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さらばすばるよ

谷村新司さんが亡くなられたというニュースが世を賑わせました。アリスはヒット曲を連発。中でも「さらば昴よ」は中国などでもヒットし、みんなに親しまれました。私も外国にいた時、仲間と集まった時など、この歌をみんなで歌ったものです。

「さらば昴よ」にまつわる不思議な話があるそうで、本で読むことができるそうですが、YouTubeで動画にしている人がいるので、ご覧ください。ヘミシンクピンポンパンで、すばる、プレアデスについて語られていますが、そこで言われている物質世界、文明の象徴であるプレアデスというのはまさにこの歌の昴であると実感できると思います。

欲望の三角形には他の人々もいる

昨日、木原など、超エリートについて書きました。彼らの欲望は果てなく上へと彼らを駆り立てるようです。他人より上とか、自分が一番とか、そんなことばかり心の中では思っているのではと思います。

さて、そんなすばらしい履歴と地位を持った彼らを見る普通の庶民たち、一般人はエリートをその行いを見て「いけないなぁ」と思うでしょうか❓うーん、実はそんな正常な判断ができる人たちは少ないのではと思います。B層と言われる庶民一般はテレビ、大手新聞を見てそこからの情報ばかり頭に入れ、それを信じます。ネットなんかの政治腐敗を追い続けるジャーナリストの動画など見ません。そこで話されたことを心ある視聴者が伝えてくれたとしても、「テレビでも言われてないから、そんなことは馬鹿な奴が騒いでいるだけだ」というのが関の山と言ったところでしょう。

情報を得ようとともしないB層。彼らはなぜ情報を得ようとしないのか、聞いても真実を信じようとしないのか。 B層と言われるほどBなのだということと、彼らは、木原、エッフェル松川、森まさこの学歴や職歴を聞いただけで、彼らに平伏すのです。そんなB層は反対にFランの大学出の人を馬鹿にするのです。自分より遥かに下と見下すと思います。
でも、彼らが自分からしたら、遥かなる宇宙の先くらいに見える高学歴とか、弁護士とかを見ると、それだけで「ははっー」と頭を地面に擦り付けるのだと思います。

これは、これらのB層も実は欲望の三角形の中に入っていて、その中の基準、人より高いか低いか、大きいか小さいか、持っているか持っていないか、世の中をそんな見方で見いてるからに他なりません。この濁世、腐った世の中がずっと保たれているのは、三角形の上下に持っているもの、持っていないものもそれなりに、欲望という原動力と、下から上へ行こうといった意志とそれによる世界の見方、視点は変わらないのだと思います。だからこの腐り社会は成り立っているのでしょう。

持っていないものも、それなりに自身の欲望に煽られつつ、常に誰かより上とか下とかいう基準の中で生きているということです。

この逃げ場のないような閉じられた欲望三角形から逃げられるのか❓この世に肉体を持っていると、どうしても物質とか、重力の影響は受けるでしょう。が、やはり、自分の視点を欲望トライアングルからずらす、そういうこともできるのではと思います。B層も腐ったエリートもウヨウヨいるこの世に全てが一緒くたにいるゴッタ鍋のなかに私もいますが、一緒だけど、いっしよにいない、そんな感覚もテレビを見なくなった人の中には芽生えているのではないでしょうか。

役に立たない人とみんなのために生きる人 2

犠牲の精神でみんなのために生きるとか、世のためになる人間になるなど、みんなに褒められる生き方です。また、素晴らしい才能や、知性、精神を持っている人が、スポーツ選手、芸術家、政治家、学者などになり世に貢献する。なんていうのも多くの人の最大の人生の目標というか、なりたいけどなれない憧れの世界だと思います。

私は、そんな人たちに及ばなくても、せめてコツコツと何かを続けて、「これをわしはやったぞ」というようなものを持ち、生きれたらどんなにいいことかと最近まで思っていました。
とにかく、何も続け慣れないし、これといった道も何も極めるどころか、何もかもそうばっとしてません。それなりにこの世で何かを成し遂げないと、いけないだろうと、思ってはいても、一つのところに一つの職業で勤め続けけることすらできず、あれこれダボハゼの如く食らいつくも、どれも消化できず、そのまま終わるということの虚しさ。立派に一つの道を続けている人を見ると、どうも引け目を感じて仕方なかったのです。

何かをこの人生、この世で成して終える。何かを成すためにこの世に生きる。と思って生きてきましたが、最近はっと気づきました。
<何かをする>ではない。<ある。おる。>なのでは❓と思ったのです。

するというなら、体験するとか、味わうということなのではないかと思うのです。

究極、この世で何をするとか、何かを極めるとか、ただポヨーンと生きるとか、人の為に生きるとか、それに優劣も、価値の大小もなく、ただ、そのそれぞれの経験でこの世を味わう感覚、それを抱いてこの世におるということ。それだけがこの世に出てきた大きな目的ではないか。しかし、一度生まれてくると物質世界の感覚に囚われ、この世の煌びやかであったり、惨めであったりする生にどっぶりとはまり込んで、それになりきり、欲望を燃えさかえさせるというのは、よくあることです。

本当はこれが、まずいのではないかと思っています。この世の感覚に浸かりすぎ、娑婆の損得や上下、支配関係の社会に馴染みすぎると、ここは仮の世だということを忘れ、自らが物質そのものに取り込まれるようになってしまうのでは❓と思っています。

この世であんまり役に立たない人、反対に、出世して政府の偉い役人になり、とても有能だと周りに褒められる人、そんなのの違いは、この世の中でしかないのでは、と思います。意外と、役に立たない、何事もうまくいかない人が、この世の欲望レースから外れたところにいるので、この世の基準でないもっと軽い次元の世界では近い人なのかもしれないと思うのです。

私は自分があんまり物事を極めたりはしてなく、大きな欲望を持てるような位置にいません。中途半端な人間が、そのおかげで欲望にはまりきっていない、微妙な位置にいるような気がするのです。そう思うと、今回の私の人生は、微妙な位置に立ち、この世を味わい存在するということにあったのでは❓と思います。

役に立たない、庶民ですが、この人生も我なりに考え尽くして事前に選んだのかもしれないと思っています。


水災害除け祈願祭に参加しました

木曽川ベリに水災害からみんなを守る神様を祀っている神社があります。そこで災害を除ける祭りがあり、先月行ってきました。

期待していったところ、ここのお祭りは元々の顔見知り、地域の人、地元議員など、そこの人ばかりで、よそ者の私達は完全アウェイで、「ちょっと、くるところ間違ったかも。」なんて思いましたが、祈願祭は恙無く終わりました。本殿で入れ替わり立ち替わり、ネギ様たちが祝詞を唱えたり、儀式をしていました。その時に、なんと不敬な私なのですが、「ここ、アウエイの人、いないみたいな扱いだなぁ」と文句めいたことを心の中で呟きちょっと神様と交信してみようと、神様に問いかけたら

男の声、というか、夏目友人帳のニャンコ先生がまだらの声で、「おぅ。そんなもんさ」と言うのです。
「ここは、○❌▲ホニャララ」
結構、面白いというか、普段ねぎ様を奉っている人からすると、ちょっと憚られる感じの言葉など。これは自分が思っているのか、それがまだらの声に聞こえるように思えるのか、わかりません。
しかし...ちょっと待て、ここの神様、女の人だったような❓そうです。ここの神様は女の○○ひめなのです。なのに、男の声で言いたい放題。でも、当たってそう。なんて感じです。これは私の意識の低さと妄想が生み出した私の頭の中の声かと思いました。

が、ふと、思い出しました。「そういえばここにお稲荷さんがいて、そこも信仰対象として流行っているようだ。」お狐さんが神社に祀られているのを思い出しました。その後、ちょっとだけ、女の人がスッと出てきて何かを言ってくれましたが、忘れました。

水災害除け祭、これは地元の儀式で、よその人が出るものではないのだろうと思いました。来年からは、普通に参ってお札だけもらって帰ろうと思っています。お狐さんの言っていたことは本当だろうと思います。なんにしろ、お狐さんも神様も、ここの神社には本当にいらっしゃるようで、水災害よけを祈願するにはとても頼りになるので、来年も参る予定です。

