ることは、我々には永遠に出来ないのではないかと思っています。そしてそ
れは、シュタイナーにとっても同じかも知れないのです。

 万一、シュタイナー自身が《進化を遂げる神々》に騙されているとすれば、
ルシファーこそ真実を語る神であり、我々は早々に輪廻転生から離脱した
方がよいということだってあり得るのです。

 その時、我々は《この人が言った事だから信ずる》という態度で臨むので
はなく、最終的な判断は、我々自身が行うべきなのです。そのためにも、
輪廻転生に関する、あらゆる可能性を知っておく必要があると、小生は考え
ています。

 ですから、逆も又然りです。現段階ではシュタイナーの言うことが全く理
解できない
という読者の方も、《こういう見方がある》ということだけは、悟性
の中に留めておいて損はないと思います。

 さて、次回第145夜は、転生後の人生についてお話しする予定です。

( 追伸 )

 中曽根君、君の肉体は『普通の人間の良心』まで
シャットアウトできる特別仕立てのようだね。

目次のペーシへはこちらから

トンデモ話は奥で繋がる(143) 24.1.29

トンデモ話は奥で繋がる 「第143夜」
-弟子のクッテネルがお送りします。

≪輪廻転生 ⑬≫
 
 ★ 過去の諸体験の決着

 さて、霊界の真夜中を過ぎ、過去の生活の果実として、来世でどのような
能力を得るかを体験していると、私達は、転生に関わるもうひとつの重要な
光景
を見ることになると、シュタイナーは言います。

 「 そのようにしてしばらく霊界を生き続けますと、やがて周囲
  の霊的環境の薄闇の中から、ひとつの光景がはっきりと現
  れます。

   それは、私達自身の過去の諸生活の光景であるとともに、
  その生活と密接に結びついた人間関係の光景でもあるので
  す。
  (…中略…)

   死から新しい誕生までの人生の大部分の間、私達はかつ
  て地上で親しい関係にあった人たちと体験を共にしています
  から、それまでもその人たちと結びつきを保っていましたが、

   しかし霊的生活の真夜中時の後、改めてその人達と再会
  するときには、《私達がその人達に負担をかけていた事柄》
  
と、その人達が私達に負担をかけていた事柄》とが、はっき
  りと見えるのです。
  (…中略…)

   今やこの人達は、以前の諸体験に決着をつけるために現
  れるのです。

   その人々が私達に向かって来る時、私達は来世において
  どんな体験
をすれば、その人々に負担をかけた以前の行い
  に決着をつけることができるのかを、その人達から見て取る
  のです。」

 (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーの死者の書』pp199-200 
  《ちくま文芸文庫(高橋巌訳)》より抜粋転載)


 前世において、自分達の行為のため、他の人の負担となってしまった事柄、
いわゆるカルマが、一つひとつの光景となって意識されるようになるとシュ
タイナーは言います。

 それに対して、私達の魂は《それを償いたい》という思いに駆られることに
なります。そして《それを償う方法》まで、はっきりと認識することになります。
しかし、同時にこう悟ります。

 『 お前がかつて地上に生じさせた不正な行為を償うには、
  再び肉体を身につけなければならない。

   その時にもなお償うことが出来なければ、お前がさらに
  死の門
を通った後で、この人がまたお前の前に現れて
  しみを促す
であろう。』
  
  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーの死者の書』p201 
  《ちくま文芸文庫(高橋巌訳)》より抜粋転載)

 ★ カルマの呵責

 ここで、誤解のないように少々説明しますが、

 《この人がまたお前の前に現れて苦しみを促す》

 と言っているのは《その人が霊界で敵討ちに来る》ということでありませ
ん。シュタイナーは『その人に嘘をついた』ことを例に挙げてこう説明してい
ます。

 私達は、自分が嘘をついた相手を、しばしば霊眼で見ます。すると、相手
を見るたび《嘘をつくべきではなかった》という真実が湧き起こって来て、
それが私達を苦しめるのだと言うのです。

 《なんだ、そんなことなら現世でもあることだ》と思われる方もあるでし
ょう。もちろんその通りです。よほどの極悪非道の人間でない限り、何か
しら良心の呵責を感じるでしょう。

 ただし、現世と違うのは、
 ● どんな極悪非道な方にも、自らの心に湧き起こること。
 ● いつどこに居ても四六時中、湧き起こること。

 でしょう。これはかなりきついと思います。ましてや誰しも、犯してしまった
不正は、ひとつやふたつどころではないはずです。

 しかも、霊界においては、《負担をかけた》と理解することは出来ても、
清算することはできず、償うためには再び地上に転生し、その方法を実
するしかないのです。

 この一連のカルマのシステムが、私達に強烈な《転生への衝動》を呼び
起こす原因のひとつとなっているシュタイナーは言います。

 原因の《ひとつ》と言っているのは、上記のような《負》からのものではなく、
《正》の衝動もあるとして、シュタイナーは次のような衝動の例も挙げていま
す。

 「 私達が過去に体験したある種の喜びを回顧して、次のよう
  に言うとします。

   『 このような体験をしたのだから、再び地上に生を
    享けた時のために、今この体験を地上生活に役立
    つ能力に変えよう
』」 

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーの死者の書』p201 
   《ちくま文芸文庫(高橋巌訳)》より抜粋転載)

