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饒速日再び

昨年からずっと進まなかった交渉が昨年の末、やっと終結しました。間に入ってくれる法人、人もおり、なんとかことは治ったのです。が、関連者の私および、家族はこれから先、このような目に遭いたくないと思い、お祓いに行くことにしました。最初は○稲荷とか、◯神社など、考えていたのですが、

旦那が、「結構この辺りの車は亀の形のシールをつけている。そこでお祓いをしたらどうか」と言います。「うーん」私は「そこの神社、尾張一宮はお祓い料金が高いから、もっと安いところにしたいなぁ」と言ったのです。お祓いまで料金で考えるとは不信心者極まれりです。が、その後、子供が「尾張一宮、真清田神社は強力らしいから、いいのでは」というのです。

みんながいいというし、そういえば、何年か前、子供が真清田神社の巫女さんのバイトをしていたから、結構いいかも。なんて思いました。その頃は私は所用で週一回、真清田神社に寄っていたのです。

年末、家族が揃ったので、早速お祓いに行ってきました。お金を払って待つこと1/2時間。長すぎです。待合所に待機していても誰も来ません。まぁ、そうです。年末でなく普通は年が明けてからお祓いをすると思います。こんな年の瀬にお祓いする人なんてほとんどいないでしょう。でも、我が家は年明けは子供も忙しくとてもお祓いなんて出かけられません。年末でよしとしたのです。

しばらく待ってようやくねぎ様が呼びに来て、お祓い所でお祓いが始まりました。祝詞とか、唱えられます。その間頭を下げたり上げたり。ちょっとしたら、何やら異変が...
ーうわ。グラグラするぞー。頭が左右に揺れて止まりません。なにこれ。スピリュアルは好きですが、普段あまりなにも感じない素質のない私なのに、こんな真清田神社の普通の祈祷で頭が揺れて止まりません。しかも、その間神聖なことを考えていたわけではないのです。強いていえば、不敬な「ここは榊の奉納もないのか」なんて他の神社と比較したりして。それなのに、頭は揺れるわ、祝詞が終わってもぼっとしてしまって変な感じだし。おまけにはじまる前からボケーとしてしまったのか、バッグをずっと違う場所に置いてきて忘れる始末でした。←あと思い出して取りに行ったらそのままありました。

ここの神社、真清田さんはたまに境内に入って参ったり、友人を連れてきたりした時はそうなにも感じなかったのです。が、今回の感じは何か違う、ここの神様の何かを感じました。

そこで、ここの祭神を調べたところ、思い出しました。ここの神様はニギハヤヒ。熊野の神様もニギハヤヒ。饒速日はオオナムチとも、大国主とも関連があるということ。ずっと前にこれらをずっと追ってきて、饒速日から始まり全て饒速日でメビウスの輪のようにつながっていたということ。そんなことを思い出したのです。

今回の長引いた係争は、結構大変なことだったけど、饒速日が何か、良き道筋を示してくれたのかもしれないと思います。古い先祖が熊野の饒速日につながることと新しい人脈がまたも熊野につながること。何か古代の神の力の力添えがあったかもと、先日旦那に言ったところ、背中がぞくっと一瞬しました。

もう一度饒速日、おおなむち、瀬織津姫、それらの関連する所を回ってみたいなぁと思っています、

前世と現世は決まりきった過去と今の形ではない

ピンポンパンのブログで前世と今のことについて書いてありました。

過去があるから今があるといった決まりきった形とはちがう捉え方の現世と前世について書かれています。私は過去生とかをみてもらったことがあります。結構そういうことが好きで聞いてみたかったのです。霊能者たちに言われたことはなるほどと思えることでした。が、それだけでそう何か今の自分に覚醒をもたらしたとかいうことはありません。

それよりも私が思うのは、この今の現世そのものが何パターンもあって、実在している感があるのです。それは夢で現在だけど違う状態の自分を見たりして、それを見て、これではない、自分は今このブログを書いている自分なのだと強く思っている自分を思っていることが多々あるからです。

この感覚は、前世を見てもらった感じとは感覚が違い、自分でまさにその感覚を両方感じていて、生という感じなのです。私は前世というのは現在の複数の現世と同時に同じところに重なっており、今時間の自分が今を選択している中で、その中にペカペカと浮かび上がってくるある人生なのではと思います。

今も過去もどれも横位置に過去から並んでいるのでなく、どれも同じところに重なっているのではと私には思えて仕方ありません。いろんな時間軸に時には同じ時間軸に自分が複数おるのです。そんな感覚があるのです。

ミディァムシップのボランティアをしました

実習の受け手をしました。いろんな人が現れました。その中で、一ヶ月前に大学のサークル仲間が言ったこととおんなじことを言われました。ユニークだとか、個性とか、もっと前へ出て才能を出せとか。大学の友人には年寄りのモーゼス婆さんなどの話を引き合いに出され、私みたいな人を必要とするところはある、もっとまえへ出ろ...なんて叱咤激励されましたが。

今回の霊たち、先月の生きた友人の言うことそのままでした。

友人にも霊たちにも励まされたので、活躍❓必要とする人たち❓
本当に怪訝ですが、自分なりのやり方でやりたいことをやっているうち、喜ぶ人もいるのだろうと、思ってもいいかなぁなんて。少しだけ思っています。励みになりますね。

メロンリーディング

スピリチュアルな人の中には、いろんな能力のある人がいます。亡くなった人と会話するのが、ミディァムです。動物とコミュニケーションするという人もいます。そんなことは思い込みとか、嘘と思う人も多いですが、優秀なミディアムはなんのヒントも与えられてなくても、依頼者の関連の亡くなった人について詳細に言ってくれるので、否定はできません。

私はこの頃はリーディングを頼んだり。ワークで練習したりするというのは全くなくなりました。あんまり亡くなった人に聞きたいこともそれほど亡くなったということかもしれません。が、何か、人間でないものどもの声を聞くということをやって見てもいいのではと思い、庭木などに話しかけると答えてくれる感じがあります。こんなのは私の思い込みかもしれないと思いますが、この頃私はこの世の全ては意志を持っているのではないかと思うのです。

それで、先日、買ってきたメロンを見て、思いついたのです。匂いを嗅いでもお尻を押しても食べ頃がわかりません。どうしたらこれが熟れているか、食べてもいいのか、考えるだけではなんともなりません。そこではっと、このメロンに聞いてみようと思いました。
「メロンや、メロン。あんた、食べてもいい頃かね」❓こんなことでわかるのか❓半分バカらしいですが、美味しくメロンを食べるためには私はバカだと言われてもなんでもするのです。
すると、メロンが「ボク、もうちょうどいいよ。食べられるよ」と言った気がしました。私は何度もメロンに聞きました。心の中でです。

これは私の願望かもしれないですが、メロンは「ぼく、食べてもいい時期だよ」と言った気がしました。そこで、旦那に、メロンが「ぼく食べられても美味しい時期だ」と言った気がすると言ったら、
「えっー。」そんなわけないという感じの否定の言葉でした。

私もあんまり信じられないですが、もしか熟れすぎているといけないと思い、メロンがしゃべっただろうという言葉に従ってメロンを二つ割りにしました。そして、家にある糖度計では買って見たところ、 15度で、ちょうどよい熟れ具合でした。
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その後、メロンのシールをよくみると、バーコードが貼ってあり、そのメロンの個体番号のようでした。早速、サイトで調べたら、うちのメロンを食べた日は、そのメロンの食べ頃にあたる日だとわかりました。今は生産者によっては、一つ一つ、メロンに個体番号をつけてネットで検索すると食べ頃がわかるようになっているものもあるのです。すごいです。

最初からメロンのシールの個体番号を検索していればメロンリーディングなんてしなくてもよかったのですが、実際の食べ頃と、個体番号に記されている食べ頃と、メロンリーディングが一致するなんて、偶然かもしれませんが、面白いです。