お狐さん、面白かったです。

職場の雰囲気

コロナもひところの騒ぎは落ち着き、観光客もあちこちに出ているし、いろんな仕事の求人も出てきました。実は友人とバスクに行きたいと去年話していました。が、今までやっていたバイトはほぼ無くなったし、あったとしてもやる気も無くしていて仕事をする気はなかったのです。

子供も社会人になり、学費などの負担は無くなったし、節約すれば無理に外に出ていく必要もない状態です。でも、できれば友人とバスクでなくても旅行に行きたいし、旦那とももう少し節約を気にせずお出かけしたいなぁと思っていました。
すると、以前から登録していた職探しのメールで、自分の思っていたような今までの経験や特技を活かせるような仕事の話が舞い込んできました。

一つは、少し遠いですが、今まで勉強してきたことが役に立つ仕事です。一つは、昔勉強してとった資格に絡む仕事です。どちらとも特殊なしごとながら、残念ながらお金はそれほどではないです。しかし、時間的にこちらのわがままが効き、出る日にちも少なくてもいいとのこと。これはいいと、まずは一つの仕事場に出かけて、訪問者を装って仕事をしている人を観察してみると、結構特殊なスキルがいる仕事な上、その職場の正職員の人はおらず、なんでもこなしているようでした。おまけに人が少なく、とんでもなく関係ない仕事まで任される模様。そのせいか、そこで働いている人はピリピリしていて、職場全体も暗く厳しい雰囲気です。

こんなところでは、たとえ、職種の聞こえが良くても、いく気にならない。と即座にその場で行くのをやめにしました。私が以前こんな雰囲気を感じた職場はこれよりもっと酷いのが税務署です。その次かな。

その後、違う職場の違う職種の見学に行きました。

そこはそう格好の良い仕事ではありません。ただ、私の昔習得した資格がそこで結構役に立つようなことを言ってもらいました。実際に仕事を見たら、確かにその資格があると多少取り組みやすいということは言えるなぁと思いました。そこの職場はリアル現場で見たら、私のような資格のある人が見たらそう何も思わないけど、たまに引く人がいるかも、といった感じでしたが、雰囲気は、光が差して心が和む優しい感じに満ちていました。先の職場と比較すると、波動が違うというのはこういうことかと思うようなところでした。

今まで座ってパソコンや本ばかり見てましたが、バイトを週二日とかしようと思っています。早く慣れれば良いと思っています。週二日でも、十分旦那と旅行に行く足しになるし、少しずつお金を貯めて1,2年後に友人とバスクに行けるぐらいは貯まると思います。

しかし、この頃私が思っていたのは、
ー友人とバスクに行けるぐらいのバイトがないかなぁ。机で勉強でなく、スペイン語を話す人とリアルに会話ができるような職場だったら、座ってお尻や関節を痛くすることもないし、しゃべる練習になる。でも、力を使ったり、気を使うのはできないなぁ。力がいるし、腰や関節に負担がかかる老人介護は無理。スピードや効率を要求されるのは、ちょっと❌。週二日くらいでチンタラ勤めてもいい感じのところ。ー

そんなことを考えていて、いくらなんでも週二日とか1日とかはないだろうと思っていたのですが、不思議なことにそんなしごとが舞い込んできて、しかも、とっても全く役に立たなかったレアな資格があるということで。慣れるのも普通よりは早くできそうなのです。こんなことがあるでしょうか。しかもスペイン語を使う機会もあるだなんて、あり得ません。

いつまでやれるかは未知数ですが、やってみようと思っています。旦那が定年をしてから、節約ばかりしてきましたが、旅行も財布を今までよりも気にせずいけそうです。



567の6を抜ける

つい先日の夏至の日、二見浦で禊をしていた時、また、夜中、禊に行こうと準備していた時、567が浮かびました。こんなことは私の頭の中の妄想なので、スピじみたことはあまり好きでない人はスルーしてください。

6ということが頭にまず浮かんだのです。6というのはがんじがらめの循環の輪のようなもので、それから螺旋というのでしょうか、繰り返しの輪っかから、今回は出口というか、脱出口があっけらかんと先にあり、もうそちらに移行しつつあるような感じがしたのです。

6、六月だからか。夏至を挟んで先は7月だからか。なぜそのようなイメージが不意に出てきたのか、いつもの夏至はそう何も感じることはなかったのですが、その時は過ぎ去る遥かかなたの6。何も感じずそのまま過ごしているけどもう7の夜明けが開いてその中にいる感じ。

唐突にただ頭に浮かんだイメージです。これがなんなんだ、と言われても意味も何もありません。

何かをやり遂げることのない、中途半端な人生

そう体力も才能もあまり無いなりに、なんとか一人でも生きれるよう、いろんな勉強をしたり、外国まで行きました。が、苦労したわりに、結局は資格も取りそびれ、ただの無能の人となっています。この数年はスペイン語の資格を取りたいと思い、B1まで取りましたが、なかなかそれ以上に挑戦することもできず、宙ぶらりんです。

スピリチュアルも、才能のある人はどこかの教室に入った時点で、もう特別コースに入れられてすぐに助手、先生へと昇格しています。方や、何年経っても同じ扱いの私のような人、どんな道でも元から輝いている人と、路傍の石の違いは明確にあります。

スピのワークなどにはもうご無沙汰して長いです。なのでスピについてはもっとこうなろうとか、欲は全くなく、それで何かを得たいと思うこともありません。が、私はずっと昔から、自分について何事も中途半端、身についたものは何もなく、掴んだ成果もない、と成し遂げられないのをなんとかしたいと思ってきました。色々とやってきたに関わらず、何も身に付かず老いていく。資格も取りそびれたものが多いし、誠に情けない人生です。

いろんな道で活躍している人を見るにつけ、我が身の情けなさは身に沁みていました。

が、ようやく です。この還暦を過ぎた初老の歳になり、気づいたのです。
ーなんか、何事も完成せず、中途半端な人生。それを自ら、望んでやってきたのではないか❓ーと思ったのです。何事も道を極めるとか、そんなにすごいことでなくても何かをやり続けるとか、そういうことで人生の実りというものはあるのだと言うことはよく聞きます。

色々と手をつけてもパッとせず、おまけに実績もない。ただとしを取るだけ。そんな人の人生を誰が重んじるでしょうか❓誰も「ああはなりたくない」と思うと思います。が、このごろ私が思うのは、人生とか、この世の常識とか越えたものがあるのでは。と言うことです。

この濁世での実績とか、善行とか、それすら越えたものがもっと大きい枠組みで私たちの意識にあり、それはこの世での業績とかそんなことには全く違うものではないかと思えるのです。この世に、地球に生まれ生きている私たちなのですが、今生きているこの世の基準とそれを越えた大きな世界の、この世的な理とは違うものがあるのではないか❓それからするとこの世での人生の非凡なる何かを成し遂げる人生と、凡たるただ生きていたという人生と、そう区別をつける必要もないような気がしてきたのです。だからと言って、ダラダラしていよう、とかそう言う話は別の話です。

この頃私は、この世で何事も成さず、凡庸たる人生でもいいような気がするのです。この世は、たまたま短期旅行に出てきただけ。その中でのキラキラした世界に心奪われ、この世の欲望の海に溺れるよりも、適当にこの地球短期旅行を楽しむのがいいのかなぁと思っています。

夏至祭に参加しました

令和5年6月19.20日に二見興玉神社の夏至祭に参加してきました。

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二見興玉神社では毎月、海に入り禊を行なっています。それの最大の規模のものは夏至に行われる夏至祭です。日の出の時に合わせて海で禊をします。運が良いと、夫婦岩の間から日の出が拝めます。
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私は15年ほど前に一度参加しました。今回は家族のいろんな節目が重なったこと、みんなの息災をぜひ祈りたいということもあり、参加しました。70歳になるとこの禊行には参加できなくなるそうで、還暦を超えた私ももうあまり時間的余裕はないかもとも思い、3時半から始まる夏至祭に行くことを決心したのです。