 
 これ以上の説明がないのでよくわかりませんが、《過去に体験した喜び》
を、次の地上生活に是非役立てたいという衝動も、転生に向かわせる力
となるようです。

 ★ 妨害に立ち向かう 

 しかし、シュタイナーは、私達が過去の体験を来世に役立てる能力に変
換することを望まない、ある種の四大霊が存在するのだとも語っています。

 その能力は、来世で特定の人に役立てるためには必須のものであり、私
達は何としても得る必要があります。

 しかし、無理に手に入れようとすると、回りの四大霊は、自分達の叡智の
一部が奪われて
、自らの存在が暗くなるように感じるのだと言います。

 その結果、四大霊達は、我々が転生する時を見計らって、同時期に地上
に転生している、一人又は複数の人間に憑依
して、その人間に敵対
するような意図を吹きこむのだと言います。

 私達は、自分の転生の目的を果たすために、霊界では、このような四大
霊達を敵に回す
他ありません。それでは、現世でのこのような四大霊の
妨害
に、我々はどう対処すればよいのでしょうか。

 今はやりのスピリチュアリズムの指導者の多くは、この手の《闇》の部分
には関わらず《そのままそっとしておき》、
ひたすら自分の霊性を高め
るのに専念しなさいと言います。

 さて、それでは神秘学の源である、シュタイナー自身はどのように語って
いるでしょうか。以下、シュタイナー自身の言葉を記してみます。

 「 この敵達をそっとしておく方がよい場合もあるでしょう
  しかし、反対の場合もあります

   私達がそれをそのままにしておくと、この敵対的な四大霊
  達は、地上でいろいろな人に働きかけて、私達が四大霊から
  奪い取ったものの代償を、たっぷりと受け取ろうとします

   私達が奪い取ったものよりも、もっと多くのものを得ようとし
  ます。

   そしてその結果、再び死の門を通った後で、私達は四大霊
  から自分を守ることが出来なくなります。彼等は、能力を得
  た私達を打ち殺すかもしれません。」

  (ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーの死者の書』p203 
  《ちくま文芸文庫(高橋巌訳)》より抜粋転載)  

 実際、最後の《打ち殺す》が、既に死の門をくぐった我々にとって何を意味
するのかはよくわかりませんが、存在そのものさえ消えてしまうのか、或
いは得たものを全て失うのかも知れません。

 いずれにせよ、この種の四大霊を放って置けば、我々が得て来た以上の
ものを、私達から奪いとるよう、地上の人間を仕向れてゆき、死後にお
いて、その力で我々の存在そのものを脅かすのです。

 数あるスピリチュアリズムの指導者の方も、今一度よく考えてみて
ください。

 
彼らの闇のシステムには屈するべきでは無いのです。霊性の向上の
ためにも、断固戦うべきなのです。
 
 そうしなければ、いくら今世で霊性を高めても、霊界でその全てを奪わ
れては何にもなりません。
そして彼らが野放しにされ、強大になればなる
ほど、被害を受ける魂の数も多くなるのです。

 彼等の力は、一見巨大に感じますが、実際はほんの一握りの、しかも
心の奥底では決して一枚岩でない烏合の衆であり、我々の大多数が
しない道を選べば、消滅させ得る
存在なのです。   

 さて、続きは次回第144夜転生の最後の関門についてお話しします。

( 追伸 )

 中曽根君、君こそ典型的な、
その種の4大霊に取り付かれた見本人物だ


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プロフィール

握力は小学生よりない力なし。ひっそりとこのシャバの片隅でモーニングを食べている凡人です。猫、鳥、虫等、とやり合いながら暮らしています。

るんるうん

Author:るんるうん
またの名はクマネルです。ふしぎなことが好きです。着物も好きです。

たまに、魚を捌きます。猫におしっこをかけられたこともありますし、珍しい体験もあります。

たまに-クッテネル-が記事を書きます。そちらもよろしく。

いつのまにか歳をとりました。

☆★☆管理画面★☆★


☆★☆

十二か月の着物

手持ちの着物を月ごとに替えて表示してみました。2015年1月
縮縮きものあわせIMG_1116  蕪柄の小紋と、金の傘の柄の帯 冬の野菜-かぶら-は、ほっこりとした暖かさを感じます。帯の地色は新春の華やぎを...

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