スピリチュアルも、セミナーでお金を出して力を磨かなくても、日常で物や草木、虫、鳥などに心の中で問いかけるなんていうのもいいのではと思います。結構生活の役に立つし、お金もかかりません。メロンリーディング、いいですよ。皆さんも梨リーディングとか、鯖リーディングとか、やられるといいと思います。

夢みていたことーフェリーで北海道へ行く

夢見ていたこと、やってみたいけどできないと思っていたことの一つはフェリーで北海道へ行くということです。これは自分が決心さえすればできることに思えます。が、フェリーで北海道なんて、時間がかかりすぎます。一人で最大四十時間も船の中にいるのは退屈すぎて無理だと思い、いっしよに行く人がいればいいなぁと思っていました。

でも、そんな物好きは何十年も私の前に現れませんでした。

しかし、今年、友人にその話をしたら「いいよ」と言います。「えっ...」
北海道と名古屋間のフェリー、乗っている時間が長いので、仕事がある人は難しいし、ない人でも船というだけでひきます。でも、世の中は広く、乗ってもいいという人が近くにいたのです。それからがトントン拍子で、実は北海道でバンガローとかに泊まって、自炊したいというのもあったのですが、そんなことに賛同してくれる人などはなかったので諦めていました。が、その船に乗ってもいいという友にその話をしたところ、「いいよ」でした。バーベキューや火おこしなど得意で、久しぶりにやれるということで結構乗り気でもありました。

なんか、こんなに色々と思っていたことが叶うとは、友人に感謝です。今度は飛行機で北海道に行き、前のよりグレードアップしたコテージに泊まって星空観察をしたいと思っています。もちろん、鹿肉とラムのバーベキューもします。

自分の感覚を信じるかどうかが、なかなか難しい

この頃はふと感じた何気ないことをただの思い過ごしとさせず、何かを自分が自分に知らせているのだと思い、できるだけ気に留めるようにしていたのですが、やってしまいました。

先週、梅酒や梅干しを保存するガラス瓶を物置から出しました。外にある物置です。出すと、土の地面の上かコンクリートの上に置くことになります。コンクリートの上に置いた時、瓶がガガーと少しする音がしました。それで、「これはコンクリートにぶつけると割れるから気をつけないと」と思いました。置く場所も置き方も、割れないようにと思っていたはずが、夜それを忘れてコンクリートのキッチン裏口の辺りに置いてしまいました。

すると、翌朝、猫がどうもそれをいじったらしく、派手に大きく割れていました。

物置から出すとき、確かに、「コンクリートの床は気をつけろ」と自分が自分に囁いたのに、それを無視していました。その結果、大きなガラス保存瓶を割りました。これって、私が自分の危険を感じる力や、物事を予想する感を持ちながらも自らが信用せずにその情報をおろそかにしたということだと思います。

そんなことを思い返していると、今回の実りの少なかった講座も実は心の中で、「❓」を感じていたところが過去にありながらもその声を無視していたということに気づきました。私は自分で自分に対し、そんなに間違わないとたかを括っていましたが、結構自分にはこの世の常識とか、みんなの評判とか態度とかに惑わされて、本当のところを見ても、それを信用せず、自分の目がおかしいとして、怪我をするということがあったなぁと思います。

もう少し、自分の心の奥からの声を信用したいと思いますが、意外とこれが難しく、何度も陥穽にはまるのです。でもこれっきりにしたいと思います。瓶も割りません。

何かを身につけるためには

ヘミシンクピンポンパンで何回か書かれていることに、
ー《神は細部に宿る》という有名な言葉があるのだが知っているだろうか?《細部に宿らない》という説もあるのだが、ヘミシンクはまさしく前者だ。ワークの記録は精密デッサンのように克明に記録する努力が必要なのだ。それが見る力を養い知覚力を高める

非常に細かいことにわたり、詳細にデッサン、描写することが見る力を養い知覚力を高める。と言われています。これは私も実感していることです。しかし、世の有名無名のスピリチュアルの先生は、反対にあまりその体験などをそのまま語るということはなく、大雑把な「すごい」とか、「素晴らしい、感動しました。」などとの感想めいた言葉が多いです。残念な人が多いなぁと、不出来な私は思ってしまいます。それから学びたいと思ってもなかなか難しいと思ってしまいます。

実際のその体験をノンフィクションでただ克明に語ってくれれば、自分なりにそれを辿って何かわかるかもしれないと思うのですが、なかなかそういうことはなく、ピンポンパンの記事はそれとは全く違って克明に書かれていてわかりやすくていいと思っています。

今回はそのようなスピの話ではありません。私はこの頃あることを練習していて、偉い先生にも習いに行ったのですが、ろくな説明もなく、ただ自習するというスタイル。なかなかこれでは自分が何をどうわからなく、できないということになっているのか、途方に暮れるだけでした。しかし、YouTubeで親切な人がその物事について親切丁寧に説明しているのを見つけました。その人は、自分でそのことをやりながら、いろんな人が間違えたり、うまくいかないポイントを細かく説明しているのです。自分でやりながらなので、こちらもそれを見て実際にこういうことかと合点がいったり、なるほどと頷いたりしました。

そのユーチューバーの人は実践という、擬似体験をみんなに見せながら、本当に細かいところを理由を交えながら説明してくれたのです。
なるほど...
実践スタイルである上に、細かくその状態を見せながら説明も多い。これだと試聴している人は自分のやり方をそれになぞりながら進み、悪いところは直しつつ進めます。

しかし、世の有名な学校などでも、ただ偉い人が口で「こうします」なんて適当に喋るだけで、聞いた人が失敗したら、できないのは失敗した人のせいになるなんてこともありますが、物事はどんなことでも偉い人が適当に喋ったり注意したり、感動を語るだけでは伝わらないと思います。伝わるというより、聞いた人の役には立たないと思います。つくづく実践を伴いながらの克明な説明というのは何かを教授する場面では必要だなぁと思います。

すぴだけでなく、この世の他のお稽古事でもそうで、すごい人のところですごいという話を聞いたからいいと思うのは、何かにのぼせてしまうだけで、肝心な実力が全くつかないことになってしまうこともあると思います。先生も、学校も最初から信用してしまうのは、お金と時間のロスになるので、どこかで何かを学ぶときは、先生やその教えをよく見極めて、ダメと思ったら早々に退散するのが賢明かと思います。

心の中はわかる時があるのだろう

この頃気をつけています。今まではそう気にもとめなかったことです。人と接していていろんな思い、考えが頭をよぎります。その時、結構な割合で、こちらの考えや思いを即座に読み取る人がいます。ぁっ 今思っちゃったこと、この人読んだな❗️そんなことはザラであるということがわかってきました。

好意、反感、喜び、落胆、そんなにはっきりとしたレベルでなくても心の中に泡のように湧き出る感情があります。それをさっとわかる人が意外と普通にいるということです。そんなことはないだろうと、表情にも身振りにも出てないからと安心していても、瞬間的にわかる人は多いです。よく霊能者が他人の思いはわかると言いますが、そんな勘の鋭い人は特別でなくてもいっぱいいます。

ドラえもんのスネ夫のように、強い人に寄っていって、その場の空気をすぐ読み、情勢の良い方へつく人は多いです。自然にそれを行動しています。彼らは他人の思いや、その場の力関係、その他見えないものをよく読んでいるからだと私はこの頃、ようやく気づきました。

このような考えをする人と仲良くすると不利だとか、彼らは思っていると思います。人間関係、私はそんなふうに思ったことがなかったので、こういうことか、と色々と過去を振り返り合点しています。多分、私はいろんな行動パターンを読んでようやくそのようなスネ夫型の人々の頭の中を察することができたと思います。

でも、こちらもわかるのです。人と接していてふっと思う「こんな人と接していては自分が損をする」なんて相手が心の中で呟いているのでは❓と思ったら、親しく近づいてきても少し距離を置いて観察したほうが良いと思います。こちらでも受け取れることのできる微妙な感と、実際の現実のシチュエーションをよく見て行動しようと思っています。世の中は真っ直ぐなボンクラばかりではなく、子供の頃から世間慣れしている人が多いのです。