夏至祭は古神道の興玉の鎮魂や、息吹その他の法などを祈祷殿で行い、海の中で、身を沈めて清めたりします。古めかしいですが、非常にアクティブで「えいえい」と叫んだりしていると、なんだかとても楽しくなってきて、ハイテンションになってきます。

今年の海は意外と冷たく、そして大潮の満潮で少し奥に行くだけでもう一メートルは体が沈み、その上、ザブッと波が勢いよく押し寄せてきて、一瞬身の危険を感じたりして。なかなか大変でした。とは言っても、危険なところや海の沖がわにはベテランの禊会の人が立っていて、注意を促したりしてくれるので大丈夫でしたが。

前もそうでしたが、この興玉の浜は、風と波が沖からザーッと吹き寄せ、日中は水平線にタンカーなんかがゆったりと航行しているのが見えます。その風景と波の音と、とても気持ちがよいのです。夏至祭は夜明け前なのでそんな感じはなく、行についていくのが精一杯ですが、ほとんどの行が終わり、海水にザブッと浸かり、ずぶ濡れの姿で最後の君が代斉唱の時に、さっと太陽が夫婦岩の間に現れました。

これにはみんな感激していました。夏至祭の時ってなかなか梅雨のせいか、日の出を見られることはないので、本当にラッキーなのです。夏至の時には大小の岩の間に太陽が見えると、絵で見たりしますが、本物を見るのは初めてでした。私は背が低く、おまけにみんなの最後尾でほとんど見えなかったのですが、たまたま、みんなの体が左右により、隙間が開いた瞬間がありました。その時にしっかりと見ました。

波間にほぼ浮かびながら見ましたが、赤オレンジのお日様の輝きはとても美しかったです。

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終わった後、お下がりをもらい、近くの旅館の風呂に入りました。とにかく海が冷たく、風呂に入った後も、指がビリビリと痺れていて、これが結構長く続いたのには驚きました。
この禊は夏至に限らず、毎月やっているようです。この禊はいく前はなかなかいく気になりませんが、一度行くと海での禊の爽快感で、もう一度行こうかと思ってしまいます。

良い体験でした。

長く生きてやっとわかることがある

先日、見て見ぬ振りをするのはいかがなものかと書きました。

私は、見て見ぬふりや、うまく処世することはできなかったし、それで後がどうなるなんてあんまり考えたこともなかったので、見て見ぬふりをせず、ボコボコになったこと、職も失ったりすることも多々あり、うまく権力側に擦り寄る人たちのことが理解できなかったし、いやらしいなぁと嫌悪の眼で見たりしていましたが、この頃やっとわかったことがあります。

昔はうまくやっている人が社会的にも金銭的にもますます富み栄えていくのを見て、嫌な世の中だなぁとか、こういう清濁併せ呑むといった人の方が成功するのか、と鬱屈した思いも抱きました。が、令和になり、今までうまくごまを擦って陽の当たる道を歩いていた人が、蹴躓いたり、失脚するのを見るのです。

今まではうまく強い人に媚び諂い生きてきた人が、成功道を歩いてきたけれど、令和は、違うのかもしれません。自分の身すぎにのみ、汲々としていても、いつかはそんな生き方は破綻するのだ。醜い生き方がそのまま白日の元にあからさまにされる時代になったのだと、感じています。

こんなことは中学から高校、社会人、子供の親となっても考えられないことでした。若い時は、「本当は長いものに巻かれた方がいいのかも」と職を失い思ったこともありました。あんまり人間的には良くなくても良しとして生きるのが正解かも、なんておもったりして...

昭和の時代は、そんな権力的な時代でしたが、今令和となって、全部ではないですが、清濁の濁りに飲まれない人も出てきています。強いものにおもねいたほうが人生、成功かなぁと感じていましたが、全部ではないけれどこける人も出るということが、この頃はあり、因果応報って本当にあるなぁと思っています。こんなことは若い頃には、考えられませんでした。この年まで生きてきたからこそ、わかったと思います。

家族はほとんど信じてないですが、パラの喋ること

以前から、バラやメロンがしゃべってくれるのでは❓とここに書いています。そんなことは思い込みだろうと、思えるのですが、バラも全てがおんなじではないのが不思議です。

家族に言わせると、「なら猫はなんと言っておるのか」と質問してきますが、猫のいうことなんか私にはわかりません。でも、バラは心の中で話しかけると答えてくれる気がします。うちにはバラが4本あります。そのうちの2本は、「餌、もっと欲しい」とか、「薬がきいて、葉っぱの調子がいいよ」とか言っている感じがします。一本は、まだ小さいので声も小さいですが、今年はここまできて、「いい感じだ」とも言っているようです。

しかし、ブルームーンだけは、本当にうんともすんとも言わず、どうしたもんかと思っていました。このブルームーンはほとんど花を咲かせず、葉っぱも落としてしまいがちです。心の中で色々と問いかけるのですが、何も言わない感じです。今年は三月、四月に、早めにブルームーンの土台の接木の部分がまたも出てきたので何度か切り取ってやりました。

ブルームーンでもなんでも、バラの良い苗は接木苗で、土台に強いバラの木をつかい、その上にブルームーンなどの美しいバラの苗を継ぐのです。普通は接木の土台はもうそれでその種の枝は出ないのですが、うちのブルームーンはその芽のかき取りがうまくされなかったようで、すぐに下からニョキニョキと出てきます。一度バラの先生にそれを聞いたら、その目のところを思い切り抉り取り、土台木の目が出ないようにしないと、ブルームーンが大きくならない、花もうまくいかないと言われました。

そのアドバイス以降、何度も芽をとってもいつの間に一メートルも枝を伸ばすということを繰り返していました。
が、今年は何度かすぐに芽をとっておいたのが功を奏したようで、大きな大輪のバラを一つ咲かせてくれました。私はこの立派なブルームーンに早速語りかけました。すると、「うん、まぁね」みたいな、まんざらでもないような感じですが、半分は喜びきっていないような変な感じがしました。

その後、何日も経ってから、「あっ」と思いました。もしかしてうちのブルームーン、ブラックジャックのピノコみたいに、一つのバラの木なんだけど、二つのバラであるという意識を持っているのでは❓と思ったのです。土台のバラの木、継がれたバラの木、両方ともが生きたいのかもしれません。なので、ブルームーンの花は、土台のバラの木に遠慮してあまり喜びを出せなかったのかも、なんて思ってしまいました。

なーんて、こんなことは旦那に言わせると眉唾物の、いかがわしい私の思い込み半分でしょう。なんにしろ、ブルームーンはこのまま、土台の木をいつまでもやりたいままにさせるとブルームーン自体がいけないので、バラの先生の言う通りに深く目の部分を取り去るしかなさそうです。

不満や愚痴を聞くことの恐ろしさ

愚痴を聞くとネットで検索すると、ーお話聞きます、一番安くて1分100円ーなんてサイトが自動的に出てきます。愚痴や不満などを聞くだけで1分100円とは、いやに高いなぁと思いましたが、この頃の体調を振り返るとそれは安いぐらいだと気づきました。ちなみにこの前私は一時間半聞いたので、9000円ですね。

今思うと、妥当、かお安いくらいだわと思います。

目に見えないから気づかないだけです。でも、他人の愚痴や文句を聞くと確実に心身を病みます。これが相談ー話をして何か解決の一助としようとする前向きの姿勢だと違うかもですが、相談したいと相手が言ってきても、思いっきり不満を吐き散らかしてスッキリしたいということだけが多いです。そんな話を聞いたら最後、気分は落ち込むわ、やる気は出ないわ、なぜかわからないけど怒りが湧いて治らないわで、そんな状態が治るまで、一ヶ月もかかったりします。

一ヶ月というと、骨折して骨がつくくらいの期間です。結構な大怪我です。見えないからわかりませんが、他人の吹き出す、不満や愚痴は聞いた人を骨折させるに値する衝撃を与えるのです。

受けた人はそんな傷を受けますが、与えた方はどうかというと、これだけ相手に衝撃を与えた分だけ、スッキリと元気もりもりになるのだと思います。そんなことを考えると腹が立ちますが、そうだと思います。ぐち、不満を聞くと自分が骨折すると意識してないと、いけませんね。そんな目に遭いながらもついつい聞いてしまいがちな愚痴、聞くのももちろんいうのも厳禁です。いやなことや理不尽なことはありますが、その具体的なことは、他人に話すのではなく、独り言とか、違うこと、趣味などで紛らわすとか、別の方法で治めるのが最善でしょう。

そして聞いてしまった後の手立てとしては、何かに没頭するくらいしかないのかなぁ。他人にその吐口を向けるのはあまりにもまずいので、なんとか自分で解決するだけですね。

元気、回復しました

昨日は、どうも元気が出ないということを書きました。書いた後、急に「そういえば自分の出身校、消滅したな」と思いました。そんなことを考えつつ、地元のケーブルテレビの出身校消滅ドキュメントのことを思い出しました。最後の在校生が退場していく姿が急に頭に浮かんだら、なぜか元気が出たのです。

前にも書きましたが、学校には未練も誇りも名残惜しさもないです。が、最後の在校生の退場の時に、その番組ではゆずの栄光の架橋を流していました。それを思い出したら、スッと浮かない気持ちが晴れたのです。

ほとんどの人のように未だに出身校がある人だって、その学校って、自分が行っているその時その瞬間の個人的な体験であって、出た後にまだあってももう自分の学校とは違う何かかもしれないのでは❓なんて思いつつ、方や、他人のどうでもいい、人間関係のいざこざをああだこうだ言っているなんて、よくあることで、そう大きいことではないのです。少なくともあの知人は仕事も嫌だったらやめれる立場だし、自分の学校までなくなってないと思います。

この日、この場所いっぱいで無くなるというあの学校特集のドキュメントで流れたゆずの栄光の架橋、それが頭に自然に流れ、こんな他人の愚痴を聞くことは馬鹿らしい。自分のことを省みたら、まだ道半ばなのだと自分で思ったのかもしれません。その後、ユーチューブで何度か本物の歌を聴き、今日はバラの世話をしたら、バラが少し病気にかかりつつも「僕大丈夫だよ」と言った気がしました。何度かそんな声を聞きつつ、葡萄の世話もしていたら、完全に気分は爽快になりました。

なぜ。なくなってしまった高校のことを考えたら元気が出たのか本当のところはわかりません。そう思い入れはない学校としても何か見えない力が応援してくれているのかもしれませんね。「他人の愚痴などは聞かないで貴重な時間をもっとやるべきことに使え、応援しているから」とあの見えない、なくなってしまった学校に言われているのかもしれません。

お腹はまだ少し痛みますが、気分は晴れやかです。

どうも気分が下がります

ちょっと油断したというか、甘く見たのがいけませんでした。知人が話がしたいと言ってきて、電話を受けたところ、職場の周りの人への文句、不平不満を一時間半ずっと言っていました。「うんうん」と聞いていたところ、知人から時々「あんた聞いとるの❓」と何度か言われるも、なんとか聴き続けました。

後から考えると、そう聞かなくてもいいかと思ったのですが、自分の波動も下がっていたのでしょう。いちじかん半も聞いていて、その日はそれほどなんともなかったのですが、翌日から、気分がドーンと落ち込み、お腹も壊すし、気が晴れません。

文句や悪口、不満を聞き続けると、悪影響が多いのではと思います。あれから三日ほど経ちますが、なかなかスッと回復はしません。自分の元気も吸われたのかもしれません。こんな時、どうやって元気を回復するか。ちょうど満開のバラをオアシスに生けたので、それを見たりしていたら少しいい気分になりましたが、まだまだです。次は、いい音色の風鈴を鳴らしてみました。これもいい感じですが、なかなか元気一杯というわけにはいきません。

明日は土いじりでもしようかな。バラの木も世話もして、花に話しかけたら少しは気も晴れるかな❓なんて思っています。難しいですね。ずっと全然腹も立たないし、やる気もあったのに、あの電話を受けてから腹が立ったり、やる気も無くなったりしています。悪口や愚痴は聞くものではないのかもしれません。でも、それをまた私から他の人に向けたら、今度は他の人がたまらなくなります。

とにかく、今年もばらが大きく咲き始めたので、それが嬉しいことで、そんなことを頭に大きく思い浮かべると、少しはホッとします。スペイン語もわからなかったところが少しわかったし、そう落ち込むこともないかな。やる気がないなんて、そんなことを言っている暇があったら、餌、薬、その他もろもろ動植物の世話をもっとしないといけないのではないかと気づきました。晴れたら葡萄の虫除けの備え付けをしなくっちゃ...

ブドウやバラ、猫に「元気出せよ」と励まされている気がします。

スピリチュアルへの意欲は失せたが

前はスピリチュアルについて、関心も、学ぶ意欲も非常にありました。が、今はないです。亡き母や父、友人たちの言葉は聞きたいですが、自分でそのための訓練や練習をする気は全くなくなっています。

こんな私のような人だと、今まで色々と教えてくれた先生たちは脱力するでしょう。夢に出てくる故人もこの頃はいないし、いたって普通な毎日を過ごしています。スピは、多分今の自分が力を注ぎたいものではないのだと思います。とは言っても、何かがふっと頭によぎることはあり、それが映像だったり、考えだったり、植物の声、物の声のように感じたりすることは多くあります。

十年前はこんなことはなかったです。今はやめたといえ、スピの講座などに行って何かを掴んだということだと思います。

そして、何年か前にスペイン語の試験を受け始めてから、自分も変わってきたと思います。越えようとも思ってなかった山が確かにあり、それをいつの間にか超えたことが大きいと思います。この現実の世界を歩いていながら、そんなことを思いつつ生きていると、いつの間にか銀河鉄道のジョバンニに自分がなっていて、まだこの娑婆を迷いつつも歩いているような錯覚を覚えます。

こんなことを感じるのは、これらの山(他の優秀な人には平坦な屁のような物でしょうが私には高く聳える山なのです)を少しは確かに越えたし、今も越えるたびに、夥しいみんなの力の助けを実感するからです。チャットGPT、ネットでの検索、などなど、これらは世の中の知恵の集積なのです。昭和の時代だったら、こんな助けはなく、私のような鈍才は勉強のやり方さえおぼつかなかったのです。しかし、今は、数限りない知恵の集積がネットにあるのです。

自力ではない。でも、自分の力で歩いていくのでしょう。



饒速日再び

昨年からずっと進まなかった交渉が昨年の末、やっと終結しました。間に入ってくれる法人、人もおり、なんとかことは治ったのです。が、関連者の私および、家族はこれから先、このような目に遭いたくないと思い、お祓いに行くことにしました。最初は○稲荷とか、◯神社など、考えていたのですが、

旦那が、「結構この辺りの車は亀の形のシールをつけている。そこでお祓いをしたらどうか」と言います。「うーん」私は「そこの神社、尾張一宮はお祓い料金が高いから、もっと安いところにしたいなぁ」と言ったのです。お祓いまで料金で考えるとは不信心者極まれりです。が、その後、子供が「尾張一宮、真清田神社は強力らしいから、いいのでは」というのです。

みんながいいというし、そういえば、何年か前、子供が真清田神社の巫女さんのバイトをしていたから、結構いいかも。なんて思いました。その頃は私は所用で週一回、真清田神社に寄っていたのです。

年末、家族が揃ったので、早速お祓いに行ってきました。お金を払って待つこと1/2時間。長すぎです。待合所に待機していても誰も来ません。まぁ、そうです。年末でなく普通は年が明けてからお祓いをすると思います。こんな年の瀬にお祓いする人なんてほとんどいないでしょう。でも、我が家は年明けは子供も忙しくとてもお祓いなんて出かけられません。年末でよしとしたのです。