他人の思っていることは❓

昨日は木々や風、地面などの思っていることなどがわかるような気がすると書きました。この頃はバジルなどもなんか言っている気がします。なら、人はどうだ❗️というと、わかりません。

木や花は細かくしゃべってくれる気がするのですが、人はわかりません。というか、自分に悪意を持っているであろうという他人の場合は、もう瞬間的にこの人は自分のことをよく思ってないし、悪口をあちこちで言っているなとはわかります。

が、具体的に何をどう言っているのかはわかりません。そういう人がたまに声をかけてくる時があります。そんな時、普通に当たり障りのない会話で終わるのですが、その後、その人は全く声をかけてきません。これはなぜだろうと思うのですが、多分人って誰も第六感みたいなものがあって、その人は私にその人が思っている悪意がバレたなぁと思っているのではと私からは思えます。話を仕掛けたことで何か、情報を得ようとしたのだけど、反対に自分の裏を見られたと感じたのではないかと思います。こんなことも私の頭の中の妄想に過ぎないのですが、どうもそう思えて仕方ありません。でもそれだけで、生の声がわかるわけではないです。

なんにしろ、何か悪意のある人は、そういう気持ちを持っているなぁと感じる程度。反対に友好的な人は、何も感じません。これらのことは多分、植物などの自然と違って、人間の本音を生で聞いてしまうのが私は恐ろしくてとても普通でいられないからだと思います。雰囲気はわかるのだけど、はっきりとはわざとわからないようにシャッターを下ろしているのだと思います。

他人のブログでもあまりにもひどいコメントなどはもう読み進めません。ああいうのを書く人って、どういうつもりなのか、理解不能です。こちらから見ると醜過ぎて気持ち悪いのに、ご本人はヒーローみたいな感じに酔っているのかなぁ。いじめっ子もそうですね。人間って恐ろしいので、心の中のえげつないことを生で見たり聞いたりしたら、ショックが多過ぎてダメだと思います。なので花の呟きは聞けても人はダメなのです。

スピリチュアルから遠ざかっています

昨日は、久しぶりに自分のスピリチュアルカテゴリーの記事を読みました。スピリチュアルのワークなどももう10年以上前に出ていたとは、だいぶ歳をとったわけです。ワークなどに頻繁に出ていた頃は、たまにはっきりとチュクラの付近に綺麗な光の玉が見えたり、頭の後ろに仏様の光背と同じものが七色に虹のように見えたりしました。これもいつも見えたりするわけでなく、不意にはっきりと肉眼で見えたのです。

今は何も見えることはありません。このような不思議な見えるということは、肉眼ではっきりと見えるという時と、もう一つは頭の中に昔を思い出すような感じで映像で見えるという時との違いはありますが、今はあんまりこれはというものはありません。もともとそう霊媒体質でもなんでもないので、ワークなどに出てなかったらこんなものだと思います。

ただ今年に入ってから特に思うのですが、自分が気づいていないだけで、見えない世界とのコンタクトはしているのでは❓と思います。霊と話はしてませんが、この頃は花や木、鳥などの声が聞こえるような気がします。また、なんかふっと急にーあと3歩先にまっすぐ進んではいけないーなんて浮かぶと、変な溝があったりして危険なことがありました。そこで、ふと思う、ーここで本を床に置くーとか、なんだかどうでもいいことなんですが、その声を無視しないでおくとなぜか本が飛んできた水飛沫を受けずに済むとか。色々と続いたので、頭にふと浮かんだことはそれに従うことが多くなりました。

自然のものや、風や地面、それも人間のように話しかけているな気もします。ブドウの木も殺菌剤を待っていると思うので早くかけてやらねばと気がせくのです。でも、雨、風、道具の不備などが続きなかなかかけてやれません。今日はブドウの様子を伺いにベランダに出たら、「まだ大丈夫だ。我慢できる」とブドウが言ってくれた気がしました。
もう、ビニールの覆いも取ってしまったので、焦るのですが、天候を見てやるしかありません。できるだけ早くやるからと心の中でブドウに言っています。

妄想かもしれませんが、喋りかける木々

これは私の妄想と言って良いのです。庭のバラが話しかけてくる気がします。

ピエールドゥロンサールが、肥を「美味しい」とか、「もっと食べれるよ」とか、「いい加減薬をかけて」なんて話してくれるのです。白のアイスバーグはそれより、控えめで寡黙なサラリーマンみたいです。「いいです。それなりに咲いているので、大丈夫です」と基本はこうで、でも肥料をやると「おっ」と思わず喜びの声を漏らすような感じです。

しかし、もう一本のなかなか大きくならない赤のアイスバーグはうんともすんとも喋りません。私は心の中でバラに語りかけるのですが、全然返事をしません。日当たりが良くなく、虫にも食べられることが多く、どうしたらいいかとバラに問うこともあるのですが、沈黙です。また、なかなかたくさんのバラを咲かせないブルームーンも全く喋らないように感じます。

バラがしゃべるとか、なんとか。こんなこと自体妄想みたいなものですが、赤のアイスバーグとブルームーン。多分、虫や日光不足などで成長できず、何かをいうこともできない状態かもしれないと思っています。冬にもう少し肥料をやったほうがいいでしょう。今日、地元のバラ園のおじさんに聞いてきました。なんにしろ、私の育て方が二つのバラにとっては不味すぎて、かろうじて生きているという状態になっているのではと思います。

今年はとにかく肥料をやることとします。薬も虫の状態を見てもっとかけることとします。

バラがしゃべるように思えるというのは、気狂い沙汰ですが、そのこともバラにより違いがあるように感じるので、本当にバラたちが見えない、聞こえない声を出しているのではとも思います。バラはもっと咲きたいと思っていると思うので、不出来な世話人ですがもっと頑張りたいと思います。

過去生など

過去生について、関心がある人も多く、特にスピリチュアルな道に励む人に別格だと言われている(私の個人的な考えです)のが、インディアンです。インディアンはスピリチュアルだからということが理由らしく、過去生がインディアンだった人でヒーリングやミディアムをやっている人も多いです。

自然に親しむ、スピリチュアルな人というイメージか、アイヌとかもそんな感じです。あとは司祭とか、修道女とか、そんな過去生があったというスピの人も多いです。なので、インディアンに親しみや尊敬の思いを感じる人も多いと思います。
が、今まで言えなかったのですが、私はインディアンはにがてなのです。アイヌも同様で、着るものの紋様とか、羽根飾りとか、スピのみんながいいというものが実は嫌いです。こんなことを言うと程度の低い人と言われそうで言えなかったのです。が、スピの勉強もそうしてないし、いいかと思い言うことにしました。

インディアンでなくて、インディオだと、紋様やその他も見慣れていたので、何にも感じません。好きでも嫌いでもなく、普通です。が、インディアン、アイヌってなんとなく苦手です。迫害され差別されてきたというところに大いに同情するし、味方となりたいのです。でも、あまり好きでないというのが実情です。一般人からすると、これでもいいでしょう。

馬渕さんと篠原さんの対談について

ヘミシンクピンポンパンに馬渕さんという人のことが出ていました。その中の動画は前半(一人がたり馬渕睦夫」#40 )だけ見て、途中でやめました。篠原さんがしたり顔で何かを言い始めるのを見てヘキヘキとしました。

こんな立派な経歴の人が、穏やかで高尚な顔をして淡々と、ロシアを持ち上げてみんなをロシア贔屓にさせているとは❗️恐ろしいことです。篠原さんは、私も昨年から結構ユーチューブを見ていたのです。でも、もうあまり見ません。 飽き死の宮、宮家の方々について、その出鱈目さを暴き、糺すかと思っていたのに、飽き死の宮さんそのものについては、決定的な糾弾はせず、皇室がいけないとか、宮内庁がいけないとか、矛先をかわすのです。