しばらく待ってようやくねぎ様が呼びに来て、お祓い所でお祓いが始まりました。祝詞とか、唱えられます。その間頭を下げたり上げたり。ちょっとしたら、何やら異変が...
ーうわ。グラグラするぞー。頭が左右に揺れて止まりません。なにこれ。スピリュアルは好きですが、普段あまりなにも感じない素質のない私なのに、こんな真清田神社の普通の祈祷で頭が揺れて止まりません。しかも、その間神聖なことを考えていたわけではないのです。強いていえば、不敬な「ここは榊の奉納もないのか」なんて他の神社と比較したりして。それなのに、頭は揺れるわ、祝詞が終わってもぼっとしてしまって変な感じだし。おまけにはじまる前からボケーとしてしまったのか、バッグをずっと違う場所に置いてきて忘れる始末でした。←あと思い出して取りに行ったらそのままありました。

ここの神社、真清田さんはたまに境内に入って参ったり、友人を連れてきたりした時はそうなにも感じなかったのです。が、今回の感じは何か違う、ここの神様の何かを感じました。

そこで、ここの祭神を調べたところ、思い出しました。ここの神様はニギハヤヒ。熊野の神様もニギハヤヒ。饒速日はオオナムチとも、大国主とも関連があるということ。ずっと前にこれらをずっと追ってきて、饒速日から始まり全て饒速日でメビウスの輪のようにつながっていたということ。そんなことを思い出したのです。

今回の長引いた係争は、結構大変なことだったけど、饒速日が何か、良き道筋を示してくれたのかもしれないと思います。古い先祖が熊野の饒速日につながることと新しい人脈がまたも熊野につながること。何か古代の神の力の力添えがあったかもと、先日旦那に言ったところ、背中がぞくっと一瞬しました。

もう一度饒速日、おおなむち、瀬織津姫、それらの関連する所を回ってみたいなぁと思っています、

前世と現世は決まりきった過去と今の形ではない

ピンポンパンのブログで前世と今のことについて書いてありました。

過去があるから今があるといった決まりきった形とはちがう捉え方の現世と前世について書かれています。私は過去生とかをみてもらったことがあります。結構そういうことが好きで聞いてみたかったのです。霊能者たちに言われたことはなるほどと思えることでした。が、それだけでそう何か今の自分に覚醒をもたらしたとかいうことはありません。

それよりも私が思うのは、この今の現世そのものが何パターンもあって、実在している感があるのです。それは夢で現在だけど違う状態の自分を見たりして、それを見て、これではない、自分は今このブログを書いている自分なのだと強く思っている自分を思っていることが多々あるからです。

この感覚は、前世を見てもらった感じとは感覚が違い、自分でまさにその感覚を両方感じていて、生という感じなのです。私は前世というのは現在の複数の現世と同時に同じところに重なっており、今時間の自分が今を選択している中で、その中にペカペカと浮かび上がってくるある人生なのではと思います。

今も過去もどれも横位置に過去から並んでいるのでなく、どれも同じところに重なっているのではと私には思えて仕方ありません。いろんな時間軸に時には同じ時間軸に自分が複数おるのです。そんな感覚があるのです。

ミディァムシップのボランティアをしました

実習の受け手をしました。いろんな人が現れました。その中で、一ヶ月前に大学のサークル仲間が言ったこととおんなじことを言われました。ユニークだとか、個性とか、もっと前へ出て才能を出せとか。大学の友人には年寄りのモーゼス婆さんなどの話を引き合いに出され、私みたいな人を必要とするところはある、もっとまえへ出ろ...なんて叱咤激励されましたが。

今回の霊たち、先月の生きた友人の言うことそのままでした。

友人にも霊たちにも励まされたので、活躍❓必要とする人たち❓
本当に怪訝ですが、自分なりのやり方でやりたいことをやっているうち、喜ぶ人もいるのだろうと、思ってもいいかなぁなんて。少しだけ思っています。励みになりますね。

メロンリーディング

スピリチュアルな人の中には、いろんな能力のある人がいます。亡くなった人と会話するのが、ミディァムです。動物とコミュニケーションするという人もいます。そんなことは思い込みとか、嘘と思う人も多いですが、優秀なミディアムはなんのヒントも与えられてなくても、依頼者の関連の亡くなった人について詳細に言ってくれるので、否定はできません。

私はこの頃はリーディングを頼んだり。ワークで練習したりするというのは全くなくなりました。あんまり亡くなった人に聞きたいこともそれほど亡くなったということかもしれません。が、何か、人間でないものどもの声を聞くということをやって見てもいいのではと思い、庭木などに話しかけると答えてくれる感じがあります。こんなのは私の思い込みかもしれないと思いますが、この頃私はこの世の全ては意志を持っているのではないかと思うのです。

それで、先日、買ってきたメロンを見て、思いついたのです。匂いを嗅いでもお尻を押しても食べ頃がわかりません。どうしたらこれが熟れているか、食べてもいいのか、考えるだけではなんともなりません。そこではっと、このメロンに聞いてみようと思いました。
「メロンや、メロン。あんた、食べてもいい頃かね」❓こんなことでわかるのか❓半分バカらしいですが、美味しくメロンを食べるためには私はバカだと言われてもなんでもするのです。
すると、メロンが「ボク、もうちょうどいいよ。食べられるよ」と言った気がしました。私は何度もメロンに聞きました。心の中でです。

これは私の願望かもしれないですが、メロンは「ぼく、食べてもいい時期だよ」と言った気がしました。そこで、旦那に、メロンが「ぼく食べられても美味しい時期だ」と言った気がすると言ったら、
「えっー。」そんなわけないという感じの否定の言葉でした。

私もあんまり信じられないですが、もしか熟れすぎているといけないと思い、メロンがしゃべっただろうという言葉に従ってメロンを二つ割りにしました。そして、家にある糖度計では買って見たところ、 15度で、ちょうどよい熟れ具合でした。
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その後、メロンのシールをよくみると、バーコードが貼ってあり、そのメロンの個体番号のようでした。早速、サイトで調べたら、うちのメロンを食べた日は、そのメロンの食べ頃にあたる日だとわかりました。今は生産者によっては、一つ一つ、メロンに個体番号をつけてネットで検索すると食べ頃がわかるようになっているものもあるのです。すごいです。

最初からメロンのシールの個体番号を検索していればメロンリーディングなんてしなくてもよかったのですが、実際の食べ頃と、個体番号に記されている食べ頃と、メロンリーディングが一致するなんて、偶然かもしれませんが、面白いです。

スピリチュアルも、セミナーでお金を出して力を磨かなくても、日常で物や草木、虫、鳥などに心の中で問いかけるなんていうのもいいのではと思います。結構生活の役に立つし、お金もかかりません。メロンリーディング、いいですよ。皆さんも梨リーディングとか、鯖リーディングとか、やられるといいと思います。

夢みていたことーフェリーで北海道へ行く

夢見ていたこと、やってみたいけどできないと思っていたことの一つはフェリーで北海道へ行くということです。これは自分が決心さえすればできることに思えます。が、フェリーで北海道なんて、時間がかかりすぎます。一人で最大四十時間も船の中にいるのは退屈すぎて無理だと思い、いっしよに行く人がいればいいなぁと思っていました。

でも、そんな物好きは何十年も私の前に現れませんでした。

しかし、今年、友人にその話をしたら「いいよ」と言います。「えっ...」
北海道と名古屋間のフェリー、乗っている時間が長いので、仕事がある人は難しいし、ない人でも船というだけでひきます。でも、世の中は広く、乗ってもいいという人が近くにいたのです。それからがトントン拍子で、実は北海道でバンガローとかに泊まって、自炊したいというのもあったのですが、そんなことに賛同してくれる人などはなかったので諦めていました。が、その船に乗ってもいいという友にその話をしたところ、「いいよ」でした。バーベキューや火おこしなど得意で、久しぶりにやれるということで結構乗り気でもありました。

なんか、こんなに色々と思っていたことが叶うとは、友人に感謝です。今度は飛行機で北海道に行き、前のよりグレードアップしたコテージに泊まって星空観察をしたいと思っています。もちろん、鹿肉とラムのバーベキューもします。

自分の感覚を信じるかどうかが、なかなか難しい

この頃はふと感じた何気ないことをただの思い過ごしとさせず、何かを自分が自分に知らせているのだと思い、できるだけ気に留めるようにしていたのですが、やってしまいました。