このジャーナリストは、黒い腐った権力を糺す風を装いながら、実はそれの周りの人々や組織を叩くことしかしないのではと思います。馬渕さんも、篠原さんも同じようなもので、装うのが上手く、擬態というのか、そんな惑わしを使って、みんなをとんでもない方角へ誘おうとしているのが、見えるような気がします。

篠原さんは、ロシアとウクライナを一方的に見てはいけないと言い、ロシアに侵略され、防戦しているウクライナを戦うもの同士なので、公平にと言います。が、これってうまい言い訳ではないですか。相撲じゃあないんだ。土俵に公平に出てきて立ち合いするならまだしも、家でくつろいでいるところに勝手に武器を持ってなだれ込んできたものと、それに応戦するものと、同立にするなんて、そもそもあり得ないと思います。

こんなのはいじめられて死んでしまった子と、いじめ加害者とどちらも同じ非があるといいくさる、どこかの校長と同じような気がします。

これらの偉い人たちは、何らかの特別な旨みをロシアや、篠原さんについては、飽き死の宮家の関係者などからある程度の情報を得られる代わりに、ロシアや飽き死の宮家について糾弾しないという確約をしているのではないかと思います。糾弾するふりをして、ねじ曲がった方へ世論を向けていると思います。

ただ、幸に橋下徹氏は彼らのように、うまくカモフラージュすることはしません。出鱈目丸わかりです。橋元氏が、ロシア擁護、プーチン、飽き死の宮家のH人さん賛美をしてくれています。この狂った人が褒め称えているということは、飽き死の宮家も、ロシアも反対に危険で❌な人たち、国なのだと判断できます。この頃はすばらしいとかつて思われた人もロシアを褒めたりしているようなので、混乱しますが、そんな時は橋元氏の発言をチェックすることです。彼が良いということは❌。ダメということは○なのです。

一般の知識人のジャーナリスト、とか政治家などはどうしても誰かと繋がっていてそれらの関係上、ねじ曲がっていくということは避けられません。そういえば、私もDAYSを昔は買っていて、広河さんを尊敬していましたが、あの人って、たくさんのジャーナリスト志望の女性に性行為を強要していたと後、暴露されました。

彼の顔を見るといもおっさんといった風情で、気持ち悪くて仕方ありません。あんな人間とはいえない人をいいと思って、わざわざ遠くまでデイズを買いに行ったことを恥じています。

人は正義とか、みんなのためとかいいながらその反対の最低の蛮行をすることができるのです。恐ろしいことです。今は虎ノ門テレビもほとんど見ないです。普通の無名の人のブログや書き込みを検索するぐらいで、実はロシアについてもそんなに知らないのです。でも、そうは言っても篠原さんや馬渕さんの動画は、すぐに消したくなるのでちゃんと見れません。

歩きお遍路

友人がこの頃神社仏閣巡りに狂い出し、あちこち行っています。信心深いとは遥かに遠く、太宰治に憧れていた人です。最近、お四国参りも始めているようです。友人はお参りがマイブームで、この分だと全国のお寺参りに行きそうです。

四国遍路。昔私も行きました。歩きで徳島から始めましたが、私は足が遅く、一日歩いてもそう進みません。なんとか高知まで行きましたが、高知までの海岸を歩きながら考えました。私の歩みの鈍さは極めつけでした。最後までの距離とそれまでにかかる宿泊日数、金があまりにもかかりすぎることに恐れを抱き、高知の繁華街で偶然中古のママチャリを一万円で目にし、それを買って歩き遍路をやめてチャリ遍路となるこことしました。

車や電車で回らずにとにかく自分の足で行くのだからままいいやと、思い、歩き遍路をやめました。
こうぼう


高知市から先はチャリで行ったのですが、その途中で徳島の山中で同行したおっちゃんの歩き遍路に出くわしました。この人は体格も良く、歩くのも早く、歩いて遍路をするということにこだわるし、そのことに誇りを持っている人でした。その上、足も早く、私のようないい若いものが仕事もせず遍路をするなんて、いかんやつだと思っているのがありありとわかる人でした。その人は何か痛風のような持病を持っていてそれを治したく、祈願をかねて、遍路をしているようでした。

そのおっちゃんは自転車に乗り換えた私を見て、歩きで始めたのに、チャリに変えるなんて情けないやつと思ったらしく、何か声をかけてきましたが、私は言われることはわかりきっているので、さっとチャリで抜かしてやりました。
あの親父は歩くのが早いし、自力で歩いて行くのを誇っていたけど、なんかなぁと私は思いました。

大体、歩くということが競走からは外れたことでないのか❓早くいっぱい歩けるというのを自慢したいなら、車で行けよ。わしは歩いている。それも早く。すごいんだ なんて思っとるとしたら、歩かなくてタクシーに乗って運転手さんや車に感謝していく方が本当ではないのか❓
そんなことを私は思いました。

徳島から高知市まであのおっちゃんに何度も追いつかれ、厳しいことを言われヘキヘキとしていた私は、自転車を見て、思いました。予算のこともあるし、ここで自転車に乗る方が、本当ではないのか❓無理して歩いて、自分は歩き通したすごい人だとちょこっとでも思ったりしたら、私の思う本当の遍路ではなくなってしまうだろう。途中で歩くこともできなくなった情けないチャリ遍路だけど行かさせてくださいと、そんなふうに前に進むのが自分に相応しいと、私は思いました。

早くいく。力を誇り、すごいぞと胸を逸らしいくのもいいでしょう。でも早い、強いなら車で行けばいいのです。私の行き方はこれでいいと、チャリで高知からは進み、最後の札所まで行きました。歩き遍路もあんなおっちゃんばかりでなく、同じようなおじちゃんだけど、私の歩くのがあまりにも大変そうに見えたのか、気遣ってくれる人も何人もおり、あれはあれでいい思い出です。

ビワ


大昔のまだ三十前の話です。チャリで遍路の3/4は行きました。歩きよりはマシとはいえ、もう一度行けと言われても行きません。自力で四国一周は本当、大変です。しかし、途中でお接待でもらった大きな琵琶の甘さは忘れられません。

不思議な蛾の群れープーチン誘蛾灯

我が家にはテレビがないので、世間一般の声や有名知識人の意見などあまり知りません。ただ、藤井先生の番組やヘミシンクピンポンパンで幾人もロシア擁護、プーチン万歳。などと言っているらしいと知りました。

一部のそのことより利益を得られる政治家などは わかりますが、一般の人まで熱心にプーチンを応援したり するのは、非常に不思議に思います。一方的に武力を持って人の国に押し入り、建物を破壊し一般人を殺している。それだけで100% プーチンのほうに非があるんだと思います。それが、スピリチュアルが好きな善良であると自身が自負している人たちが、ロシアの応援をしていると言う事はどういうことなのか?

これは、ある種の人間の持っている指向性{上を目指す。光に向かう}に負っているのだともいます。そのタイプの人間はピラミッド型の社会を是としているのです。一番上にはたった一人。その他は非常に細かい分類にしたがって階段型に人間が存在します。そして一番上、もしくは上部にいる人間はその社会のいる人間に対して眩い光を放ち、みんなそれに魅了され、崇め群がるのです。

横から眺めると誘蛾灯の灯がその頂点であるカリスマプーチン。それにひき寄せられるのが蛾であるスピリチュアルで善良を自負するプーチン礼賛者なのです。しかし、実際に住むところを破壊されるとはどんなことか、そのため人も死んでいるし、悲惨そのもだと思います。なのに、そういうウクライナの状況に心を寄せることもできないとは。のほせあがりすぎです。

なんのかんの言っても、スピの人だと言っても、本来のひととは、大きく違うのだと思います。一番上の強い、光に溢れたカリスマを求める人たち。それしか見えないのでしょう。それとも周りの人たちをそのまま見れるか。蛾になってしまったらおしまいだと思います。

誘蛾灯に行った蛾の末路はどうなるのだろう...



自転車の練習

新しい自転車を昨年、買いました。この頃は春めいて、日中は暖かい日が多く、自転車を走らせています。ママチャリでは止まる時は、サドルに座ったまま足を地面につけていました。しかし、スピードが出る自転車ではこれでは足の力が無駄になります。

よく街で見かけるのは、自転車乗りたちは乗り降りする時、サドルに腰をかけずにフレームの上に跨ったままひょいと腰を上げ、走り出したりしていました。
ーこれだなー
このスタイルで自転車に乗れば、サドルを高くしてもいいし、そうすると足の力もそう無駄にならずもっとグングン先に進めるぞ。そう思い、やってみようとしたのですが、お尻を上げたまま、着地するのが恐ろしくずっと先送りになっていました。が、ー今のままでは足がくたびれるぞ、ーとなんとか練習してみようと思いました。そして、いい方法を考えつきました。

いい方法とは、サドルをぐんと下げ、その上にお尻をあげ、着地してみるのです。お尻が空中にあって着地しようとしても、ふらついたりしたらそのままサドルにお尻を下ろせば良いと言うわけなのです。

田んぼの真ん中の誰も来ないであろう畦道でやってみました。すると、サドルからお尻を離して着地、停止もなんとかできました。その後、サドルは上げて何度か練習中です。練習を始めてまだ一週間も経ってません。まだなんとなく怖い感じはします。でも、サドルをずいぶん以前より上げたおかげで、漕ぐのが楽だし、スピードも上がりました。街中走行はまだ少し怖いです。でも、田んぼみちなどは平気になってきました。

もう少し練習します。

銀河鉄道に乗るには

神田沙也加さんが亡くなってしまい、ふっふっと思い出すのは銀河鉄道のことです。さやかさんはメーテルを演ずる予定でした。メーテルのような大役を控えて自ら命を経つなんて、とてもあり得ないと思っています。

今回の悲劇には一部の人以外には知り得ない、深い淵に沈められた何かがあるように思えます。

本来なら、舞台の上でメテールとして銀河鉄道に乗っていたさやかさん。彼女はいまごろどんなことを思っているのでしょうか❓そんなことを思っていたら、銀河鉄道には、みんな切符を持って乗っていたということを思い出しました。カンパネルラとか、鳥追いなどほとんどの乗客は普通の切符です。ジョバンニだけは違っていてとても奇妙な字や模様が書いてある大きな切符でした。その切符はどこへでもいける特別な切符のようでした。

私はこの切符のことを思い出すと、自分も折り畳むとSDカードみたいに小さくなるとても大きな切符を持っている気分になります。そして、頭の中に切符のことや何やかやが浮かんできます。が、鉄道の車内には、メーテルのさやかさんはいない感じです。ボワーっと煙みたいに存在自体が薄まって鉄道の外にいるような気もします。メーテルのことも忘れてしまっているのか❓切符もないのか❓

そういえば遺族の意向でお別れの会も無しにしたという記事を読みました。やってくれれば、さやかさんも何か思い出すかもしれないと思うのですが、それもなしとは、あまりにもかわいそ過ぎます。

瀬戸内さんと大村知事

瀬戸内寂聴さん、私にとっては謎が多すぎて、色々と調べたりしても、全てはわかりません。謎というのはよく考えるとシンプルで不倫や他人の旦那さんを略奪したり、子供を捨てたりしていても平気で他人に道を説けるというのがあまりにもあり得ず、不思議なのです。

そんな瀬戸内さんのことを考えるとよく出てくるのが、ヌメヌメの茶色のナマズのような、生物です。ヌメヌメで茶色に光った生きた木魚のようなイメージがすぐでてきます。なんだろう、このイメージと思っていたら、巨大なナメクジみたいにも思えました。すると頭の右前片隅に黄土色の僧衣を着た瀬戸内さんが浮かびます。私はこの人の生の姿はとても苦手で気持ち悪いので、それを追い払うのですが、なかなか去らず、彼女はこちらをちらっと見ている気がします。

そんなイメージが浮かぶと同時になぜか、大村知事のイメージが浮かびます。大村知事の実際の人間としての姿でなく、私の頭に浮かぶイメージです。
なぜかこのかたもヌメヌメ、ベトンベトンの表皮を持ったナマズのようなイメージです。でも、この人は色は黒いです。黒くベトンベトンの皮を持ったナマズのような気持ちの悪いイメージです。

なんでしょうか。気持ち悪いイメージなので、忘れたいのです。でも、頭に浮かんでしまいます。ただ、大村知事と寂聴さんが似たイメージだと思うと、法衣を着ているけど気持ち悪い寂聴さんのイメージは薄まります。このことは誹謗中傷でなく、私の頭の中に浮かんでしまうイメージなので、なんともなりません。ただ、こんな人たちのことはあまりイメージだとしても思い浮かべたくないのですが...

いくつもの自分が重なっている

これは、夢ではありません。かといって完全に起きている時でもありません。寝ようとして色々と頭に浮かんでいる時でした。二、三日前のことです。

寝床に横になっていて、不意に私は自分がここにいると思います。そして、自分のことを独身で暮らしていると思っています。その私に、頭の隅に写真のようなある男の人の姿が浮かびます。そちらを見て、あの人誰かなぁ❓と思います。知らない人です。でも、引っかかります。誰だろう❓忘れかけて、消えかけている糸をなんとかたぐり寄せるようにその男の人の姿を頭の中で追います。

すると、あれは、自分の旦那だぁとわかりました。その瞬間、自分がその旦那のことを完全に知らない独身である自分であったり、一方では、今現在実際に平和に旦那と暮らしている自分だったり、そのどちらにも自分は行ったり来たりしているのです。私は心の中であの旦那と暮らしている自分が自分なのだ。と此方が本当の自分だと、その自分に必死に錨のような引っ掛け銛のようなものをかけ、ようやく完全に今の自分の意識になったのです。

その直後、あの二人の自分のことを思い返しました。二人とも自分で、同じ服を着ていました。全く同じです。でも、独身と言っていた自分は全く本当の現在の自分を知らないようでした。その時、二つの自分は同じ服を着ているのだけど、違った意識で同じこの空間に存在し、体はなぜか透明で、重なっているとも思いました。

同時に透明の自分が重なっているのです。でも違う視点から見ると現在着ているバーゲンで買った同じ服をきて同じ背格好の同一人物なのです。

なんか、この頃は自分がいくつもあるようなまたそれが一つのような変な感じのことがあります。歳を取ろうが、格好が悪かろうが、私は現在の自分がいいので、他の自分にはそうなりたいとも思いません。ただ、もしか、自分が結婚せず、独身で生きてきたとして、このもう一つの自分のようであったら、それはそれでいいのでは❓と思います。なんとなく、経済的には困ってなさそうだったので、それを思い出しては胸を撫で下ろししています。

白雪姫は眠りを覚ますかー実母と娘と王子様

神田沙也加さんのことから、白雪姫と実母の関係を思い出しました。白雪姫は、実母に毒林檎を食べさせられ、一回死にます。その後、王子様からキスをされ、目覚め生き返ります。

でも、実際に王子様にキスされて生き残り、今までと全く違う人生を歩む人っているのでしょうか。

私は実際の自分の身の回りの白雪姫たちを思い出しました。娘を殺すまではしなくても、自分以上の幸せを娘には掴ませない。また、自分より不幸な娘でいてほしいと思う親はいます。スピリチュアルな世界を彷徨うスピな人たちの中にもそういう親子関係をよく見かけます。私は今まで何人も「どうもこの親子関係は白雪姫と毒親ではないか」と感じた人たちがいます。一番可哀想な人は自殺未遂をして、体にもその傷がずっと残りました。