先週、梅酒や梅干しを保存するガラス瓶を物置から出しました。外にある物置です。出すと、土の地面の上かコンクリートの上に置くことになります。コンクリートの上に置いた時、瓶がガガーと少しする音がしました。それで、「これはコンクリートにぶつけると割れるから気をつけないと」と思いました。置く場所も置き方も、割れないようにと思っていたはずが、夜それを忘れてコンクリートのキッチン裏口の辺りに置いてしまいました。

すると、翌朝、猫がどうもそれをいじったらしく、派手に大きく割れていました。

物置から出すとき、確かに、「コンクリートの床は気をつけろ」と自分が自分に囁いたのに、それを無視していました。その結果、大きなガラス保存瓶を割りました。これって、私が自分の危険を感じる力や、物事を予想する感を持ちながらも自らが信用せずにその情報をおろそかにしたということだと思います。

そんなことを思い返していると、今回の実りの少なかった講座も実は心の中で、「❓」を感じていたところが過去にありながらもその声を無視していたということに気づきました。私は自分で自分に対し、そんなに間違わないとたかを括っていましたが、結構自分にはこの世の常識とか、みんなの評判とか態度とかに惑わされて、本当のところを見ても、それを信用せず、自分の目がおかしいとして、怪我をするということがあったなぁと思います。

もう少し、自分の心の奥からの声を信用したいと思いますが、意外とこれが難しく、何度も陥穽にはまるのです。でもこれっきりにしたいと思います。瓶も割りません。

何かを身につけるためには

ヘミシンクピンポンパンで何回か書かれていることに、
ー《神は細部に宿る》という有名な言葉があるのだが知っているだろうか?《細部に宿らない》という説もあるのだが、ヘミシンクはまさしく前者だ。ワークの記録は精密デッサンのように克明に記録する努力が必要なのだ。それが見る力を養い知覚力を高める

非常に細かいことにわたり、詳細にデッサン、描写することが見る力を養い知覚力を高める。と言われています。これは私も実感していることです。しかし、世の有名無名のスピリチュアルの先生は、反対にあまりその体験などをそのまま語るということはなく、大雑把な「すごい」とか、「素晴らしい、感動しました。」などとの感想めいた言葉が多いです。残念な人が多いなぁと、不出来な私は思ってしまいます。それから学びたいと思ってもなかなか難しいと思ってしまいます。

実際のその体験をノンフィクションでただ克明に語ってくれれば、自分なりにそれを辿って何かわかるかもしれないと思うのですが、なかなかそういうことはなく、ピンポンパンの記事はそれとは全く違って克明に書かれていてわかりやすくていいと思っています。

今回はそのようなスピの話ではありません。私はこの頃あることを練習していて、偉い先生にも習いに行ったのですが、ろくな説明もなく、ただ自習するというスタイル。なかなかこれでは自分が何をどうわからなく、できないということになっているのか、途方に暮れるだけでした。しかし、YouTubeで親切な人がその物事について親切丁寧に説明しているのを見つけました。その人は、自分でそのことをやりながら、いろんな人が間違えたり、うまくいかないポイントを細かく説明しているのです。自分でやりながらなので、こちらもそれを見て実際にこういうことかと合点がいったり、なるほどと頷いたりしました。

そのユーチューバーの人は実践という、擬似体験をみんなに見せながら、本当に細かいところを理由を交えながら説明してくれたのです。
なるほど...
実践スタイルである上に、細かくその状態を見せながら説明も多い。これだと試聴している人は自分のやり方をそれになぞりながら進み、悪いところは直しつつ進めます。

しかし、世の有名な学校などでも、ただ偉い人が口で「こうします」なんて適当に喋るだけで、聞いた人が失敗したら、できないのは失敗した人のせいになるなんてこともありますが、物事はどんなことでも偉い人が適当に喋ったり注意したり、感動を語るだけでは伝わらないと思います。伝わるというより、聞いた人の役には立たないと思います。つくづく実践を伴いながらの克明な説明というのは何かを教授する場面では必要だなぁと思います。

すぴだけでなく、この世の他のお稽古事でもそうで、すごい人のところですごいという話を聞いたからいいと思うのは、何かにのぼせてしまうだけで、肝心な実力が全くつかないことになってしまうこともあると思います。先生も、学校も最初から信用してしまうのは、お金と時間のロスになるので、どこかで何かを学ぶときは、先生やその教えをよく見極めて、ダメと思ったら早々に退散するのが賢明かと思います。

心の中はわかる時があるのだろう

この頃気をつけています。今まではそう気にもとめなかったことです。人と接していていろんな思い、考えが頭をよぎります。その時、結構な割合で、こちらの考えや思いを即座に読み取る人がいます。ぁっ 今思っちゃったこと、この人読んだな❗️そんなことはザラであるということがわかってきました。

好意、反感、喜び、落胆、そんなにはっきりとしたレベルでなくても心の中に泡のように湧き出る感情があります。それをさっとわかる人が意外と普通にいるということです。そんなことはないだろうと、表情にも身振りにも出てないからと安心していても、瞬間的にわかる人は多いです。よく霊能者が他人の思いはわかると言いますが、そんな勘の鋭い人は特別でなくてもいっぱいいます。

ドラえもんのスネ夫のように、強い人に寄っていって、その場の空気をすぐ読み、情勢の良い方へつく人は多いです。自然にそれを行動しています。彼らは他人の思いや、その場の力関係、その他見えないものをよく読んでいるからだと私はこの頃、ようやく気づきました。

このような考えをする人と仲良くすると不利だとか、彼らは思っていると思います。人間関係、私はそんなふうに思ったことがなかったので、こういうことか、と色々と過去を振り返り合点しています。多分、私はいろんな行動パターンを読んでようやくそのようなスネ夫型の人々の頭の中を察することができたと思います。

でも、こちらもわかるのです。人と接していてふっと思う「こんな人と接していては自分が損をする」なんて相手が心の中で呟いているのでは❓と思ったら、親しく近づいてきても少し距離を置いて観察したほうが良いと思います。こちらでも受け取れることのできる微妙な感と、実際の現実のシチュエーションをよく見て行動しようと思っています。世の中は真っ直ぐなボンクラばかりではなく、子供の頃から世間慣れしている人が多いのです。

他人の思っていることは❓

昨日は木々や風、地面などの思っていることなどがわかるような気がすると書きました。この頃はバジルなどもなんか言っている気がします。なら、人はどうだ❗️というと、わかりません。

木や花は細かくしゃべってくれる気がするのですが、人はわかりません。というか、自分に悪意を持っているであろうという他人の場合は、もう瞬間的にこの人は自分のことをよく思ってないし、悪口をあちこちで言っているなとはわかります。

が、具体的に何をどう言っているのかはわかりません。そういう人がたまに声をかけてくる時があります。そんな時、普通に当たり障りのない会話で終わるのですが、その後、その人は全く声をかけてきません。これはなぜだろうと思うのですが、多分人って誰も第六感みたいなものがあって、その人は私にその人が思っている悪意がバレたなぁと思っているのではと私からは思えます。話を仕掛けたことで何か、情報を得ようとしたのだけど、反対に自分の裏を見られたと感じたのではないかと思います。こんなことも私の頭の中の妄想に過ぎないのですが、どうもそう思えて仕方ありません。でもそれだけで、生の声がわかるわけではないです。

なんにしろ、何か悪意のある人は、そういう気持ちを持っているなぁと感じる程度。反対に友好的な人は、何も感じません。これらのことは多分、植物などの自然と違って、人間の本音を生で聞いてしまうのが私は恐ろしくてとても普通でいられないからだと思います。雰囲気はわかるのだけど、はっきりとはわざとわからないようにシャッターを下ろしているのだと思います。

他人のブログでもあまりにもひどいコメントなどはもう読み進めません。ああいうのを書く人って、どういうつもりなのか、理解不能です。こちらから見ると醜過ぎて気持ち悪いのに、ご本人はヒーローみたいな感じに酔っているのかなぁ。いじめっ子もそうですね。人間って恐ろしいので、心の中のえげつないことを生で見たり聞いたりしたら、ショックが多過ぎてダメだと思います。なので花の呟きは聞けても人はダメなのです。