それらの人々、全て娘さんですが、スピの教えや心理学を一生懸命学び、カリスマという先生に教えを受け、たくさんお金と時間をかけてきましたが、私から見ると、まるでその関係から抜け切ってないのです。そういうのが、他の友人もわかっていて、彼女らに色々とアドバイスしてましたが、結局は匙を投げるしかないという結末になっています。

私から見ると、鬼の母親=人食い鬼 白雪姫たち=餌に見えます。
お話では白雪姫は王子様にキスされ、その後生まれ変わったように幸せな人生を歩んだのですが、そういう人は少数派で、実際は鬼に食い殺されたい。とか、鬼を鬼と思えない、または鬼なんだけど、鬼と思いたくないという心理が働いて、進んで餌となり、よしとする人たちが大多数なのです。

自分が愛する親の餌となっているなんてとてもそれを認めたくないと思うのでしょう。でも、現状を見ないといつまでもその形を繰り返すだけです。口だけいいことを言い実は自分を喰らい尽くすスピカリスマの餌食となる。それも今までの親との関係をなぞっているだけだと認めたくない自分が引き起こしていると思わないのでしょうか。

毒親を持っても、勇気を持ってその事実に向かい、自分の幸せを掴んだ人はいます。私の知っているスピチャネラーの人は、本当のことを言います。自分勝手な人はわかるらしく、相手に何か言っても無駄だから、「来るな」となど言っていたこともあります。その人のセッションで、ある女性に、毒親だか、旦那との関係を聞かれ、普通の聖職者みたいなことは言わず、「もうあなたは十分やった。別れてもいいのでは」などと言ったそうです。それでその女性ははっと気づいたらしく、周りの悪しき関係は絶ったそうです。気付く人はいるのです。

でも、そういう人は少ないです。ちなみにそのスピチャネラーのように、悪しき関係を持っている人に、何か厳しくとも的確なアドバイスをするチャネラーはあまり聞いたことはありませんし、セッションでも当たり障りのないことが多いように感じます。
ただ、面白いのは、ロクでもない相談者を見破り、来なくてもいいというスピチャネラーのことを白雪姫ぽい人は嫌がることが多いです。しかし、いいことを言ってくれる相談料の高い、何回も続くカリスマには行くのです。何か理由があるのかもしれないと思います。

食われ尽くしても、眠り続けていたいということかもしれません。

白雪姫と神田さやかさんーヘミシンクピンポンパンから思う

神田沙也加さんのことについて、ヘミシンクピンポンパンに書かれていました。

こうでなければいいのに、と思っていたのですが。「はぁ」と納得しました。
私は、神田さんのことは舞台も見てないし、そうファンでもないのですが、この方の歌や、舞台の一コマをYouTubeで見る機会があり、それは何年も前でしたが、心奪われました。

私は美しいものが好きで、顔も良い、歌もダンスも良いとこの人の素晴らしさに感嘆したのです。しかし、何年も前はそうみんなに評価されてなく、彼女には松田聖子の七光という言葉が付き纏っていました。でも、私はこのさやかさんを一目見て、感じました。この女優さんは七光なんかではない。松田聖子より、はるかに上回っていると思いました。これは私だけの感じ方なので、そんなことは口が裂けても言えないので黙っていましたが。

ただ、ふっと私は心配になったのです。もしか、七光なんて言葉でさやかさんが三流二世タレントとしてマスコミにバッシングされて出ているうちはいいが、少しでも母親を上回るような片鱗見せたらどうなるのだろう。優しい人だから、母親に遠慮して、雑魚を装い、4流タレントとして生きることをするのだろうか。子供は自ら身を引くようなところがありそうだけど、母親は、多分、我が子といえども潰しにかかるのではないか❓そんなことを考えてしまっていました。何年も前のことです。

多分、この人はほったらかしで育ち、いじめや嫉妬の中で子供時代を過ごしてきたのだ。その中で、見つけたのがミュージカルという道だったのだと思う...そしてみんなの予想に反し、親の力を借りず、自力と努力でミュージカルの主役をゲットしたのです。険しい道だったと思いますが、歌ったり踊ったりするのを楽しんでいたと思います。
それはこの人に相応しい道だったのですが、親をはるかに超えるこの人の資質は、親からすると厭わしいものだったのではないかと思えるのです。

白雪姫の継母は実は実母だったと言います。実の母の子供への嫉妬というのは結構あるようで、特によく聞くのは、自分より幸せになってはいけない。でも、自分よりはるかに格下でもいけないということです。このことを照らし合わせるとさやかさんの元旦那さんのことを実母が強く否定していたというのは、元旦那さんはさやかさんのことを大事にしていたということかもしれません。自分の手に入れない、自分を大事にしてくれる人を手に入れた娘は我慢ならんということです。

私のこのような推測はあくまでそのまま推測なので本当ではないかもしれません。でも、私がさやかさんの動画を見たときに見た怖れ...はなんとなく、秀でた娘はボコボコにしてやるみたいな空気を感じたのかもしれません。親と子、母と娘というのは、NHKの朝ドラみたいな優等生的関係ではなく、もっとおどろおどろしいおぞましいものにも満ちているからです。私は身内にも、友人の親子関係にもその匂いを嗅いでしまったので、鼻が反応してしまうのです。

全ては嫉妬からだと思います。恐ろしいことです。さやかさんのメーテル、見るのが楽しみだったのに。残念です。

久しぶりの適当ヒーリング

旦那のお母さんの整形外科送迎、付き添いをして帰ってきたのは、六時過ぎでした。適当に夕食を済ましてたら、旦那が「吸い玉をしてほしい」と言います。
背中が重いのでやってほしいとのことなので、お風呂の後に吸い玉をしてやりました。

その後、旦那に
「背中の上部の真ん中のここに悪霊とか入るのだよ。お母さんのマイナス思念もあんたのここがゴミ箱の口になってどんどん入ったのだろう」というと、旦那は「うっ」と言いました。
そこで、吸い玉の終わった後に、旦那の背中の上部のところから、適当ですが、入った黒々としたものを抜くことにしました。これも本当にあるのか、抜けているか、私はそんなすごい霊能者でもないのではっきりとはわかりません。が、やってみることとしました。

こんなのは、高いお金を払って霊能者に頼むこともないのです。
イメージだけです。旦那の背中の穴から変な黒々としたモヤモヤを抜くと思うのです。思いながら、それを引っ張ったり追い払ったりします。

しばらく時間がかかりました。そのモヤモヤを天使を想像し、適当な処理場へ持っていってもらうとイメージします。
手や自分達を綺麗なエネルギーで洗い清めるイメージを持ちます。大丈夫だなぁと思ったら、終了です。
「どうだ」と旦那に言ったら
「わからん」とのこと。

まぁ私がやったなんちゃって浄化なのでこんなもんだと思って食卓に戻って本を見ていたら、旦那が2階から降りてきて、水を飲みにやってきました。その部屋に入る瞬間の表情を見たら
「あれれー」

今まで思っていた旦那の顔と非常に違う若々しい顔をしていたのです。その後よく見たら歳相応のジジイ顔でしたが。なんとなく、あの若々しい顔は、浄化をしたからなのではと思っています。それと、旦那は多分、ずっと義母始めその他のマイナスエネルギーをゴミ箱がわりに受けていたのかもと推測しています。
これからもたまには効くかどうかわかりませんが、こういった浄化をしてもいいのではと思っています。

ヒーリングのようなものをした事情

つい先日、旦那と一緒に義母の整形外科への送迎と付き添いに行ってきました。車に乗せる、運ぶ、おろすは私がやり、病院内での付き添いは旦那がやりました。施設へ送り届けてからの介添えは施設の人がやってくれましたが。最後、施設の人に旦那が呼ばれ、