スピリチュアルから遠ざかっています

昨日は、久しぶりに自分のスピリチュアルカテゴリーの記事を読みました。スピリチュアルのワークなどももう10年以上前に出ていたとは、だいぶ歳をとったわけです。ワークなどに頻繁に出ていた頃は、たまにはっきりとチュクラの付近に綺麗な光の玉が見えたり、頭の後ろに仏様の光背と同じものが七色に虹のように見えたりしました。これもいつも見えたりするわけでなく、不意にはっきりと肉眼で見えたのです。

今は何も見えることはありません。このような不思議な見えるということは、肉眼ではっきりと見えるという時と、もう一つは頭の中に昔を思い出すような感じで映像で見えるという時との違いはありますが、今はあんまりこれはというものはありません。もともとそう霊媒体質でもなんでもないので、ワークなどに出てなかったらこんなものだと思います。

ただ今年に入ってから特に思うのですが、自分が気づいていないだけで、見えない世界とのコンタクトはしているのでは❓と思います。霊と話はしてませんが、この頃は花や木、鳥などの声が聞こえるような気がします。また、なんかふっと急にーあと3歩先にまっすぐ進んではいけないーなんて浮かぶと、変な溝があったりして危険なことがありました。そこで、ふと思う、ーここで本を床に置くーとか、なんだかどうでもいいことなんですが、その声を無視しないでおくとなぜか本が飛んできた水飛沫を受けずに済むとか。色々と続いたので、頭にふと浮かんだことはそれに従うことが多くなりました。

自然のものや、風や地面、それも人間のように話しかけているな気もします。ブドウの木も殺菌剤を待っていると思うので早くかけてやらねばと気がせくのです。でも、雨、風、道具の不備などが続きなかなかかけてやれません。今日はブドウの様子を伺いにベランダに出たら、「まだ大丈夫だ。我慢できる」とブドウが言ってくれた気がしました。
もう、ビニールの覆いも取ってしまったので、焦るのですが、天候を見てやるしかありません。できるだけ早くやるからと心の中でブドウに言っています。

妄想かもしれませんが、喋りかける木々

これは私の妄想と言って良いのです。庭のバラが話しかけてくる気がします。

ピエールドゥロンサールが、肥を「美味しい」とか、「もっと食べれるよ」とか、「いい加減薬をかけて」なんて話してくれるのです。白のアイスバーグはそれより、控えめで寡黙なサラリーマンみたいです。「いいです。それなりに咲いているので、大丈夫です」と基本はこうで、でも肥料をやると「おっ」と思わず喜びの声を漏らすような感じです。

しかし、もう一本のなかなか大きくならない赤のアイスバーグはうんともすんとも喋りません。私は心の中でバラに語りかけるのですが、全然返事をしません。日当たりが良くなく、虫にも食べられることが多く、どうしたらいいかとバラに問うこともあるのですが、沈黙です。また、なかなかたくさんのバラを咲かせないブルームーンも全く喋らないように感じます。

バラがしゃべるとか、なんとか。こんなこと自体妄想みたいなものですが、赤のアイスバーグとブルームーン。多分、虫や日光不足などで成長できず、何かをいうこともできない状態かもしれないと思っています。冬にもう少し肥料をやったほうがいいでしょう。今日、地元のバラ園のおじさんに聞いてきました。なんにしろ、私の育て方が二つのバラにとっては不味すぎて、かろうじて生きているという状態になっているのではと思います。

今年はとにかく肥料をやることとします。薬も虫の状態を見てもっとかけることとします。

バラがしゃべるように思えるというのは、気狂い沙汰ですが、そのこともバラにより違いがあるように感じるので、本当にバラたちが見えない、聞こえない声を出しているのではとも思います。バラはもっと咲きたいと思っていると思うので、不出来な世話人ですがもっと頑張りたいと思います。

過去生など

過去生について、関心がある人も多く、特にスピリチュアルな道に励む人に別格だと言われている(私の個人的な考えです)のが、インディアンです。インディアンはスピリチュアルだからということが理由らしく、過去生がインディアンだった人でヒーリングやミディアムをやっている人も多いです。

自然に親しむ、スピリチュアルな人というイメージか、アイヌとかもそんな感じです。あとは司祭とか、修道女とか、そんな過去生があったというスピの人も多いです。なので、インディアンに親しみや尊敬の思いを感じる人も多いと思います。
が、今まで言えなかったのですが、私はインディアンはにがてなのです。アイヌも同様で、着るものの紋様とか、羽根飾りとか、スピのみんながいいというものが実は嫌いです。こんなことを言うと程度の低い人と言われそうで言えなかったのです。が、スピの勉強もそうしてないし、いいかと思い言うことにしました。

インディアンでなくて、インディオだと、紋様やその他も見慣れていたので、何にも感じません。好きでも嫌いでもなく、普通です。が、インディアン、アイヌってなんとなく苦手です。迫害され差別されてきたというところに大いに同情するし、味方となりたいのです。でも、あまり好きでないというのが実情です。一般人からすると、これでもいいでしょう。

馬渕さんと篠原さんの対談について

ヘミシンクピンポンパンに馬渕さんという人のことが出ていました。その中の動画は前半(一人がたり馬渕睦夫」#40 )だけ見て、途中でやめました。篠原さんがしたり顔で何かを言い始めるのを見てヘキヘキとしました。

こんな立派な経歴の人が、穏やかで高尚な顔をして淡々と、ロシアを持ち上げてみんなをロシア贔屓にさせているとは❗️恐ろしいことです。篠原さんは、私も昨年から結構ユーチューブを見ていたのです。でも、もうあまり見ません。 飽き死の宮、宮家の方々について、その出鱈目さを暴き、糺すかと思っていたのに、飽き死の宮さんそのものについては、決定的な糾弾はせず、皇室がいけないとか、宮内庁がいけないとか、矛先をかわすのです。

このジャーナリストは、黒い腐った権力を糺す風を装いながら、実はそれの周りの人々や組織を叩くことしかしないのではと思います。馬渕さんも、篠原さんも同じようなもので、装うのが上手く、擬態というのか、そんな惑わしを使って、みんなをとんでもない方角へ誘おうとしているのが、見えるような気がします。

篠原さんは、ロシアとウクライナを一方的に見てはいけないと言い、ロシアに侵略され、防戦しているウクライナを戦うもの同士なので、公平にと言います。が、これってうまい言い訳ではないですか。相撲じゃあないんだ。土俵に公平に出てきて立ち合いするならまだしも、家でくつろいでいるところに勝手に武器を持ってなだれ込んできたものと、それに応戦するものと、同立にするなんて、そもそもあり得ないと思います。

こんなのはいじめられて死んでしまった子と、いじめ加害者とどちらも同じ非があるといいくさる、どこかの校長と同じような気がします。

これらの偉い人たちは、何らかの特別な旨みをロシアや、篠原さんについては、飽き死の宮家の関係者などからある程度の情報を得られる代わりに、ロシアや飽き死の宮家について糾弾しないという確約をしているのではないかと思います。糾弾するふりをして、ねじ曲がった方へ世論を向けていると思います。

ただ、幸に橋下徹氏は彼らのように、うまくカモフラージュすることはしません。出鱈目丸わかりです。橋元氏が、ロシア擁護、プーチン、飽き死の宮家のH人さん賛美をしてくれています。この狂った人が褒め称えているということは、飽き死の宮家も、ロシアも反対に危険で❌な人たち、国なのだと判断できます。この頃はすばらしいとかつて思われた人もロシアを褒めたりしているようなので、混乱しますが、そんな時は橋元氏の発言をチェックすることです。彼が良いということは❌。ダメということは○なのです。

一般の知識人のジャーナリスト、とか政治家などはどうしても誰かと繋がっていてそれらの関係上、ねじ曲がっていくということは避けられません。そういえば、私もDAYSを昔は買っていて、広河さんを尊敬していましたが、あの人って、たくさんのジャーナリスト志望の女性に性行為を強要していたと後、暴露されました。