「○❌ぷんぷん...」なんとなく、色々と施設の人に怒られているようです。
「❓」

ここの施設の介護士の人はあんな上からの物言いはしないし、いつもいい感じなのに...
と思って待っていました。しばらくして、施設の人の話は終わり、旦那が助手席に乗り込んできました。
「なんか、あの人、怒っていたみたいだけど、なに❓」と旦那に聞いたところ、
「お袋がいうことを聞かないと、いうことだった。」
「そんなことを言われても、コロナで面会にもくるなと言われているのに、わしらにどうせいと言うんだろう」なんて憤慨しながら言うと、旦那は
「手に負えないから、もう面倒見れんと言われると困るじゃん。はぁ、すいませんと言うしかなかった」
などと言いました。

そこで私はこの間一人で義母を迎えに行った時、に結構きつく文句を言われたことを思い出しました。
「あぁ。あの人、この前もきつい物言いで、文句言ってたよ。」
でも、その年配の女性以外はそんなものの言い方をしないし、本当によくしてくれるので、私は怪訝に思いました。

「いつもは若い人たちがとっても親切なのに、なんでだろうね」
なんて、旦那に言ったら、
「あの人は看護師なんだわ」
なんか、あの年配の女性が上から目線で威張った感じなのがわかる気がしました。看護師だと、威張っていいのか❓なんて疑問に思いましたが、以前義母が認知のないときに、腰が痛いとかなんとかで、福祉サービスを受けていた時、義母があまりにも自分のやりたいままで、きついことも言い、担当の介護の人や、ケアマネが参りきってしまったことを思い出しました。

多分、今回は、介護の人が立派で、最大級に我慢強いだけであって、あの看護師の人が思うのが普通なのかもしれないなぁ。すると、色々と言われても謝るしかないかと思いました。こちらも言われても何もできないのですが、もう面倒見きれないと言われると本当に困ってしまいます。

そんなこんなで、家についてから、旦那が背中が重いと言いました。
続く

いろんなことがふとよぎるのですが

毎日を過ごしていて、昔出やらかしたまずい出来事や人などに似たものが出てきたときなど、「あっ」と思います。なんて自分は愚かだったんだとか、あれはなかったよなぁとか...
瞬間的に考えてしまうのだと思います。
申し訳ない気持ちや、恥いる気持ちが出てきて、声にならない声を「ぁぁ」と漏らしたりもします。

また、それほど、客観的には恥いる内容ではなくても、いかんかったのでは❓と思ってしまったり...
自信のある人はいいですね。私はよく考えると、さほど気にする必要もないようなことかもしれないことまで、申し訳ないような気になったりします。これは本当にどうしようもないです。この頃は諦めて、「あぁ」と思うことを自分だからしょうがないと思っています。

人である以上、全く品行方正では生きていけないですが、しかし、ちょこっとした愚行でも、そんなもんさと開き直ることもできないのです。こんなところに私の凡人たるところが現れているのですが、そんなことも含めて平気でいられる人はいいなぁと思いつつも、そんな人にはなりたくないとも思ってしまいます。そんなわけで私は今までもこれからもちょくちょく「ぁあぁぁ」とため息をついたり、申し訳ない思いに気を取られたりして過ごしていくのではと思います。

自分の数限り無い、「あぁ」というため息を自分で聞いていると、「これはこれでいいのさ」と思ったりもします。聖人にも、開き直ってそんなことは気にせず生きる人にもなれません。凡人なりに「あぁ」とため息を出しつつ生きるだけです。

地名と、運気

こんなに年月が経ってから「あっ」と気づきました。

以前、ヘミシンクピンポンパンでTやKがつく人について、関わらない方がいいぐらいの人、鬼畜っぽい人が多いと知りました。それから、私の今までの人生でひどい人はK、Tだったということに気づきました。Kと言ってもとてもいい人もいるので、全てがそうといった訳ではないです。

Kさん、結構パンチを食らわせられたなぁ。なんて思ったりするうち、自分の住んでいたり、学校、職場があったりしたところで、いいことが多かったところ、あまりにもひどいところ、あんまりよくなかったところ、まぁまぁのところなど、思い出してみました。

まずはTというところです。ここではいろんなことがありましたが、非常に打ちのめされることがあり、私はそこから出ることにし、Sというところになんとか脱出しました。Sではそういいことはありませんでした。でも、死んだ方がいいくらいのことはなく、まずは身体的にも心理的にも平穏に過ごしました。ただ、そういい感じでもなく、疎外感はありました。

その後、順番は前後しますが、Kというところにすみました。このKというところで私は人生を奈落の底に落ちるか、どうかの瀬戸際の際どい目に遭いました。ここでの体験は本当に凄まじく、就職や資格習得などは吹っ飛び、その後数年私はニートのような勉強しつつアルバイトといった情けないことをしていました。Kという地方都市であのおぞましい穴に入らなければよかったのですが。私は好奇心が強く、わざとそこに入ったので、なんとも弁明できません。私はとにかく知りたかっただけなのです。

そして、Nというところ。ここはとても楽しく、どこへ行っても自分の場所があり、非常に楽なところでした。そして、Bというところにも何年も住んでました。ここも楽しく、人も優しく、どこへ行っても歓待してくれました。

そして、TのSというところ、ここは半々かなぁという感じで、とっても楽しいとか、いろんな人が優しくしてくれて楽しいという感じはなかったですが、悪くもなく、自分なりに生きていたという感じですが、あんまり自分に合っていないなぁとは思っていました。あと思い出しましたが、ここでも人生の別れ道という岐路に差し掛かり、危険すぎる状況から脱出するために、私はようやく掴んだ職を振り捨てて、故郷へと一時帰ったのです。この時点で今までの努力はパァとなりました。

今住んでいるところは地名は出せませんが、TやKと言えるところです。ここでの暮らしはいわば妖怪、魑魅魍魎に囲まれて暮らしているような感じです。妖怪どもは周りなのですが、それらに誹謗中傷をずっと言われ続けて、ここでは色眼鏡で見られています。危ない人もいるので、玄関には長い棒を木刀がわりに置いてあります。

以上のようにざっと住んでいたりしたところを見返すと、どうも共通点があるのです。
TやKの地名のところは、私はどうも散々な目にあったということです。
BやNは反対にとても幸せであるのです。
Sはそれなりに認められ、生活できるが、そこにいて楽しいとか、実りがあるとかはなく、虚ろな感じ。

どうも、TやKは私にはまずいところらしいと思えてきました。でも、愛知県って、TやK、多いのですよ。引っ越すにしてもTKを除くとなると選択肢は少なくなります。が、NやBで暮らしていたことを思い返すと、いつまでもTやKにいてはいかんのでは❓と思ってしまいます。

こんなことを考え出したのも、子供がNに住み始め、家に何度か行ってその地の雰囲気がとても軽やかで住みやすいので感じたせいかもしれません。諦めてもいましたが、やはり、違う地へ越してもいいのではと思っています。

今日起きた、「不思議のアリス」の不思議なこと

今日は、雪が積もっていると思いきや、朝は晴れており、道にも雪はありませんでした。実は、昨日から旦那が古墳のある守山区に行きたいと言っており、そこに行くことにしました。

でも、本当はそこまで行くのに道が行きにくいし、めんどくさかったので私は最初「明日にしよう」と言いました。しかし気が変わり、行くことにしました。しだみの古墳まで、途中、庄内川を渡ります。春日井から名古屋市の間にある川で川幅もあります。その庄内川をわたっている間、ふと、不思議の国のアリスのうさぎの絵のことを思い出したのです。
私はアリスは何冊も持っています。アリスのシリーズはイギリス人のルイス.キャロルが書いたものですが、そのスペイン語版を持っていて、それと日本語訳を対照するため二人の訳者のものを持っています。絵も違う挿絵画家で、一つは気に入っているのですが、もう一つはあまりよくないなぁと思っています。

車を運転中、私はアリスのうさぎ、もう少し違う絵のうさぎってあるかなぁ❓なんて思いました。うさぎの絵、お茶会のカップの絵なんて、着物の図案にもいいかもなんて思ったり、それから分福茶釜のことを思い出したり。旦那にアリスのうさぎの話を言おうと思ったのですが、やめとこうと思ったのは、川を渡り終える前だったので、こんな思いつきはほんの数秒だったと思います。

しだみの古墳群を見た後、旦那がその近くの本屋にぜひ行きたいと言ったので、そこに寄りました。そこで吸い込まれるように、私たちは古本、20%引きという札に引き寄せられました。そこには色々な本があり、なんとヘミシンクの坂本さんの本なども二百円で売っていました。
「うわぁ、坂本さんのピラミッドの本まで二百円とは、」とびっくりしていたところ、旦那がある本を持ってきてくれました。「不思議のアリス」です。

えっ...
私はびっくりしました。アリスのうさぎのことはここに来る途中に頭に浮かんでいたのです。びっくりしつつも中をみると、なんと今まで探していても見つけられなかった、私の知らない絵のついたアリスで、しかもその絵はなかなか味がある絵だったのです。そして、訳もなかなか良い文でした。

これって...
「新刊でもあまりない見たことのないアリスじゃん」不思議の国のアリスの日本語訳はこれで三冊目になりますが、買うことにしました。

しかし、ここに来る途中で、アリスの今まで見たことのない絵のことをふと考えたのはなんだったのでしょうか❓また、ここにいやに旦那が来たがったのもこの「アリス」が呼んだからなのでしょうか。不思議です。本集めばかりしていてもしょうがないので、日本語訳三冊と、スペイン語版をまたよく読み込むこととします。

「おぃ」と起こされましたが

今日の朝、下から旦那が来て「おい」と言いました。もう10月から、朝は車で旦那を駅まで送っています。旦那が寝ている私を起こすので、起きないわけにはいきません。めんどくさいと思いつつも、いつも慌てて着替えて車を運転するのです。[朝ごはんは前の日に旦那の希望のものを用意しておいてあります]

今日もそんな朝の始まりでした。旦那が「おい」と言って私を起こしたので下へ降りて行って着替えたら、時計の針がいつもより一時間早いです。「あれ❓」いつもより一時間も早く旦那が私を起こしたのか❓そんなわけはないだろうが、変だなぁと旦那に「今さっき上のへやに行って私を起こした❓」と聞くと「❓なぜこんなに早く起きたの」と反対に訝しがる始末。

旦那は家を出る二時間前に起きるのでいつもと同じ時間に起きています。出るのは二時間後、私を起こすのもその時間です。私が寝ていて「おい」と起こされたのは旦那が起きて一時間後でした。
旦那はこんな中途半端な時間に私を起こしはしないし、実際、上の部屋にも行ってなかったようでした。しかし、私は男の声で「おい」とはっきり聞いたのです。

これはなんなのでしょうか。寝ぼけたのでしょうか。わかりません。

マッサージを受けてきました{ガイドの声❓}

今週はほぼ毎日用事が続き、疲れました。その雑事の間に、名古屋市内までマッサージに行ってきました。頭と背中、じっくりとオイルを塗ったり、蒸しタオルを当てたりして筋肉をほぐしてもらいました。

その間、半分眠り、半分起きているような感じでした。その微睡の中、誰かと私は話をしていました。ガイドなのか、誰なのかわかりません。色々と質問したりしたのですが、ほとんど忘れています。その中で自分について聞いていました。私はあんまり仕事もしていないし、世の中に奉仕もしていません。自分ではそれでも、もう少しスペイン語など上達したいとは思っているのですが、この頃は怠けてばかりいます。

ーこのままでいいのか。一体自分はこれでいいのだろうか。❓ーそんなことを相手に問いかけていました。すると、叱咤激励どころか、「生きているだけでいい」といった内容の返事がありました。その時、私はやっばりと思いました。これは自分に甘いとか、なんだとかいう人は言うと思います。でも、なんとなく自分自身では納得できました。

私はずっと四十くらいまではそれほど認めてはなかったのですが、四十過ぎであるセッションでガイドだか、なくなった霊だかに「あんたはもともと体が強くない。」なんて言われて以来、渋々認め始めたのです。どこか病気があるわけではありません。でも、子供の頃から体力がなかったのは本当です。そんなことを思いだし、自分の人生は華々しく活躍する一生ではなく、活躍しなくても、それなりに生きるという道を魂は選んだのではないかとこの頃は思っているのです。

なので、活躍はするし、みんなに期待されるが、体を酷使して生きる人生というのは最初からないシナリオだったのではと思いました。あんまり自慢できるような人生ではないですが、それはそれでよかったのでは❓と思っています。マッサージ中に聞いて感じた私の人生は、誰かのために生きたり、使命とかまるでないようでした。


なんとか生きて、それも楽しく生きれればそれでOK。奉仕や人のために生きている人もいると思うと恥ずかしいですが、こういう生き方ができるのも体が虚弱で無理が効かないからかもしれません。それはそれで良いのだと思っています。
後から思い出したのですが、以前書いた赤い糸に出てきた人たちの誰と一緒になってもやはり、そんなに無理して働く環境にいなかったと思います。どの人といても元気で生きているぐらいでそれ以上期待されなかったと思います。不思議です。

赤い糸

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霊能者を探す

私が、霊能者を探し始めたのはもう20年ぐらい前です。母が亡くなり、いろんなことを聞きたかったのですが、その当時はなかなか情報も乏しくインターネットも普及し始めたばかりでした。まだパソコンも持ってなかったし、情報の検索すらできませんでした。その後、パソコンを手に入れてから、手探りでいろんな人を探しました。クチコミも何も無しです。そんな状態で、あるチャネラーさんのことを知り、その人と、もう一人のヒーラーさんのコンビペアのところへ行ったところ、亡き母のことを正確に言い当ててくれました。

霊的なセッションはこのかたが初めでした。その後大先生に見てもらったり、名もしれないけど素晴らしい能力の人にいろんなことを言い当ててもらったりして、霊能者という人たちに出会う機会が多くありました。

今はもう見てもらいたいこともないので、霊能者さん達のことを探すなんてしてません。が、あの頃を思い出してみると、霊能力って、大先生だからとか、高いセッション料金だからとかでは保証できないものだったなぁと思います。街角の名もない人が驚くほどの能力を見せてくれることもあるし、評判の先生が「えっ❓」と首を傾げたくなる結果に終わることもあります。

難しいです。ただ、評判の人は予約も難しいし、料金も半端ではありません。時間もお金もない庶民としてはお金を払ったとしても、なかなかそんな偉い人のセッションには辿り着けないことも多いでしょう。ただ、私も最初は何もわからず、自力で全く無名の人にたどり着いたのです。その当時無名の素晴らしい霊能者さんはその後能力を発揮され、私などはセッションを受けられないほど、ブレイクされました。そんなこともあったなぁと今思い出しています。

良い霊能者さんに出会うというのは、多分、探したい人が真剣に探せば絶対にできることではないかと思います。
もしか、そんな霊能者さんに出会いたいと思っている方がいるなら、今はネットの社会ですので、意外とネットの片隅に埋もれているダイヤのような霊能者がいるのでは❓と思います。

諦める前に探してみるのも一つの道です。

プロフィール

握力は小学生よりない力なし。ひっそりとこのシャバの片隅でモーニングを食べている凡人です。猫、鳥、虫等、とやり合いながら暮らしています。

るんるうん

Author:るんるうん
またの名はクマネルです。ふしぎなことが好きです。着物も好きです。

たまに、魚を捌きます。猫におしっこをかけられたこともありますし、珍しい体験もあります。

たまに-クッテネル-が記事を書きます。そちらもよろしく。

いつのまにか歳をとりました。

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十二か月の着物

手持ちの着物を月ごとに替えて表示してみました。2015年1月
縮縮きものあわせIMG_1116  蕪柄の小紋と、金の傘の柄の帯 冬の野菜-かぶら-は、ほっこりとした暖かさを感じます。帯の地色は新春の華やぎを...

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