彼の顔を見るといもおっさんといった風情で、気持ち悪くて仕方ありません。あんな人間とはいえない人をいいと思って、わざわざ遠くまでデイズを買いに行ったことを恥じています。

人は正義とか、みんなのためとかいいながらその反対の最低の蛮行をすることができるのです。恐ろしいことです。今は虎ノ門テレビもほとんど見ないです。普通の無名の人のブログや書き込みを検索するぐらいで、実はロシアについてもそんなに知らないのです。でも、そうは言っても篠原さんや馬渕さんの動画は、すぐに消したくなるのでちゃんと見れません。

歩きお遍路

友人がこの頃神社仏閣巡りに狂い出し、あちこち行っています。信心深いとは遥かに遠く、太宰治に憧れていた人です。最近、お四国参りも始めているようです。友人はお参りがマイブームで、この分だと全国のお寺参りに行きそうです。

四国遍路。昔私も行きました。歩きで徳島から始めましたが、私は足が遅く、一日歩いてもそう進みません。なんとか高知まで行きましたが、高知までの海岸を歩きながら考えました。私の歩みの鈍さは極めつけでした。最後までの距離とそれまでにかかる宿泊日数、金があまりにもかかりすぎることに恐れを抱き、高知の繁華街で偶然中古のママチャリを一万円で目にし、それを買って歩き遍路をやめてチャリ遍路となるこことしました。

車や電車で回らずにとにかく自分の足で行くのだからままいいやと、思い、歩き遍路をやめました。
こうぼう


高知市から先はチャリで行ったのですが、その途中で徳島の山中で同行したおっちゃんの歩き遍路に出くわしました。この人は体格も良く、歩くのも早く、歩いて遍路をするということにこだわるし、そのことに誇りを持っている人でした。その上、足も早く、私のようないい若いものが仕事もせず遍路をするなんて、いかんやつだと思っているのがありありとわかる人でした。その人は何か痛風のような持病を持っていてそれを治したく、祈願をかねて、遍路をしているようでした。

そのおっちゃんは自転車に乗り換えた私を見て、歩きで始めたのに、チャリに変えるなんて情けないやつと思ったらしく、何か声をかけてきましたが、私は言われることはわかりきっているので、さっとチャリで抜かしてやりました。
あの親父は歩くのが早いし、自力で歩いて行くのを誇っていたけど、なんかなぁと私は思いました。

大体、歩くということが競走からは外れたことでないのか❓早くいっぱい歩けるというのを自慢したいなら、車で行けよ。わしは歩いている。それも早く。すごいんだ なんて思っとるとしたら、歩かなくてタクシーに乗って運転手さんや車に感謝していく方が本当ではないのか❓
そんなことを私は思いました。

徳島から高知市まであのおっちゃんに何度も追いつかれ、厳しいことを言われヘキヘキとしていた私は、自転車を見て、思いました。予算のこともあるし、ここで自転車に乗る方が、本当ではないのか❓無理して歩いて、自分は歩き通したすごい人だとちょこっとでも思ったりしたら、私の思う本当の遍路ではなくなってしまうだろう。途中で歩くこともできなくなった情けないチャリ遍路だけど行かさせてくださいと、そんなふうに前に進むのが自分に相応しいと、私は思いました。

早くいく。力を誇り、すごいぞと胸を逸らしいくのもいいでしょう。でも早い、強いなら車で行けばいいのです。私の行き方はこれでいいと、チャリで高知からは進み、最後の札所まで行きました。歩き遍路もあんなおっちゃんばかりでなく、同じようなおじちゃんだけど、私の歩くのがあまりにも大変そうに見えたのか、気遣ってくれる人も何人もおり、あれはあれでいい思い出です。

ビワ


大昔のまだ三十前の話です。チャリで遍路の3/4は行きました。歩きよりはマシとはいえ、もう一度行けと言われても行きません。自力で四国一周は本当、大変です。しかし、途中でお接待でもらった大きな琵琶の甘さは忘れられません。

不思議な蛾の群れープーチン誘蛾灯

我が家にはテレビがないので、世間一般の声や有名知識人の意見などあまり知りません。ただ、藤井先生の番組やヘミシンクピンポンパンで幾人もロシア擁護、プーチン万歳。などと言っているらしいと知りました。

一部のそのことより利益を得られる政治家などは わかりますが、一般の人まで熱心にプーチンを応援したり するのは、非常に不思議に思います。一方的に武力を持って人の国に押し入り、建物を破壊し一般人を殺している。それだけで100% プーチンのほうに非があるんだと思います。それが、スピリチュアルが好きな善良であると自身が自負している人たちが、ロシアの応援をしていると言う事はどういうことなのか?

これは、ある種の人間の持っている指向性{上を目指す。光に向かう}に負っているのだともいます。そのタイプの人間はピラミッド型の社会を是としているのです。一番上にはたった一人。その他は非常に細かい分類にしたがって階段型に人間が存在します。そして一番上、もしくは上部にいる人間はその社会のいる人間に対して眩い光を放ち、みんなそれに魅了され、崇め群がるのです。

横から眺めると誘蛾灯の灯がその頂点であるカリスマプーチン。それにひき寄せられるのが蛾であるスピリチュアルで善良を自負するプーチン礼賛者なのです。しかし、実際に住むところを破壊されるとはどんなことか、そのため人も死んでいるし、悲惨そのもだと思います。なのに、そういうウクライナの状況に心を寄せることもできないとは。のほせあがりすぎです。

なんのかんの言っても、スピの人だと言っても、本来のひととは、大きく違うのだと思います。一番上の強い、光に溢れたカリスマを求める人たち。それしか見えないのでしょう。それとも周りの人たちをそのまま見れるか。蛾になってしまったらおしまいだと思います。

誘蛾灯に行った蛾の末路はどうなるのだろう...



自転車の練習

新しい自転車を昨年、買いました。この頃は春めいて、日中は暖かい日が多く、自転車を走らせています。ママチャリでは止まる時は、サドルに座ったまま足を地面につけていました。しかし、スピードが出る自転車ではこれでは足の力が無駄になります。

よく街で見かけるのは、自転車乗りたちは乗り降りする時、サドルに腰をかけずにフレームの上に跨ったままひょいと腰を上げ、走り出したりしていました。
ーこれだなー
このスタイルで自転車に乗れば、サドルを高くしてもいいし、そうすると足の力もそう無駄にならずもっとグングン先に進めるぞ。そう思い、やってみようとしたのですが、お尻を上げたまま、着地するのが恐ろしくずっと先送りになっていました。が、ー今のままでは足がくたびれるぞ、ーとなんとか練習してみようと思いました。そして、いい方法を考えつきました。

いい方法とは、サドルをぐんと下げ、その上にお尻をあげ、着地してみるのです。お尻が空中にあって着地しようとしても、ふらついたりしたらそのままサドルにお尻を下ろせば良いと言うわけなのです。

田んぼの真ん中の誰も来ないであろう畦道でやってみました。すると、サドルからお尻を離して着地、停止もなんとかできました。その後、サドルは上げて何度か練習中です。練習を始めてまだ一週間も経ってません。まだなんとなく怖い感じはします。でも、サドルをずいぶん以前より上げたおかげで、漕ぐのが楽だし、スピードも上がりました。街中走行はまだ少し怖いです。でも、田んぼみちなどは平気になってきました。

もう少し練習します。

プロフィール

握力は小学生よりない力なし。ひっそりとこのシャバの片隅でモーニングを食べている凡人です。猫、鳥、虫等、とやり合いながら暮らしています。

るんるうん

Author:るんるうん
またの名はクマネルです。ふしぎなことが好きです。着物も好きです。

たまに、魚を捌きます。猫におしっこをかけられたこともありますし、珍しい体験もあります。

たまに-クッテネル-が記事を書きます。そちらもよろしく。

いつのまにか歳をとりました。

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十二か月の着物

手持ちの着物を月ごとに替えて表示してみました。2015年1月
縮縮きものあわせIMG_1116  蕪柄の小紋と、金の傘の柄の帯 冬の野菜-かぶら-は、ほっこりとした暖かさを感じます。帯の地色は新春の華やぎを...

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